溶けていく 薄墨色の
繰り返し裏切られても、
どうして信じてしまうのだろう。
「あなたはバラのように美しい」
「……ありがとう」
甘美な、しかし熱のないくちづけ。それ以上は許さない。男は名残惜しげな足音で去って行く。召使が夕食の仕度が整ったことを告げる。
私は、自分が美しくないことを知っている。中学生の時に火傷を負い、失明したのだ。全体に肥満気味の割りには、胸だけが妙に小さく、ぜい肉の薄さを誇っている。背も低い。
思うに人の武器は、顔か身体か、金だ。私が世間の正直な視線を浴びずに済んでいるのは、金の力のおかげである。
目が見えないために、ひどく素っ気のない食事を終えて、浴室へ向かう。あの牛ステーキ(と、給仕が言っていた)は、香辛料が効いていて味があった。
小間使いに身体を洗ってもらって、寝室へは1人で入る。家具の位置は全部頭に入っている。私は真っ直ぐに窓まで行き、窓を開けた。枯れ葉のにおいがする。風が少し冷たい。
窓枠にもたれて、しばらく外の空気を嗅いでいた。
「いつか、堕ちるよ」
耳元で声がした。反射で身を引く。
よっこいしょ、と掛け声がした。
私の脇をすり抜け、部屋の中へ転がり込んだ者がいる。
「そこにいると、入るのに邪魔なんだ」
「そうみたいね」
私はベッドの端に腰掛ける。彼は、ソファに座る。ズボッという音がする。
「毎日のように婚約者と会っているみたいだね」
「少し話すだけよ。昼間は勉強していたわ。今日の午後は、数学と世界史を教わった。あとは自習」
「大学でも受けるのか」
「知らない。パパがしなさいっていうから、するだけ」
沈黙。彼の気配が移動する。勉強机の方へ行き、教科書をめくっているらしい。パラパラと乾いた音がする。戻ってきた彼は、ソファに座る。
「難しい物を使っているな」
彼の話す声は、とても美しい。歌声が美しい人は沢山いるが、普通に話す声が美しい人は滅多にいない。
「目、開かないね」
「まぶたが上下くっついちゃっているの」
「頭も少し、禿げてるね」
「今度、かつら屋さんへ行って、植毛するの。それで元通りよ」
「目も元通りにすればいいのに」
「ならないから、こうしているのよ」
「そうだったかな」
彼は私に触れようとしない。私が醜いから、触れない。
私が求めるのは、彼の美しい声である。
「英語の教科書を読んでちょうだい」
「教科書なんか読んだって、つまらない」
でも彼は、教科書を読んでくれた。
父が来た。
「お前もそろそろ結婚しなければいけない」
「いやです」
私と父の間には、コーヒーが置かれている。説明がなくとも、香りでわかる。カチャリと音がした。父がコーヒーを飲んでいる。
「何故」
「私は一生独身でいたいのです」
「一生ここに置いておくつもりはない」
「……」
私は手を前へ伸ばした。カップの皿が手に触れた。皿ごと持ち上げ、カップを口へ持っていく。既に砂糖とミルクが入っている。微妙に異なる香り。いつもと違う味。
「今日は誰が淹れたのかしら」
「珍しい豆をもらったから、挽いてもらった」
父は質問に答えず、スプーンでカップの中身を掻き混ぜている。これ以上加えるものはないのに。
眠気が差してきた。カップがとても重い。落してはいけない。テーブルへ戻そうとして、ソファからずり落ちてしまう。かろうじて支えたカップは、床に置いた。
「コーヒーが……」
あとは覚えていない。
気が付いて目が覚めた。
まぶたが、ひくひくする。上下くっついていない。隙間から白い世界が見える。
見 え る。
私は慌ててまぶたをぎゅっと閉じた。
身体がだるい。私はベッドの中で横たわっていた。
重い腕を動かして顔に触れてみる。頭のてっぺんまで包帯で巻かれている。では、先ほど見えたと思ったものは、世界ではなく、包帯の内側だったのだ。明るさに驚いただけで、実は見えていなかったのかもしれない。
「まだ起きてはいけません」
知らない女の声がした。
「だ、誰?」
喉の調子が悪い。筋肉が強張っているのがわかる。出た声は耳に掠れて聞こえた。
「看護士です」
包帯を毟り取りたかったが、指先が痺れたように重く、思うように動かせない。
「点滴を打ったばかりで、眠いのでしょう。お茶を飲みますか」
両側に把手のついた軽いカップで、薄い味のお茶を飲んだ。
また眠りに入った。
多分、1週間ぐらい薬漬けになっていた。
目が覚めた、と思った瞬間、まぶたが上に開いてしまっていた。薄暗い中にぼんやりとした影が点在している。目眩がして、目を閉じた。
「お目覚めですか。ゆっくりと、見やすい所から焦点を合わせていってください」
聞き覚えのある看護士の声がした。再び目を開けた。
包帯は取られていた。私は辺りを茫然と眺めた。照明を落とした薄暗い空間に、ソファが見えた。机も。カーテンの閉められた窓も。部屋には誰もいなかった。ドレッサーが見えた。
私はベッドから飛び起きた。足が床へ触れた途端、がくりと膝が落ちたが、耐えて姿勢を保った。関節の強張りを無視し、裸足のまま、鏡の前へ駆け寄った。
息を切らした蒼い顔の女が映っていた。記憶にあるより随分と痩せていた。髪の毛も記憶と違い、豊富になっていた。
私は美しかった。
「あああっ」
駆け戻ってベッドにうつ伏した。ドアが開いて人が入ってきた。
「起きたようだな。もう、自分の顔は見たか。すっかり元通りだ。これで結婚も心配ないだろう」
父の声がした。
「本当に、良かったです」
婚約者の声がした。私は好奇心に負けて枕から顔を上げた。
記憶にあるより年をとった父がいた。すぐにわかった。
白い制服を着た看護士がいた。顔がぼやけていた。意識して焦点を合わせると、目鼻立ちのはっきりとした、気の強そうな顔が確認できた。
知らない男がいた。よく見ると、人好きのする顔立ちだった。先ほど鏡で見た私よりも、随分と年上らしく見えた。
2人は父を挟んで立っていた。男は私の顔を見ると、にっこりと笑った。
「あなたはバラのように美しい」
私は顔を伏せてしまった。口を動かす気になれなかった。ひと目で、看護士と婚約者が男女の仲だと理解した。
「まだ体力が回復していないようですね」
「ゆっくり休んでもらおう」
人々が立ち去り、誰か残った気配がした。多分、看護士だろう。私は顔を伏せたまま、ベッドへ這い上がり、布団を被った。
私は普通の人になってしまった。
これからは、他の人と同じように考えなければならない。そう思っただけで疲れた。
私はそのまま寝入ってしまった。
夕食も歯磨きもベッドで済ませた。
「何かございましたら、ベルを鳴らしてください。私、別室で休ませていただきますから」
看護士が言った。それから1時間もしないうちに、派手な恰好をして部屋を抜け出す彼女の姿を見た。
私は窓を開け放った。
窓の外に、大きな樹があった。青々と葉が繁っていた。下は芝生で、建物に沿って花壇が設えてあった。自然に生えたように、まばらに木が植えてある。奥行きが知れない。視界に入る全てが私の家の庭だった。
見上げると星々が光っていた。風は感じない。
「おめでとう」
外から声が聞こえた。私は正面の樹に目を凝らしたが、葉が深々と重なり合うのが見えるだけであった。
「ありがとう」
「気分は?」
「中の下くらい」
「残念だ」
彼の声は相変わらず美しかった。
「私は、浮気者の男を夫にするしかないのかしら」
「なかなかの美丈夫じゃないか」
私は窓から身を乗り出した。重なり合う葉の奥を覗き込む。視力を取り戻した私の目でも、葉の裏にある物までは見えない。
「あなたじゃ、だめなの?」
少し沈黙があった。
「美しくないからね。今の生活を捨てたくもない」
葉がガサガサと音を立てた。私は闇を透かし見た。
知らず、窓から後じさった。勝手に足が後ろ向きに進んだのだ。
何か、とてつもなくおぞましいものを見たような気がする。
すぐに我に返り、窓へ駆け寄った。同時に、闇が遠ざかるのを感じた。
焦りつつ、窓枠に手をかけた時、彼が言った。
「さよなら」
その美しい声と言葉の抑揚とを、一生忘れることはできない。
私は窓を閉めた。カーテンも。
微かに枝の擦れ合う音が伝わってきた。外の気配はすぐに消え去った。
私は、その場にうずくまって、泣いた。
今では私は、2児の母である。
夫は相変わらず浮気を繰り返している。ただ、同じ相手とは長続きしないのが、救いといえなくもない。
子供たちも段々大きくなって、いつか私のもとを去るだろう。
また1人になった時、彼の美しい声を聞けるだろうか。
専ら、私の生きがいは待つこととなっている。