プロローグ 罪
人はこの世に生を受けた瞬間から、罪を背負っているのだという。
幼かった頃に偶然目にした本に書かれた、意味不明な言葉。普通ならば気にもせず、理解しようとも思えないそんな言葉を、私は今も忘れたことがない。
何故ならば、私は生まれた時からある罪を犯していたから。
すれ違う人々の表情から覗けるのは、いつだって激しい憎悪だけ。
その冷たすぎる目を見れば、私がどれだけ大きな罪を背負っているのかなんて、痛いほど理解することが出来た。
そんな大きな罪の重さに、今私は押しつぶされている。
「オイ、立てよ。人殺し」
倒れて動けないでいた私の頭上から、男の声が聞こえてきた。
だが私は立てない。動けない。
何故ならば全身が痛みで悲鳴を上げ、指一本動かすことすら容易ではないのだ。
腹部には青白い痣が浮かび、唇は切れて血を流し、両の腕と足はもしかしたら骨にヒビが入っているのかもしれない。
痛みで顔を歪める私を見下ろすようにして、声の主は笑った。
「なんだ立てないのか? ちょっと殴っただけだろ。いや、蹴りも入れてやったんだったか? まっ、どうでもいいよな。お前なんか生きてる価値もないゴミくずなんだから」
刹那、私の体が宙を舞った。
「っ⋯⋯」
どれだけの高さから落ちたのかわからないが、気が付くと私は全身を打つ痛みに呼吸も出来ず、無様に地面を這いつくばっていた。
息が吐けない。吸えない。背中が焼けるように熱い。
足が、腰が、腕が、頭が、胸が⋯⋯心が痛む。痛くて痛くて、私は涙を流すことしか出来ない。
「いい気味だな。今日のところはこれで勘弁してやる。また適当な理由でも付けて召使い共にでも診てもらえ。ただあいつらもお前のことなんて碌に相手にしないだろうがな」
私を痛めつけて満足したのだろうか。
それだけ言うとあの男は私の顔に唾を吐き捨て、興味を失ったと言わんばかりに離れていった。
「⋯⋯⋯⋯」
男が消えてから暫く経っても、私は動くことが出来なかった。
それは痛みからか。それともあの男が未だ私を見ているようで怖かったからか。或いはその両方か。
どちらにせよ私は動けない。動くつもりもなかった。
ただ考えるのは、自分の存在する理由だけ。
あの男に度の超えた暴力を振るわれ、その怪我を診る召使い達には腫物のように扱われ、歩きすれ違う度に陰口を浴びせられ、怪我が治るとまた男に暴力を振るわれる。
これが私の人生。
考えれば考えるほどに、生きている意味が感じられない。
けれど、それも全ては私のせいだ。私があの人を殺してしまったせいだ。
本来ならば許されるはずもない罪を背負っている私が、今もこうして生きているのにはただのひとつしか理由はない。
私はそっと自身の腰に差されている剣に触れた。
醜く哀れで傷だらけな私とは対照的に、真っ白で汚れ一つない輝く宝剣。
その剣に触れた瞬間、私の内に熱を帯びて広がる痛みが消え、代わりに深く冷え切った悲しみが膨れ上がった。
「⋯⋯私、どうして生まれてきたのかな」
ポツリと零した言葉。
それと同時に私の目からは止めどもなく涙が溢れだした。
辛い。痛い。死にたい。
溢れる感情は抑えることが出来ず、もうこのままどこか遠くへと消えてしまいたかった。この世界から消えてしまいたかった。
けれど、それが許されないこともわかっていた。
この剣を手に持つことが出来たあの日から、私に逃げる選択肢など用意されてはいないのだ。
「⋯⋯訓練、しなきゃ」
私はボロボロの体に無理を言わせ立ち上がると、足を引きずりながら治療室を目指した。
広い建物を歩く中で何人もの人々とすれ違うが、誰も私と目を合わせようとしない。手を伸ばそうとしてくれない。
それでも私は、もうそのことに何も思わなくなっていた。人殺しなどに同情してくれるなとすら感じていた。
ただ今の私にあるのは、先の見えない押し付けられた役目を果たすことだけ。
そのためだけに、私は生きているのだから。
もはや感覚すらなくなった手で壁を伝い、足で地面をなぞる。
もうすぐだ。
もうすぐ、きっとすぐに私の役目は終わる。
そうしたら、あの人だって私を見てくれる。見直してくれる。
だから、私は歩き続けた。
ゆっくりでも、一歩一歩前に進めば、いつかはこの牢獄から抜け出せると本気で信じていた。
痛くても、辛くても、悲しくても剣を握り、ひたすらに振るう。
それが、それこそが私が生きている理由。それだけが私に課せられた使命。私が、私であるための方法だった。
けれど、この時の私はまだ気が付いてはいなかった。
私が私である理由など、最初からなかったことにーー。
「出ていけ、ティアナ。もう二度と私の前に現れるな」
軋む腕を動かし、擦り切れ血を流す手で剣を振るう私に向かって、ある日あの人はそう言った。
初めて目を合わせた気がする。
初めて声を向けてくれた気がする。
そんな初めてを手に入れるために生きていた私が得たのは、言葉では言い表すことが出来ない程の絶望だった。
そうだ。
これが現実だ。
努力をしようとも、手を伸ばそうとも、全てが手に入るわけではない。取り戻せるわけではない。
何故なら、私は罪人なのだから。
今更ながらにそのことに気が付いた私は、もう何もかもがどうでもよくなり、気が付けば裸足で雨の降る夜道を走っていた。
お金どころか生活に必要な物を一切持たず、ただ手元に残ったのは憎い程に美しい長剣だけ。それ以外の物は、あの瞬間から全て失ってしまった。
けれど、馬鹿な私はこんな絶望の淵に立っても、全てを諦めることが出来なかった。
だからだろう。
私が今、この場所にいるのは。
「ドンドンうるせェな。誰だよ、こんな暴雨の夜にドアを叩きやがって⋯⋯ん? お前は確か」
雨に濡れる私を見て、その男はかなり驚いていた。
けれど、一番驚いていたのはきっと私だった。
何故こんな場所にいるのか。何をしようとしているのか。
わからない。わからないが迷いはなかった。
「⋯⋯私を、このギルドに入団させてください!」
うるさかった雨風の音が、この瞬間だけ止まった気がした。