表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

溶けていく 薄墨色の

作者: 在江

 繰り返し裏切られても、

 どうして信じてしまうのだろう。


 「あなたはバラのように美しい」

 「……ありがとう」


 甘美な、しかし熱のないくちづけ。それ以上は許さない。男は名残惜しげな足音で去って行く。召使が夕食の仕度が整ったことを告げる。


 私は、自分が美しくないことを知っている。中学生の時に火傷を負い、失明したのだ。全体に肥満気味の割りには、胸だけが妙に小さく、ぜい肉の薄さを誇っている。背も低い。


 思うに人の武器は、顔か身体か、金だ。私が世間の正直な視線を浴びずに済んでいるのは、金の力のおかげである。

 目が見えないために、ひどく素っ気のない食事を終えて、浴室へ向かう。あの牛ステーキ(と、給仕が言っていた)は、香辛料が効いていて味があった。


 小間使いに身体を洗ってもらって、寝室へは1人で入る。家具の位置は全部頭に入っている。私は真っ直ぐに窓まで行き、窓を開けた。枯れ葉のにおいがする。風が少し冷たい。

 窓枠にもたれて、しばらく外の空気を嗅いでいた。


 「いつか、堕ちるよ」


 耳元で声がした。反射で身を引く。

 よっこいしょ、と掛け声がした。

 私の脇をすり抜け、部屋の中へ転がり込んだ者がいる。


 「そこにいると、入るのに邪魔なんだ」

 「そうみたいね」


 私はベッドの端に腰掛ける。彼は、ソファに座る。ズボッという音がする。


 「毎日のように婚約者と会っているみたいだね」

 「少し話すだけよ。昼間は勉強していたわ。今日の午後は、数学と世界史を教わった。あとは自習」

 「大学でも受けるのか」

 「知らない。パパがしなさいっていうから、するだけ」


 沈黙。彼の気配が移動する。勉強机の方へ行き、教科書をめくっているらしい。パラパラと乾いた音がする。戻ってきた彼は、ソファに座る。


 「難しい物を使っているな」


 彼の話す声は、とても美しい。歌声が美しい人は沢山いるが、普通に話す声が美しい人は滅多にいない。


 「目、開かないね」

 「まぶたが上下くっついちゃっているの」

 「頭も少し、禿げてるね」

 「今度、かつら屋さんへ行って、植毛するの。それで元通りよ」

 「目も元通りにすればいいのに」

 「ならないから、こうしているのよ」

 「そうだったかな」


 彼は私に触れようとしない。私が醜いから、触れない。

 私が求めるのは、彼の美しい声である。


 「英語の教科書を読んでちょうだい」

 「教科書なんか読んだって、つまらない」


 でも彼は、教科書を読んでくれた。



 父が来た。


 「お前もそろそろ結婚しなければいけない」

 「いやです」


 私と父の間には、コーヒーが置かれている。説明がなくとも、香りでわかる。カチャリと音がした。父がコーヒーを飲んでいる。


 「何故」

 「私は一生独身でいたいのです」

 「一生ここに置いておくつもりはない」

 「……」


 私は手を前へ伸ばした。カップの皿が手に触れた。皿ごと持ち上げ、カップを口へ持っていく。既に砂糖とミルクが入っている。微妙に異なる香り。いつもと違う味。


 「今日は誰が淹れたのかしら」

 「珍しい豆をもらったから、挽いてもらった」


 父は質問に答えず、スプーンでカップの中身を掻き混ぜている。これ以上加えるものはないのに。

 眠気が差してきた。カップがとても重い。落してはいけない。テーブルへ戻そうとして、ソファからずり落ちてしまう。かろうじて支えたカップは、床に置いた。


 「コーヒーが……」


 あとは覚えていない。



 気が付いて目が覚めた。

 まぶたが、ひくひくする。上下くっついていない。隙間から白い世界が見える。

 見 え る。

 私は慌ててまぶたをぎゅっと閉じた。

 身体がだるい。私はベッドの中で横たわっていた。


 重い腕を動かして顔に触れてみる。頭のてっぺんまで包帯で巻かれている。では、先ほど見えたと思ったものは、世界ではなく、包帯の内側だったのだ。明るさに驚いただけで、実は見えていなかったのかもしれない。


 「まだ起きてはいけません」

 知らない女の声がした。


 「だ、誰?」

 喉の調子が悪い。筋肉が強張っているのがわかる。出た声は耳に掠れて聞こえた。


 「看護士です」


 包帯を毟り取りたかったが、指先が痺れたように重く、思うように動かせない。


 「点滴を打ったばかりで、眠いのでしょう。お茶を飲みますか」


 両側に把手のついた軽いカップで、薄い味のお茶を飲んだ。

 また眠りに入った。



 多分、1週間ぐらい薬漬けになっていた。


 目が覚めた、と思った瞬間、まぶたが上に開いてしまっていた。薄暗い中にぼんやりとした影が点在している。目眩がして、目を閉じた。


 「お目覚めですか。ゆっくりと、見やすい所から焦点を合わせていってください」


 聞き覚えのある看護士の声がした。再び目を開けた。


 包帯は取られていた。私は辺りを茫然と眺めた。照明を落とした薄暗い空間に、ソファが見えた。机も。カーテンの閉められた窓も。部屋には誰もいなかった。ドレッサーが見えた。


 私はベッドから飛び起きた。足が床へ触れた途端、がくりと膝が落ちたが、耐えて姿勢を保った。関節の強張りを無視し、裸足のまま、鏡の前へ駆け寄った。

 息を切らした蒼い顔の女が映っていた。記憶にあるより随分と痩せていた。髪の毛も記憶と違い、豊富になっていた。


 私は美しかった。


 「あああっ」


 駆け戻ってベッドにうつ伏した。ドアが開いて人が入ってきた。


 「起きたようだな。もう、自分の顔は見たか。すっかり元通りだ。これで結婚も心配ないだろう」


 父の声がした。


 「本当に、良かったです」


 婚約者の声がした。私は好奇心に負けて枕から顔を上げた。


 記憶にあるより年をとった父がいた。すぐにわかった。

 白い制服を着た看護士がいた。顔がぼやけていた。意識して焦点を合わせると、目鼻立ちのはっきりとした、気の強そうな顔が確認できた。


 知らない男がいた。よく見ると、人好きのする顔立ちだった。先ほど鏡で見た私よりも、随分と年上らしく見えた。

 2人は父を挟んで立っていた。男は私の顔を見ると、にっこりと笑った。


 「あなたはバラのように美しい」


 私は顔を伏せてしまった。口を動かす気になれなかった。ひと目で、看護士と婚約者が男女の仲だと理解した。


 「まだ体力が回復していないようですね」

 「ゆっくり休んでもらおう」


 人々が立ち去り、誰か残った気配がした。多分、看護士だろう。私は顔を伏せたまま、ベッドへ這い上がり、布団を被った。



 私は普通の人になってしまった。

 これからは、他の人と同じように考えなければならない。そう思っただけで疲れた。

 私はそのまま寝入ってしまった。



 夕食も歯磨きもベッドで済ませた。


 「何かございましたら、ベルを鳴らしてください。私、別室で休ませていただきますから」


 看護士が言った。それから1時間もしないうちに、派手な恰好をして部屋を抜け出す彼女の姿を見た。

 私は窓を開け放った。


 窓の外に、大きな樹があった。青々と葉が繁っていた。下は芝生で、建物に沿って花壇が設えてあった。自然に生えたように、まばらに木が植えてある。奥行きが知れない。視界に入る全てが私の家の庭だった。

 見上げると星々が光っていた。風は感じない。


 「おめでとう」


 外から声が聞こえた。私は正面の樹に目を凝らしたが、葉が深々と重なり合うのが見えるだけであった。


 「ありがとう」

 「気分は?」

 「中の下くらい」

 「残念だ」


 彼の声は相変わらず美しかった。


 「私は、浮気者の男を夫にするしかないのかしら」

 「なかなかの美丈夫じゃないか」


 私は窓から身を乗り出した。重なり合う葉の奥を覗き込む。視力を取り戻した私の目でも、葉の裏にある物までは見えない。


 「あなたじゃ、だめなの?」


 少し沈黙があった。


 「美しくないからね。今の生活を捨てたくもない」


 葉がガサガサと音を立てた。私は闇を透かし見た。


 知らず、窓から後じさった。勝手に足が後ろ向きに進んだのだ。


 何か、とてつもなくおぞましいものを見たような気がする。


 すぐに我に返り、窓へ駆け寄った。同時に、闇が遠ざかるのを感じた。

 焦りつつ、窓枠に手をかけた時、彼が言った。


 「さよなら」


 その美しい声と言葉の抑揚とを、一生忘れることはできない。

 私は窓を閉めた。カーテンも。

 微かに枝の擦れ合う音が伝わってきた。外の気配はすぐに消え去った。

 私は、その場にうずくまって、泣いた。



 今では私は、2児の母である。

 夫は相変わらず浮気を繰り返している。ただ、同じ相手とは長続きしないのが、救いといえなくもない。

 子供たちも段々大きくなって、いつか私のもとを去るだろう。

 また1人になった時、彼の美しい声を聞けるだろうか。

 専ら、私の生きがいは待つこととなっている。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ