第2話 亀裂①
「⋯⋯クソっ、またあの夢か」
額に手を当て、リオティスはベッドから上半身を起き上がらせる。
疲れたように辺りを見渡せば、煌びやかな装飾品が散りばめられた清潔な空間が広がっており、リオティスは一先ず安心した。
そこは、バルカンに一週間の休みを貰ったリオティスが、心身を癒すために借りた高価な宿の一室で、今は三日目の朝を迎えたところだった。
ふかふかな雲のようなベッドに、優しいアロマの香り。三食つきの豪華な食事や、窓から見える絶景は全ての人間を幸福へと導くだろう。だが、そんな天国にも等しい空間にいるというのにも関わらず、リオティスの疲れは増す一方だ。
毎日毎日、夢に出るのはリラとリコルの二人。彼女たちがリオティスに向かって苦しみや怒りをぶつけ、最後には手を伸ばして首を絞める。そんな夢を見続けるリオティスが、安心して休めるはずなどあるはずもなかった。
豪華な食事は喉を通らず、窓から見える絶景すら虚しく感じる。
もはや、リオティスにとっては大金を払えば手に入る程度の幸せなど、意味をなさなくなっていた。
「リコルと居たときは、あんなオンボロなギルドでも楽しかったのにな」
無意識に口から出た言葉は、さらにリオティスの胸を締め付けた。
「⋯⋯こんなんじゃリコルに笑われるな」
リオティスは無理やりベッドから下りて立ち上がると、重い足取りで洗面台に向かった。
悪夢に魘され、額に滲む嫌な汗を流すために、リオティスは勢いよく冷水を顔にぶつける。
冷たい刺激が脳を正常にし、気持ちも幾許か楽にした。
リオティスが顔を上げると、鏡に映ったのはやつれた自身の表情。
目の下には色濃い隈が浮かび、肌の色は土気色に枯れ、誰が見ても健康的とは言い難いだろう。
「休みをもらった男の顔じゃねェな」
リオティスがひとり苦笑すると、部屋の扉を叩く音が聞こえてきた。
それを聞いたリオティスは能力を発動させると、肌を創造して自身の顔に埋め込んだ。そうして再び鏡を見れば、そこには濃い隈も、色の悪い肌もなく、見た目だけ今まで通りの健康的な姿が映し出されていた。
これで変な気を遣わせることもないだろう。
リオティスは自身の姿に違和感がないことを確認すると、ゆっくりと扉を開けた。
「何の用だ、タロット」
「あ⋯⋯」
リオティスが扉を開けると案の定、そこには奴隷であるタロットが立っていた。
長い耳を力なく倒し、様子を伺うようにこちらを見るタロットに、リオティスはやはり能力を使用しておいてよかったと強く思った。
「どうした? 俺の顔に何か付いてるか」
「い、いや! そういうわけじゃないんだご主人! ただ、その、体調とかは大丈夫なのかと思ってな」
「この通り健康体だ。傷も大体治ったし、こんな宿にいれば疲れも吹き飛ぶ」
「そ、そうか! ならよかった⋯⋯」
安心するように胸を撫でおろすタロット。
彼女はリオティスを心配して来たようだったが、どうにか誤魔化せたようだ。
或いは心音でバレているのかもしれないが、どちらにせよリオティスにはどうでもよかった。
「で、何しに来たんだ。まさか俺に会いに来ただけか?」
「もちろんそれもあるがな! けど、その、それだけでもなくって。もし、ご主人さへよければ、今晩あの酒場で食事でもどうだ? ほら、最近は行けてなかっただろう」
どこか不安そうにタロットはそう言った。
きっと、彼女なりにリオティスを元気づけようとしているのだろう。
だが、今のリオティスはまともな食事が出来るほどの状態とは程遠く、暫くはひとりで宿に居たいというのが本音だった。
「⋯⋯⋯⋯」
「いや、その、嫌ならいいんだ! ご主人も疲れているだろうしな!」
「別に嫌じゃねェよ」
「え」
リオティスの言葉に、タロットは驚いて硬直する。
そんな彼女から視線を僅かに反らし、リオティスは頭を掻いた。
「その、なんだ。俺も丁度行きたいと思ってたからな」
「⋯⋯!!」
タロットは途端に目を輝かせると、リオティスに向かって飛びついた。
「な、なんだよ急に!!」
「よかった、本当によかった! じゃあ約束だからな! 夜になったらトルビア亭に集合だぞ、ご主人!!」
急に抱きしめられたことに困惑するリオティスを他所に、タロットはそれだけ言うと上機嫌に宿から出ていった。
嵐が過ぎ去ったかのような静けさが訪れ、少しだけリオティスに寂しさが残ったが、タロットに抱きしめられた一瞬の温もりを感じながら扉を閉める。
「全く、しょうがない兎だ」
リオティスはひとりぼやくと、部屋に置かれた時計の針を見つめた。
◇◇◇◇◇◇
「⋯⋯で、何でお前らがいるんだよ」
約束の時間になり、トルビア亭を訪れたリオティスを待っていたのは、居合わせるつもりもなかった〈月華の兎〉の同期たちだった。
「やっと来たッスね! ささ、こっち座るッス!」
「いやだから何でお前らがいるんだって⋯⋯」
「そ、そんなことはいいだろご主人! せっかくの料理が冷めるぞ?」
疑問を呈すリオティスを無理やり席に座らせ、タロットは皿に盛られた料理を彼の目の前まで動かす。
「ほらご主人! 好きなだけ食べていいぞ!!」
「いや、だから⋯⋯」
「そうッスよリオっち! 今日は俺たちの驕りなんで、ジャンジャン食べてくださいッス!」
「まぁ、今日だけよ。私の機嫌が良いことに感謝するのね青髪」
「そ、そうだぜ! せっかく皆いることだしパァッと騒ごうぜリオティス」
「ボクは自分が食べられれば満足なんで、騒ぐのは勝手にしてください。けど、ま、どうしてもっていうならボクのお肉も分けてあげますケド」
「⋯⋯リオティス。私のデザートもあげる。今日だけ特別」
などと、リオティスが何かを言うよりも先に、同期達の手によって遮られてしまう。
その結果、気が付くとリオティスの前には、山のような料理が広がっていた。
(タロットめ、余計なことを)
リオティスはこの事態を招いたであろう元凶に、鋭い眼光を向ける。案の定、目が合ったタロットは逃げるようにして視線を反らした。
つまりは、最初からタロットが予め仕組んで自分をこの場所に来させたのだ。
それに気が付いたリオティスは、やはり来なければよかったと後悔したが、今更どうすることも出来なかった。
仕方なく、リオティスは皿に乗せられた一本の串を摘まんだ。
串には小さく分けられた肉がいくつか刺されており、見るからに甘辛いタレがたっぷりとかけられていた。
美味しいのか、不味いのか。
見たところで何も思えなかったが、とりあえず口の中に運ぶ。弾力のある歯ごたえと、甘い味が口に広がるが、油を含んだスポンジを食べているようにしかリオティスには思えなかった。
もう何を食べているのかもわからないソレを一先ず飲み込んだところで、自分に向けられる視線に気が付いた。
「⋯⋯なんだよ」
「その、どうだご主人? 美味しいか?」
心配そうに見るタロットの周りには、他の同期たちも同じような表情を浮かべている。
何故そのような顔をするのだろうか。
リオティスにしてみれば理解しがたいことで、そもそもこの場に集まっていることも本来なら有り得ないはずだった。
たかが一週間ほど共に同じ屋根の下で過ごしただけ。
誕生日や好きな食べ物だって知らない、距離が近いだけの他人であるというのにも関わらず、何故彼等はここまで自分のことを本気で心配するのだろうか。
そのことを不思議に思うリオティスだったが、今はどうでもよく、ただ無難に時を過ごすことだけを考えて返答した。
「あぁ、別に普通だな」
「何よそれ。美味しいか美味しくないのかハッキリしなさいよ!」
「ちょ、落ち着くッスよティアナっち! リオっちは疲れてるんスよ」
「疲れてるのは筋肉が足りないからです! さぁもっとお肉を食うのです! そうすれば疲れなんて吹き飛びます!!」
「⋯⋯ううん、疲れには甘味。この甘党の甘党による甘党のための超生クリームクレープを食べれば元気一杯。明日も頑張れる」
「いやいや、疲れには辛さっしょ! つーわけでリオティス、俺おススメの激辛メニューがあってだな⋯⋯」
「ふふふ、甘いな! ご主人は酒が命だ! さぁ、いつもの酒を頼むぞマスター! そしてタロットにも同じのを頼む!!」
次々と訳の分からないことを言い出して騒ぐ同期達。
それを見つめながら、リオティスは自分の選択を再び後悔した。
「⋯⋯いや、どう答えても結果は同じだったろうな」
ひとりうんざりるすようにリオティスは呟くと、運ばれてきた酒をちびりと舐めた。