お貴族様なんて馬鹿馬鹿しくてやってられませんわ
「お前との婚約を破棄する!」
「はあ」
本当に、はあ、である。
今日は国の貴族たちが通う王立学園の卒業パーティーで、ホールの中央にある大階段の上から高らかに婚約破棄を宣言したのは、親が決めた婚約相手であるフリッツ王国第一王子のアンソニーその人だった。そしてその腕にしなだれかかるように寄り添っているのは、義理の妹のリリアなのだから、まあそうなるだろうな、というのが率直な感想だった。
あまりにも想像通りの陳腐な展開に、キャメリアは内心ため息を吐くが、己の断罪劇に酔いしれるアンソニーがそれに気付く気配はない。
中身がアッパラパーとは言え、アンソニーの血筋は間違いなくこの国の王位継承権第一位の王子であり、見事なブロンドの巻き毛に碧眼という美貌の持ち主である彼は、まるで物語から抜け出した王子様そのもの。傍らに寄り添うリリアは、ふわふわと柔らかく波打つピンクブラウンの髪に空色の瞳を潤ませ、逆境に耐える麗しのヒロイン様を見事演じて見せている。
対立するキャメリアと言えば、アンソニーよりも濃い蜂蜜のような金髪に、柘榴石の様な深い赤い瞳で、にらみつけるように真っすぐ目の前の二人を見つめている。これでは傍から見ればどうしても、愛し合う二人とその邪魔をする敵役の構図でしかない。小動物めいたある種のいたいけさを持つ義妹とは違い、どちらかと猛禽類を想起させるキャメリアの眼力の強さは、ただの生まれついた顔立ちの問題だというのに。
「お前は婚約者である身分を笠に高価な宝飾品ばかりを身に着けているが、リリアはいつも慎ましい安価なものを身に着け、それでいて愛らしく身なりを整えている。また、彼女はお前と違って政治に関しても酷く優秀だ。慣習に従うだけで中抜き業者に高額で仕事を割り振るお前と違い、リリアは国庫のことを考えより安い業者を探し出し仕事を割り振る提案をしてくれる。
お前は一度でもそういったことを提案したことがあるか?
贅沢ばかりの金食い虫め、どうだ、何か申し開きはあるか」
「──いいえ、ございません」
なるほど、物は言いようだとキャメリアは頭を下げ、顔を伏せたまま考える。
確かに単純にドレスの価格だけを見れば、キャメリアの身に着けているものは金貨50枚はくだらなく、リリアのそれはおそらく金貨10数枚程度でおつりがくるだろう。
けれど普段着以外では年に二度、国家樹立記念パーティと新年会の時にだけドレスを新調するキャメリアに比べ、リリアはやれお茶会だお披露目会だと、理由をつけては月に何度も仕立て屋を呼びつける始末だ。確かに今回は卒業パーティだからとキャメリアも珍しく三回目のドレスを新調したが、それにしたって総額で見た際にどちらにより服飾費が嵩んでいるかなど、わざわざ説明するだけ馬鹿らしい。
宝石にしたって同様だ。キャメリアが今身に着けているものも、祖母から受け継いだ高価で貴重なものであるが、デザインを少し今風に直しただけで、宝石自体はあくまで譲り受けた物に過ぎない。反面、流行りのデザインの比較的安価な宝石を使い捨てるように新調するリリアは、祖母からのおさがりになど見向きもしない。先週購入したブローチも昨日身につけたネックレスも、おそらくどこにしまったかも覚えていないだろう。安物買いの銭失いという言葉があるが、まさしくそれだ。質の良い宝石は投資になりえるが、ただ流行りのデザインなだけの装飾品は流行りが終われば価値も消える。
貴族が高価なものを身に着けるのは、職人の技術を後世に残すため。リリアの身に着けているドレスのような機械縫いの刺繍は、今後平民たちにも広く普及していくだろう。安い模造宝石も、庶民を中心に人気が出るに違いない。けれどそれは同時に、手縫いの刺繍技術や宝石加工技術が失われていくことを意味している。
高位貴族でもなければ手の届かない品を作り上げる職人の技術は、一朝一夕で培えるものではない。その素晴らしい技術を後世に残すためには、買い支える存在が必要不可欠だというのに。本来その責を担うはずの貴族が安物に手を出しては、いったい誰が彼らの生活を支えるというのだろう。
業者への発注にしたってそうだ。ただ安いだけの業者は、いくらでも存在している。はたしてそれが、労働者を安く買いたたき安普請の工事で、儲けを懐に入れることしか考えていない悪徳業者ではないと見極める能力がリリアにあるとは、とても思えないけれど。
ある程度の格を要求される国家の事業として、ノウハウや相応の技術を持つ業者は確かに単価が高い。けれど、そこには過去の実績と相応の信頼がある。発注している側がなかなか気付けない部分へのフォローが手厚く、長らく請け負ってくれているからこそ配慮が行き届いているのだ。そこに値段以上の価値があることを、おそらく説明したところでアンソニーもリリアも理解はできないだろう。
「お前のしでかした悪行に関しても、既にその噂は周知されている。よって、改めて宣言しよう。アンソニー・フリッツの名において、ここにキャメリア・アスターとの婚約を破棄する!」
「──謹んでお受けいたします」
悪行に関しては正直何のことかあまり見当がつかないのであるが、おおかたリリアが泣きながら義姉から受けた架空の虐待の話など吹き込んだのだろう。見た目は虫も殺せぬような愛らしい風貌をしているというのに、他人を陥れることに関しては天才的な手腕を発揮する義妹のことだ。そこらの女優顔負けの演技力で訴えたに違いない。
正直、それ以外の才能を持っていない見た目だけの浅はかな女だ。王妃など担える器ではないことを、キャメリアはよく知っている。どうせアンソニーをたぶらかした理由だって、王子様と結ばれるなんてとってもロマンティックだわ☆彡くらいにしか考えていないだろう。
それらを覆す証拠のあてがないわけでもないし、やろうと思えば今この場で己の身の潔白を晴らすこともできたが──やめた。そこまでの労力をかける理由がない。あくまで手札は残しつつも、切り札を切ることはせずに、このくだらない表舞台から引き下がることをキャメリアは決めた。
深々と一礼して、踵を返しホールを後にする。
あまりにもあっさりと婚約破棄を受け入れるキャメリアへ、背後からアンソニーの戸惑いを含んだ罵声が聞こえたが、もうそれに反応する義理もない。
キャメリアは、自ら望んで婚約者の立場に甘んじていたわけではない。そこには様々な政治的意図と、未来の国政を見据えた下準備があった上で、ある種の人柱としてその座に据えられていたのだ。
そんなこともわからぬ──ましてや、目の前の物事だけに騙されるような頭の弱い王子の婚約者など、こちらから願い下げである。向こうから破棄してくれたお陰で手間が省けたことを嬉しく思えるほどだった。
こうして、王族との婚約は破棄された。そして、破棄された翌日には、キャメリアの次の嫁ぎ先は決められていた。相手は貴族ですらない、商家なのだという。とうとう金だけで売られたのかと察すれば、もはや文句を言う気力も湧かなかった。
アスター家は血筋の古い、由緒正しい公爵家ではあったが、キャメリアの生活は決して恵まれたものではなかった。キャメリアの実母は早くに亡くなり、後妻となった義母も義妹もキャメリアのことを快く思ってはいない。父は血の青い貴族を絵に描いたような人間であり、血の繋がったキャメリアのことも手駒の一つとしか考えていない。王族に嫁がせるために最低限の手はかけてもらったし、貴族としてふさわしいだけのお金もかけて育てられた。けれど、あくまでそれだけだ。そこに家族としての情は存在していない。
「これにて、我が公爵家とお前の縁は完全に切れたと思え。成り上がりに離縁されても、二度と戻ってくるな」
これが、嫁入り前夜に、父親だった男と交わした最後の言葉である。
一応、嫁ぎ先は爵位を求めてキャメリアとの結婚を希望しているわけなので、国境に近い何の価値もない田舎の領土を一部譲り受けることで、分籍という形で名ばかりの一代爵位を得た。これは、実質手切れ金のようなものだろう。
そうして実家を追われたキャメリアが馬車に揺れられついた先は、アスター公爵家ほどではないが、なかなかに立派なお屋敷だった。
そういえば最近、没落した某伯爵家の屋敷が売りに出されていたという話を聞いたが、もしかするとここがそうなのかもしれない。
屋敷の一室へと案内されると、そこには男が二人いた。
一人は、服装から見て司祭である。そして、もう一人の青年が、キャメリアの嫁ぐ相手なのだろう。お手本のようなカーテシーで挨拶をすると、忌々しそうに舌打ちをされた。
初対面で結婚相手に舌打ちをするような男との結婚ね、と、心のうちだけでキャメリアも舌打ちを返す。不本意な婚姻なのは、お互い様なのだ。
「それでは、夫婦となるお二人が揃われましたので、これより立ち合いを行います」
キャメリアの感情などお構いなしに、司祭らしき男は淡々と話を進めていく。
教会ですらなく、自宅の一室で婚姻手続きをする貴族など聞いたことがないが、それだけ最低限に済ませたいというのだろう。正直、キャメリアとしてもその気持ちに関しては同意しかないので、特に反発することもなく粛々と司祭の話を聞くけれど。
そもそも別に、この儀式自体には大した意味はない。ただ妻となる人は、夫となる人はといった、形式ばった話をするだけなのだから。
「ご両人、こちらの宣誓書にサインを」
司祭に促されるままサインを記入する。なんの実感も沸くはずがないが、これでキャメリアは嫁いだことになるらしい。
書類に不備がないことを確認すると、司祭は事務的に祝福を告げ、足早に帰っていった。おそらく、この気まずい空気に耐えられなかったのだろう。
そうして静かな部屋に、キャメリアは夫となった人と二人きりで取り残された。
「お前とは書類上夫婦となったが、勘違いするな。これはあくまで体面のための婚姻である」
「……承知しております」
これが、夫となった人と初めて交わした会話だ。
キャメリアの新しい結婚相手である彼── ユージン・ロックハートは商人だ。庶民の出でありながら整った顔立ちの青年で、肩につくほどの長さのシルバーグレイの髪を後ろで一つ結びにしている姿が妙に様になっている。背はスラリと高く、その場に立っているだけでまるで絵画のように様になる。
正直、爵位を望みさえしなければ、キャメリアのような訳あり令嬢を娶らずとも選び放題だろうに。
まだ年若いこの青年は、人並外れた商才を持ち、彼の父親が起こした商会を継ぐや否や、瞬く間にこの国有数の巨大な商会へ急成長を遂げさせた。
事実、キャメリアが婚約破棄された翌日、間髪を容れずに婚姻を申し込んだ耳の早さと決断力には、その商才の片鱗を伺い知れる。
この男は近く貴族向けの商売を始めるつもりであり、その足掛かりとして貴族の配偶者が欲しいのだという。昨今ではこの世界でも身分平等を叫ばれてはいるが、いまだ身分の差は根強い。貴族籍を持たなければ入場を許されないサロンなどごまんと存在しており、また貴族の商談はそういった店でこそ交わされる。
つまりこれは結婚とは名ばかりの、金で爵位を買った行為に等しい。
男はそれを隠そうとはしなかったし、キャメリアも当然それを理解している。拒否権は、どのみち存在していないのだけれど。
「こちらは宣誓書とは別の、この婚姻生活を円滑に送るための契約書である。内容を確認し、問題がなければサインをしてくれ」
「はい」
契約書には「甲と乙の関係はあくまで書面上のものとし、挨拶の接吻・抱擁を含むあらゆる肉体的な接触は行わないとする」「甲乙どちらかに婚姻関係継続不可の瑕疵が発生した場合、速やかに離婚に応じること」「離婚の際に財産分与は行わない」など、到底新妻相手に差し出すとは思えない内容が列挙されている。
キャメリアはそれらの内容を一つ一つ丁寧に確認し、すべての記載内容を把握をした上でサインをした。
サインが終わると、ユージンは契約書をすぐさま回収し、足早に部屋を出ていこうとする。さすがに性急すぎるのではと、キャメリアは夫となった人へ声をかける。
「あの、旦那様」
そのたった一声に、アイスブルーの瞳が蔑むようにキャメリアを睨みつけた。
「むやみに話しかけるな。お前のような下品な人間と、必要以上に関わりあうつもりはない」
そう言い捨てて部屋を後にした書類上夫となった人の背中を見送りながら、取り付く島もないわね、と、キャメリアは盛大にため息を吐いた。
*
「こちらが奥様のお部屋です」
それだけ言うと、キャメリア付きの侍女のはずの女は踵を返し退室する。通常であれば着替えなどの準備を担うのが彼女たちの仕事のはずであり、主人の許しなく下がるなどありえない話だ。つまり、この家の使用人は、新しく来た女主人を快く思っていないということだろう。
キャメリアにあてがわれた部屋はそれなりの規模ではあったが、到底掃除が行き届いているとは言えず、調度品も貴族令嬢を迎え入れるにはあまりにも貧相だった。
寝台も一応整えられてはいるが、どこか埃っぽさはぬぐえない。着替えて腰かけると、ギシギシとやけに大きく軋む。
そもそも普通の令嬢ならば、このように扱われることなどおそらく耐えられないだろうが、幸いにしてキャメリアは普通の令嬢ではなかった。
いわゆる、転生者なのだ。
生まれてこの方生粋の貴族として生きてきたキャメリアは、二年ほど前、令和の時代の日本で生きた前世の記憶を思い出した。いつ亡くなったのかという詳細までは思い出すことができないが、当時流行していた悪役令嬢ものの転生小説を散々読み込んでいた記憶はしっかり残っていたため、此度の断罪劇も「進研ゼミで習ったやつだ!」程度のテンションで乗り切ることができたのだ。
しかし、前世の記憶があるというのは、必ずしも幸せなことばかりではなかった。特にキャメリアにとっては、記憶を取り戻してからというもののろくな娯楽のないこの世界はひどく退屈だったのだ。
スマートフォンもゲーム機もない、漫画どころか娯楽小説すら乏しい世界は、娯楽大国日本出身として大変に耐えがたい日々であった。
いわゆる貴族であるための教育は厳しく忙しく、うっかりかつての平民のような振舞いをしようものなら酷く叱責された。ひどく窮屈で、その上くだらないしきたりに雁字搦めにされた日々は、拷問のようだった。
そして貴族らしくその責任を全うするべく生きていたら、今度はそれを咎とされ断罪される始末。新しい嫁ぎ先では厄介者扱いされて、平穏な生活すらままならない。
くだらない。心底、くだらないことばかりだ。
だから、もういい加減耐える必要もないだろう。
記憶を取り戻してから、こうなる予感はしていた。だから、ここに至るまでにある程度の準備はしていたのだ。
世界がキャメリアをそう扱うのであれば、キャメリアにも考えがある。
「この分では明日の朝食が楽しみだわ」
今後の展開を予想しているうちに、眠気は訪れる。連日の騒動で疲れ切っていたため、幸か不幸か粗末なベッドでもぐっすり眠ることができた。
▼
「奥様、おはようございます」
翌朝、身支度を整えたキャメリアが食堂へと赴くと、食堂の隅では、こちらの様子を窺いながら数人の侍女がくすくすと下品な笑い声を立てていた。
机の上を見れば、その嘲笑の理由もよくわかる。
籠に盛られているのは見るからに古そうな乾いたパンで、皿からこぼれテーブルを汚しているスープは、焦げた野菜カスが浮かぶだけのみすぼらしいものだった。卵料理もバターもなければ、温かい紅茶の一つも用意されていない。その辺の庶民のほうが余程良い食事をしていることだろう。
というか、本来侍女はキャメリアの身支度の手伝いをしなければならないというのに、その役割を放棄してこんなくだらない嫌がらせの仕込みをしていたというのだろうか。
まったく想像通りの展開で、とうとう笑いがこらえきれなくなる。
くつくつと笑うキャメリアの声が、静かな部屋によく響いた。
「一体何がおかしいのよ」
突然笑い出したキャメリアに、侍女たちは戸惑うようにざわつく。
──だって、予想通りにもほどがあるのだもの。これを笑うなと言われても、難しいわ。
「ああ、あまりにもくだらない。この家の主人は、気に入らない相手の食べ物に細工するような、品性下劣な人間なんですのね」
「なっ……! ご主人様はそんな非道な人間ではありません! あなたとは違うんです!」
「そうよ! あなたのような人間に食事を出してあげるだけありがたく思いなさいよ!」
こんなに煽り文句に律儀に反論する愚か者に、キャメリアは思わず高笑いをする。いよいよ我慢の限界が来たと思ったら、無性に笑えてきた。
前世の、悪役令嬢物の小説を読んでいた頃から、特に不思議だったことがある。
身内だけならいざしらず、使用人たちの越権行為ともいえる暴挙に、なぜヒロインたちは黙って耐えていたのだろうという点だ。
もちろん、酷く虐げられていた方が"ざまあ"した時のカタルシスも大きくなるし、何しろ健気な主人公もアピールできて良い。反論する元気もないほど搾取されているのが、ヒロインたちの王道だった。
でも同時に思うのだ。そういった人間をのさばらせている側にも、罪はあるのではないかと。
「使用人の格はその家の格。旦那様は昨夜人のことを下品だなんだとさんざん偉そうなことを言っていたくせに、肝心なご自身の家の格はこの程度なんですものねぇ。こんなもの、笑わずにはいられませんわ」
これは確かに断罪されて婚約破棄された悪役令嬢に似合いな家ですこと。そう言い捨てて、再び声を上げて笑う。
キャメリアの言葉に逆上した侍女達が騒ぎ出すと、騒動を聞きつけたユージンが現れた。
「一体何の騒ぎだ」
「おや、旦那様。ちょうどよかった、一緒に朝食を召し上がりませんこと?」
「何故おまえなどと一緒に……」
反射的に憎まれ口をたたこうとし、しかしすぐ食卓の異変を感じ取ったのであろう。テーブルの上の惨状を確認したユージンは、慌てたように使用人へ視線を向ける。咎められる気配を察知した彼らが慌てて視線を逸らすと、ユージンは全てを理解したように顔を青ざめさせた。
悪妻を咎めに来たつもりが、身内と信用していた使用人の嫌がらせ行為を目の当たりにしたのだから、その反応は無理もない。
「嫌ですわよねぇ、こんな汚物のような朝食を口にするのは。ああでも、もしかして成り上がりの商家では、こういった食事が一般的なのかしら」
「っ、ふざけるな! 馬鹿にするのも大概にしろ!」
「馬鹿にしているのは、一体どちらかしら」
自分でも驚くほど低い声が出る。周囲の空気が一瞬で凍ったのがわかった。
けれど、もういいだろう。キャメリアは、もうこれ以上、何にも耐えるつもりはないのだ。
「こちらは、あなたが手配なさったんでしょう?」
「……俺がこんなくだらない嫌がらせをするような、下劣な人間だと愚弄する気か」
この期に及んでまだ強気に出れるその神経は、見上げるものがある。まぁ、決して褒められたものではないけれども。
「あら、違うんですのね」
「当たり前だ!」
「そう。では、独断でこのような振る舞いをした使用人には、相応の罰を与えなくてはね」
再び水を打ったように場が静まり返る。射殺すようなキャメリアの視線に震え上がる侍女は、まさしく窮鼠そのものだ。
「あ、あんたに一体なんの権限があるのよ」
「そうよ! ただのお飾りのくせに、偉そうなことを言わないでちょうだい!」
噛みつくにしてはあまりにも拙い罵声に、思わずキャメリアは吹き出してしまう。
「ご存じないのかしら。貴族社会において、使用人に関する責任は奥方が持つもの。常識でしょう?」
使用人はしばしば家財と同等に扱われ、家の中のこととされるそれらの責任者は通常奥方に一任される。これは男は外で働くもの、女性は家の中にいるものという古い風習からくるものではあるが、今でも婚姻を結ぶ際に署名する結婚宣誓書に記載されている一文である。昨日キャメリアがサインをした宣誓書にも、当然同様の文言が記されていた。
そもそも貴族の屋敷で働くならば、当然誰もが知っているはずの常識だというのに。
「つまりお飾りだろうとなんだろうと、あなた方使用人に関する責任者はわたくし。長く勤めていようが、あなた方はただの使用人。そもそも、気に入らない相手だとしても、主人に黙って勝手なふるまいをするなど許されるはずもありません。そんな当たり前のことがわからぬ人間を、どうしてそのまま雇っておくとお思いなのかしら?」
あなた、ずいぶん呑気なのねぇ。クスクス楽し気に笑いながら、主犯格と思しき侍女の前へと歩みを進める。
恐怖に顔をひきつらせる侍女に、キャメリアは美しく微笑んで見せる。
「旦那様が命じていたのであれば、わたくしへの狼藉も甘んじて受け入れますけどね。けれど、どうやら違うようですし。それなのでしたら、独断でこのような振る舞いをする使用人は必要ありません。あなた方は、いざという時に旦那様の足枷になりましょう」
「なっ……私たちは、あんたなんかよりよっぽど旦那様を」
「ええ、ええ。さぞ深く慕っているのでしょう? そして今、旦那様を窮地に立たせている。あなたの愚かさが」
視界の端で、息を潜めて成り行きを見守っていたらしい旦那様の肩が揺れる。商売人だというのに存外腹の内を読みやすいその素直さに、笑い声には出さず口の端を持ち上げる。
「ねえ旦那様、わたくしはこのような扱いを受けることを『婚姻関係継続不可の瑕疵』と捉えますけれど、よろしくて?」
「っ、それは……!」
それは昨夜、キャメリアが突き付けられた契約書に記載されていた文言だ。
実際、嫌がらせは正直予想の範囲内であり、離婚を持ち出すには正直理由として弱くはあったが、あの契約書を用意したのはユージンであり、それに則った状況であれば、条件に合致していると主張することは可能だろう。
「いや、だが、いくらなんでも嫁いだ翌朝離縁というわけにはいかないだろう?」
「いいえ、わたくしは構いませんわ。このまま離縁されたとて、結納金は実家に渡ったものですし、返金した末に実家が困窮したところで、既に縁を切られているわたくしにはどうだって良いこと。なんなら最低限の荷物だけまとめて、今すぐにでも出ていきますわよ。
でも旦那様は違うでしょう? 貴族相手の商売を本格化するにあたり必要だったから、わたくしと婚姻なさった。そして今離縁されては、当初の目的を果たすことはできず、今までの苦労が水の泡」
静まり返った食堂内に、キャメリアの楽しげな声だけが響く。
「貴族相手の商売に本腰を入れるためにわざわざわたくしのような女を娶ったというのに、商売を始める前に離縁になれば何もかも台無しですものねぇ。他に商人に嫁いでくれるような貴族令嬢なんて、いたかしら。いたらとっくにそちらに求婚していたでしょうけれどもね」
わざわざあんな契約書を用意してまで結婚したのだ。もう他に道がなかったのだろう。
あのいけすかない旦那様の努力をすべて無駄にしてやるのも面白いけれど、今はそれより愚か者への制裁が先だ。
「わかる? あなたは今、あなた自身の愚かな振る舞いによって、大切な旦那様の苦労を全部無駄にしようとしているのよ」
もちろん、わたくしがこうして断罪などせずに泣き寝入りしていれば、また話は違ったでしょうけれど。そんなことをしてやる義理は当然ない。
にっこり微笑んで言い聞かせてやると、いよいよ己のしでかしたことの大きさを理解したらしい侍女は、涙目になりユージンへと泣きついた。
「だ、旦那様……!」
同様に己の立場が不利であることを理解したユージンは、先程までの高圧的な態度を改める。
「すまない。此度の使用人の無礼は、俺の手落ちだ。俺の監督不行き届きとして、許してほしい」
「も、申し訳ございませんでしたぁ! なにとぞ、なにとぞご容赦くださいませ……!」
「わ、私ももう二度とこういったことはしません! 奥様、どうかお慈悲を!」
ユージンの謝罪に続くように、侍女たちはみっともなく取り乱して頭を下げる。
そんな姿を見せたところで、今更キャメリアに何を望むと言うのだろう。まさか、この期に及んですべての罪をなかったことにしてほしいなどと、厚顔無恥な考えを抱いているのだろうか。
「ああ、本当にどいつもこいつも、酷い思い違いをしている。身の程知らずの馬鹿ばかりで、本当に吐き気がするわ」
くだらない。何もかも、心底くだらない。
こんなくだらない世界のためにこれ以上自分をすり減らすなど、まっぴらごめんだ。
「キャメリア嬢……?」
「あら失礼、ついうっかり心の声が漏れてしまったわ」
もう何もかも億劫だった。取り繕うことすらやめたキャメリアは、音を立てて椅子を引き、そこにどっかり腰を掛ける。貴族令嬢らしからぬ異様な振る舞いに、使用人たちの戸惑いが見て取れた。
「旦那様、なぜわたくしがあなたとの結婚を受けたかご存じ?」
「……財産目当て、ではないのか」
「父はそうかもね。でも、わたくしは違うわ。あなたは、まだ分別がついていると思ったからよ。社交界での評判が悪く、何の情もない女を、自分の商売の足掛かりにするためだけに迎え入れることができる。自分の感情と損得を秤に乗せ、利をとることができる人間だと見込んだから、あなたに賭けようと思った」
「……それは、褒めているのか」
「ええ、もちろん」
それは一般的な誉め言葉とは、ずいぶんかけ離れているだろうけれど。
「貴族には貴族としての身の振り方が。立場ある者は、それに対する責任を負う必要があります。己の感情だけで、好き勝手には生きられないのです。
ですからわたくしは、そのようにふるまって生きてきました。今もそうです。そうでなければ、何が楽しくてこんな低俗な茶番に巻き込まれておりましょうか」
カビの生えたパンを手に取り、かごへと放り投げる。わざわざこのためにカビを生やしたのかしら。それとも、ゴミ箱から拾ってきた? どちらにしても、無駄な労力だ。他人に嫌がらせをするためだけに、こんな暇なことをするなんて。奥方付きの侍女というのは、そんなに楽な仕事なのだろうか。
「使用人には使用人の。商人には商人の。貴族には貴族のなすべきことがあります。だというのに、どうしてたったそれだけのことがわからない人間が、世の中には多くいるのかしらね」
だから、もういいでしょう。
もう自分の役目は十分果たしたといえるでしょう。
立ち上がり、かつかつとヒールの音をわざと響かせて、侍女の前へと歩み寄る。
「ねえ、あなたたち。いい加減顔を上げてくださる?」
許されたと思ったのだろう、侍女たちの表情が明るくなる。その能天気さは、ある意味羨ましくすらあった。
「さっさと荷物をまとめて出て行きなさい。もうこの屋敷に、あなたがたの居場所はありませんわよ」
「なっ……! 彼女たちの狼藉に関しては、俺が既にっ」
「ですから、あなたの謝罪にどれほどの価値があるんですの?」
勘違いをしているのは、どうやら侍女だけではないらしい。この機会に、きっちり教え込まなければ。
「もしも逆の立場だったら、あなたならどうなさいます? わたくしの家に婿入りし、わたくし付きの侍女が楽しそうにあなたに残飯を与えたとして、わたくしの居丈高な許してほしいの言葉一つでお許しになりますか? 手打ちにした後、その侍女に今後一切の自分の身の回りの世話を本当に任せられますの?」
にっこり微笑みながら、わかりやすく噛み砕いて説明してやると、ユージンの表情がわかりやすくこわばる。
まったく、こうも丁寧に言わなければ気付けなかったのだろうか。彼女たちの行いが、どれほど悪質だということが。
「その者たちに退職金を与えるなり、新しいお屋敷の紹介状を書くなりは、あなたのお好きになさってくださいな。けれど、このままここで働き続けることだけは、わたくし、許しませんわよ」
これはせめてもの恩情だ。だが、これ以上譲るつもりはない。
ユージンが引き絞るような声で「わかった」と呟くと、何人かの侍女はその場に崩れ落ちる。今この時まで、自分のしでかしたことの愚かさに気付かなかったのだろうか。本当、どこまでも愚かだわ。
この分では、賭け負けたかもしれないわ。別に、それでもかまわないけれど。
少なくとも、今後使用人たちがキャメリアに嫌がらせをすることは表面上なくなるだろう。
もちろん陰で何かされたとしても、手心を加えるつもりは一切ないけれど。
「ところで、あんたもさっさと今後の身の振り方を考えたほうがいいわよ」
「それはどういう意味だ」
泣き崩れる侍女はスルーして、端に突っ立ってるユージンへと向き直る。
「だって、こんな国の爵位なんて、後生大事にしたってなんの価値もないわよ」
「は?」
「これから、あのバカ王子が王位を継ぐってんだもの。国政なんてすぐダメになるわよ。貴族相手の商売が終わったら、さっさと売るもん売りぬいてよその国に行きなさい。その方がまだマシよ」
「あ、あの、キャメリア嬢……言葉が」
さすがに違和感を覚えたのか、ユージンは戸惑いながらキャメリアに問いかける。けれどキャメリアは、もう舞台から降りることに決めたのだ。
「あのさぁ、私も、もうやめることにしたから」
「はぁ?」
「だから、お貴族様として生きること、やめるわ。使用人ですら身の程知らずばっかりなのに、貴族令嬢だけ真面目にお貴族様ぶってろって? バカみたい、やってらんないわよ」
貴族社会の秩序とやらを大事にしようとせっかくそれらしく振る舞う努力を続けてきたというのに、肝心の周りの人間が勝手な振る舞いを続けて台無しにするのだ。ならば、キャメリアにもわざわざこの茶番をやり通す義務はないだろう。
ここまでよく我慢した。自分で自分を褒めながら、キャメリアは上機嫌で食堂の扉を開ける。
「あ、そのゴミは片づけといてよ。それでは皆様、ごきげんよう」
一応去り際だけは美しくあろうと、王妃教育のたまものである完璧なカーテシーを披露し退室する。
後には、困惑と絶望の中にいる人間たちだけが取り残されていた。
朝食騒動の後、半刻ほどして、ユージンが部屋を訪ねてきた。
「今、いいだろうか」
「よくないけど」
「……少し話がしたい」
「私はしたくない」
遅かれ早かれ彼の来訪は予想できたことだが、正直朝ごはんを食べ損ねて不愉快な騒動に巻き込まれたこともあり、楽しくおしゃべりという気分でもない。
諦めて帰ってくれればラッキーとばかりに、塩対応に徹する。
「書類上といえど、俺たちは夫婦だろう?」
「あら、下品な人間と必要以上に関わるおつもり?」
昨夜の旦那様のお言葉をまるっと引用すると、ドアの向こうで息をのむ気配がした。
この程度の嫌味で怯むくらいなら、最初の悪辣な態度は一体何だったのかしら。人のことを傷つけることはどうとも思わないけれど、矛先が自分に向かうといっちょ前に傷つくだなんて、なんて身勝手なのだろう。
「……これまでの謝罪も含め、改めて話がしたい。どうか機会を与えてくれないだろうか」
「……まあ、いいでしょう」
そうは言っても、ここで意固地になったところで何も進展はしない。
ドアを開けると、ユージンはあからさまにほっとした表情を浮かべた。
部屋へ招き入れると、貴族令嬢の妻にあてがわれたにしてはあまりにも貧相な部屋の様子に、改めて何か思うところがあるようであった。
これも、確認を怠ったあんたの責任だからね、と内心毒づく。
碌な調度品もない部屋の中で、キャメリアはベッドに腰掛ける。ユージンは、部屋の真ん中で所在なさそうに立っていた。
「それで、話って何かしら」
「その前に、まずは謝罪を。……考えてみれば、俺はあなたとろくに話もしないうちから、悪評を信じあなたに辛く当たっていた。一人の人間、それも妻になろうという人間相手に取る態度ではなかった。今更ではあるが、改めて謝罪させてほしい。……誠に、申し訳ないことをした」
「あら、悪評は真実かもしれないわよ?」
実際、貴族然と振る舞うことをやめた今のキャメリアは、妃教育の施された上品なお嬢様とは程遠いだろう。ある意味、悪評通りの下品な振る舞いと言えなくもない。
「それでも、俺はまだ俺自身の目で何の事実確認もしていない。それは、フェアじゃない」
「へぇ。……今、初めて、あなたを少しだけ見直したわ」
「えっ」
「多少は自分の頭で物事を考えられる人間でよかった、という意味よ」
少なくとも、自分の非を認め謝罪できる程度には、真っ当な人間なのだろう。
「……誉め言葉として受け取っておこう」
「ええ、そうしてちょうだい。それで? 肝心の用件とやらは?」
「……昨夜、俺に何か話しかけようとしていただろう。今更だが、聞かせてくれないか」
「なんだ、そんなこと。別にたいした話じゃないわよ。どうせ長く婚姻生活を続ける気はないだろうから、離縁する日を先に決めておかないかって相談をしたかっただけ」
キャメリアの提案にユージンが息を呑んだのが分かった。
続く言葉を探しあぐねているようではあったが、戸惑いを隠すことなくユージンはキャメリアにその真意を問う。
「何故、そう思うのだ」
「何故もクソもないわよ。こんなバカげた生活いつまでも続けられるはずないでしょ」
「クッ…?!」
突然恐ろしく言葉遣いの悪くなった妻(一応)に、ユージンは目を白黒させる。
しかし取り繕うことをやめたキャメリアは、今更言葉遣いを直す気など毛頭ない。
「私はね、もうさっさと馬鹿馬鹿しい貴族社会からおさらばしたいの。あなたの商売が軌道に乗るまでは表向きはおとなしくしておいてあげるけど、あんまりズルズルと続けたくもないから、終わりを決めておきたいのよ。
だからとりあえず、三年くらいでどう? それだけあれば貴族商売もなんとかなるでしょう? さっきも言ったけど、あんまり長く続けるとこのしょうもない国と共倒れになるわよ」
キャメリアが正直に己の心の内をさらけ出すと、それが本気だと伝わったのだろう。ユージンは表情を固くしたまま食い下がる。
「だが三年後に離縁したとして、その後キャメリア嬢はどうやって生計を立てるつもりなんだ」
「商人として他国で生活するつもりよ」
「商人?! それも他国で?!」
貴族が商人になることは、通常であればまずありえない。それも令嬢が、他国でとなればなおさらのことだ。
「そう、色々商売しながら、良さそうな国を見つけたら移り住む予定」
「いや待て、それはさすがに無謀すぎる」
「心配には及ばないわよ。目利きとしちゃあ、並の商売人に後れを取ることはないし」
「だとしても、商売はそんなに甘いものではない。商会を登記するのも決して簡単な話ではないし、他国相手ともなれば販路を確保するだけでもあらゆる手続きが……」
「あ、それは大丈夫。商会はもう持ってるし、他国への輸出入のパイプもある。たとえ今すぐあなたに放り出されたって、別に何にも困りゃしないわよ」
追い打ちをかけるように告げると、いよいよユージンは口を開けたまま呆然としている。せっかく美しく整った顔が台無しだ。まあ、台無しにさせたのは他でもないキャメリアなのであるが。
「商会を、持っている?」
「ええ。パスカリ商会ってご存じ?」
「知っているも何も、今大変貴族に人気のある、外国の美術品や宝飾品中心の……まさか」
「そのまさか、よ」
ユージンが説明してくれた通り、今貴族の間で大変人気のあるパスカリ商会というのは、キャメリアの興した商会だ。
確かな品質の宝飾品、入手困難な他国の名産品など貴重な品を手に入れたければパスカリ商会へ行けというのは貴族間の常識であり、そこで買い物をするということは一種のブランドとなり確かな地位を確立している。
元々はあの馬鹿のために受けさせられたものだけれど、妃教育様様である。おかげで一流の骨董の見分け方、インクルージョン含有率による宝石の価値変動、精巧な贋作の見極め方、他国の貴族との会話術など、超一流の講師からあらゆる知識を惜しみなく与えてもらえた。他国との関税に関する知識や、為替の見極め方、情勢の最新情報なども手に入れることは非常に容易な立場にあったため、他国との商売を始める際もなんら困ることはなかったし、商売を軌道に乗せるのも非常に早かった。
商会の登記や他国との輸出入に関する手続きも、元々それらに許可を出す側の業務を担っていたのだから、なにも難しいことはなかった。
──ていうか普通婚約解消って、そういう技術や情報の流出を留めるためにも、慎重にならざるを得ないはずなんだけどね。そこまで頭が回らないからこそ、あの馬鹿はどうしようもないんだけど。
アレに──アンソニーにもう少し見込みがあれば、私だってみすみす婚約破棄なんかさせなかったけどね。あそこまでおつむが残念だと、もうさっさと義妹に譲り渡して逃げるのが正解だと思っていたわ。
「さ、私の身の行く末の心配はなくなったでしょう? 他に何か質問はあるかしら」
「……何故、貴族令嬢のあなたが商会を持とうとしたのです」
「そうねえ……それは、あの馬鹿王子がわかりやすく馬鹿妹に惚れていたから、かしらね」
事の起こりは、記憶を取り戻してすぐのこと、二年ほど前になるだろうか。妃教育に明け暮れるキャメリアを横目に、二人きりで仲睦まじげに庭園の散歩をする二人を見かけた時。前世で読み込んだ悪役令嬢モノの小説知識から、おそらく遠くない未来に婚約破棄という名の断罪劇が起こるだろうと察知したのだ。
その時キャメリアは、二つのものを守ろうと心に決めた。一つは言わずもがな、自分自身。そうしてもう一つが、この国の職人とその技術だった。
元々資源に乏しく貧しい国土だったこのフリッツ王国が、他国と並び立つまで成長できたのは、職人による精巧な工芸品や宝飾品といった技術力だった。
にわかに国が豊かになり国民が皆貧しさを忘れ、他の産業もそれなりに業績が伸びてくると、とたんに追いやられるように職人の立場は悪くなっていった。搾取され、その素晴らしい技術を買い叩かれ、今や後継者を育てることすらままならないのだという。
キャメリアは、物心ついた頃から職人の手仕事を見るのが好きだった。
息を呑むほど美しく繊細な工芸品を作り出す彼らの手は、魔法よりもなお尊く鮮やかだった。それは記憶を取り戻した後のキャメリアから見ても──否、日本という前世の記憶を取り戻したからこそ、より一層素晴らしいものだと感じられた。
だから、たとえ割高になろうともキャメリアは職人への支援を怠らなかったし、彼らを支えるのが貴族としての自分の役割であると信じていたのに。
それが叶わなくなるかもしれないと思った時、キャメリアは腹をくくったのだ。
ただひたすらに美しいだけで、生活の役に立つわけでもない、工芸品や宝飾品と、それを生み出す人々だけが、この国でキャメリアが守りたいと思える存在だった。
だから、この国の工芸品は相応の値段で他国へ売りに出すし、決して搾取されぬよう職人を守る立場の商会を興した。それだけの話だ。
「技術は、失われてからでは遅いのよ。正しく継承するにはお金も時間もかかる。私はね、別にこの国が滅びようが貴族が困窮しようがどうだっていいけれど、この国と共倒れになって職人達の素晴らしい技術が失われることは我慢ならないの。私が王妃になれるなら別にこんな面倒な真似をしなくても済んだんだけど。あのバカが義妹に惚れた以上、こうなる可能性が高いと思ったから、相応の用意をしていたのよ」
「そんなに早い段階から、こうなる未来を予測していたと?」
「あら、時代の先読みは商売人の基本でしょう?」
笑ってそう口にすると、ユージンは参ったとばかりに両手を挙げる。
これでもう商人として生きていくことを無謀だと反対されることはもうないだろう。
「それでは最後に、もう一つ聞いてもいいだろうか」
「ええ、どうぞ」
「なぜわざわざ俺に三年も猶予を与えてくれるんだ?」
「そうね……理由は、二つ。一つは私をあの家から出してくれたことへの感謝。もう一つは、私にとってもその方が都合が良いからよ」
「都合がいい、というのは?」
「私一人なら、確かに今すぐ出て行っても食うには困らない。でも私の目標はこの国の職人たちが今後困窮せず正当な対価を得られるだけの土壌を作ることで、彼らがもし国外退去を望むならその支援もしたい。そのための下準備はまだ不十分なの」
キャメリアは脚を組み替え、話を続ける。
「それでもまあ、三年もあればなんとかできるかなって思っている。それと、繰り返すけどこの国はもう泥舟同然だから、あなたも長居はしないほうがいいわよ。それで、とりあえずお互いそれくらいを目安にするのはどうかしらってね」
「なるほど……もしもこの猶予が一方的な温情であれば、あまりにも立つ瀬がないところであったが、そういう理由であれば俺としても納得ができる」
ユージンはどこかほっとしたようにそう呟いた。
曲がりなりにも商人である彼は、どうやら一方的に借りを作るような状況を好ましく思わないらしい。
「君のほうから、何か俺に聞いておきたいことはあるだろうか」
「そうねえ」
別に今更わざわざ聞くほど興味を持っているわけではないけれど。一応三年は婚姻関係を結ぶと決めたのだから、必要以上に邪険に扱うわけにもいかない。
それであれば、出合頭にあそこまで悪し様に扱われた理由ははっきりさせておいたほうがいいだろう。
「そうね。せっかくだから、あなたが聞いていた悪評ってやつ、具体的にどんな話だったか教えてくれない?」
「そ、れは」
あからさまにユージンはうろたえる。一体、どんな陰口が流布されているというのだろう。
「決して聞いて気持ちの良いものではないだろう」
「そんなことはわかってるわよ。っていうか別に、今更何聞いたって怒りゃしないわよ」
「それは、そうだろうが……」
「ほら、わざわざ聞いてやってんだから、早く言いなさいよ」
わざと雑な物言いをしてやると、ユージンは諦めたように口を開いた。
「……曰く、酷く金遣いが荒く気性が激しい癇癪持ちであるだとか」
「へえ」
「次々に男を私邸に招く、男にだらしのない淫婦だとか」
「確かに商売の話をするのに殿方を屋敷に招いたことは多々あったわ」
「気に入らないメイドは鞭打ってクビにするなど」
「鞭は打ってないけど、先ほどまさしくメイドをクビにしたものね」
「とにかく少しでも気に入らないことがあるとヒステリーを起こして周囲に当たり散らす、悪魔のような女だと」
「あっはっは、そりゃ酷い言われようだわ」
金遣いに関しては自他ともに認めるところであるし、癇癪持ちではないがきっぱりとした気性は苦手意識を持たれることも多い。
大方はリリアが流した噂だろうけれど、決して事実無根といえるものではないあたり手が込んでいる。やはりあの女、こういうところには無駄な才能があるらしい。
「あーおっかし。なーんだ、結構ちゃんと事実じゃない」
「……いや、俺はそうは思わない。君の行動には、それぞれに正しく理由が存在している。だが噂は、誰かの悪意によって広められたものだ」
思いがけないユージンの言葉に、今度はキャメリアが目を見開く番だ。
「……あなた、この短時間で随分私のことを買いかぶっているんじゃない?」
「そんなことは……いや、わからない」
「初めはあんなに邪険にしてくれたのにねぇ」
「それに関しては、本当に謝罪の言葉もない」
もう二、三言文句を行ってやりたい気持ちはあったが、真摯に反省をしている相手に追い打ちをかけるほどの悪趣味ではない。
「君が首にしたメイドの一人は、エルナという。俺が成人する前からうちで働いてくれて、俺のことも弟のように慕ってくれていた。だがいつからか屋敷のメイドは入れ替わりが激しくなり、時には新人から苦情めいた話が出るようになっても、俺は彼女を怪しむことさえしなかった。仕事が忙しいと言い訳をして、屋敷内のことには何も目を向けようとしていなかった」
「ふぅん」
「今思えば、彼女が他のメイドに何かしていたのかもしれない。しかし俺は、それをろくに確かめることもしないで、ただ長く仕えてくれているからという理由だけで彼女を信用すらしていた」
懺悔のつもりか、ただの身の上話か。どちらにせよ、たいして興味はない。
生返事を返せば、それでも構わないと言うようにユージンは話を続ける。
「俺は商売に関係しない人間に対する見る目を養えていなかった。物を売り買いする際には、関係者も含め全て徹底的に調べ尽くし、下準備を怠ることはしてこなかったのに、それ以外は耳に入る噂以上の情報を聞こうともしなかった。妻として迎えようとしていたのに、貴女のことすらろくに調べず噂を鵜呑みにしていた」
「まあ社交界なんて、噂が全てだもの。そういう意味ではあなた、お貴族社会に向いているかもよ」
皮肉で返すも、それを粛々と受け止めたらしい。ユージンはもう一度深く頭を下げると、真っ直ぐキャメリアに視線を向け、右手を差し出した。
「……ともかく、申し訳なかった。そして縁あって夫婦となった以上、少なくとも今後三年は君と夫婦として良い関係を築いていきたいと思うが、どうだろうか」
「そうね。特に異論はないわ」
「それではあらためて、よろしく頼む」
「ええ」
返事こそ快く返すものの、いつまでも差し出した手に応じようとしないキャメリアに、ユージンは首をかしげる。
「『あらゆる肉体的な接触は行わない』、でしょう?」
契約書の内容を反復するキャメリアのその言葉に、ほんっとうに俺が悪かったとユージンはとうとう土下座とともに完全敗北の白旗を上げた。
その後、三年間をともにするうちに良き商売のパートナーとなったユージンから離婚を渋られるのも、案の定破綻したフリッツ王国から逃亡した先の王族に求婚されトラブルに巻き込まれるのも、また別のお話。