第32話 始まり
先程まで降り注いでいた雨はいつの間にか止んでいた。
辺りも段々と明るくなり始めており、目の前の男性の姿も陰から浮かび上がっていく。
美しい程の青くサラリとした髪に、海のように深く底の見えない瞳。その顔立ちはまるで女性のように整っており、見れば見るほど引き込まれていく。
そんなリオティスは歩き出すとアンジュへと近づいた。
「探すのに苦労したぜ。まさかあの日助けたお前がそうだったなんてな」
「なんのことだよ! まさか前の殴られた腹いせをしに来たのか!?」
「違ェよ。俺はただこれを渡しに来ただけだ」
そう言ってリオティスが取り出したのは、一通の手紙。
最初は薄暗くて何を持っているのかわからなかったアンジュだが、近づいて確認すると、手紙には赤黒く固まった血が付着していた。
「なっ、何だよそれ!?」
「お前に宛てた手紙だ」
「いや、そんな血の付いた手紙いるもんかよ!! さっきから怖いよ、アンタ! 突然現れたかと思ったらそんな物騒なもん見せやがって!!」
「⋯⋯これはリコルからの手紙だ」
「えっ、リコルの⋯⋯」
その場から離れようとしたアンジュの足が止まる。
何故リオティスの口からリコルの名前が突然出たのだろうかと、さらに怪しむアンジュだったが、彼の表情はどこか悲しそうで嘘を吐いているようには見えなかった。
「何でお前がリコルを知ってるんだよ」
「あいつとは仲間だったんだ。少しの間だったが、一緒にギルドで働いていた」
「リコルと一緒にギルドに?」
「あぁ、そこでリコルからこの手紙を渡されてな。裏に書いてあった名前だけじゃ判断できなかったから、少し中身も読ませてもらった。そしたらやっぱりお前への手紙だったんだよ。⋯⋯こんな話、信じられねェだろうがな」
「そりゃそうだろ!! つーかならリコルはどこなんだよ! やっぱ私に会いたくないからアンタに手紙を渡したのか?」
「⋯⋯⋯⋯」
「オイ、何黙ってるんだよ!」
暗い表情で口を閉ざすリオティスを見て、アンジュの不安が膨らんでいく。
突然現れたリオティスに、リコルからの血の付いた手紙。それらが発する深刻な空気が全てを物語っていた。
「⋯⋯リコルは死んだ。もうこの世にはいない」
「そ、そんな⋯⋯嘘だろ」
意を決してリオティスから語られた真実に、アンジュは立つこともできずに膝から崩れ落ちてしまった。
嘘だと思いたかった。信じたくはなかった。
だがそれが本当の事なのだと、アンジュは悟ってしまう。
雨に濡れた冷たい地面に座り込み、アンジュは涙を流した。
「⋯⋯私があいつを信じてやっていれば、突き放さなければ死ななかったのかよ。は、はは、何だよそれ。やっぱ私って最低じゃないか。きっとリコルも恨んでるよな⋯⋯」
絶望と後悔に打ちひしがれるアンジュへと、リオティスはそっと手を差し出した。
「お前のせいじゃねェよ。リコルを守れなかったのは俺の責任だ」
「違う、違うんだよ!! 全部私が悪いんだ! リコルだってこんな私の事大嫌いで仕方ないはずだ! 私のせいなんだよ!!」
「⋯⋯それは違うだろ」
「何が違うんだよ! 何も知らない癖に!!」
「だったら確かめてみろよ。自分の目でな」
リオティスが手渡したのはリコルの手紙。
それをアンジュは涙を浮かべた目で見つめると、震える手で受け取った。
手紙の殆どが血で汚れている。
その裏側には確かにリコルの文字で『大切なアンジュへ』と書かれていた。
きっとこの中に全ての答えがある。
アンジュはそう思い、手紙を読むために中を開こうとした。
だが、その手が止まってしまう。
もしもリコルの恨みや憎しみが書かれていたらと思うと、怖くて勇気が出せなかったのだ。
震えるアンジュの肩に、リオティスは優しく手を置いた。
「信じろ、リコルを。お前の友達を」
「⋯⋯リオティス」
余りにも優しく温かいリオティスの瞳。
以前出会った彼からは想像も出来なかったが、だからこそアンジュは勇気を貰えた気がした。
(もう、信じることをやめたくない。想いを失いたくない。だってリコルは私のたったひとりの友達なんだから⋯⋯!)
覚悟を決めたアンジュは手紙を開いて読み始めた。
そこに書かれていたのは一度も語られなかったリコルの壮絶な過去。記憶者になった経緯や、実の両親を殺したことが綴られていた。
アンジュが記憶者を恨むのと同じように、リコルもまた自分自身とその能力を恨んでいた。恐怖していた。だからこそ、彼女は自身の右手を手袋で隠していたのだ。もう二度と、能力を使って誰かを傷つけないようにーー。
「⋯⋯リコルも苦しんでいた。なのに私はあんな酷いことを言って、リコルを傷つけて⋯⋯こんなの友達失格だ」
「けど、まだリコルの想いは半分だろ」
リオティスの言葉に、アンジュは手紙を読み進めていく。
きっとこの先にリコルの想いが書かれている。それがどんな答えであろうとも、もう二度と目を背けはしないと、アンジュは固く決意していた。
だが、アンジュの目に飛び込んできたのは、予想外の言葉だった。
『ーーこれが私の過去。今まで黙っていてごめんなさい。けど怖かったんです。私が記憶者であることをアンジュに知られるのが、そのせいで関係が壊れてしまうのが怖かった。実はあの日に見せたペンダントは、母親の形見だったんです。けど、それを手放してまでアンジュと共に笑って暮らしたかった。それが私の本心です。それなのに私は最後の最後でアンジュとの友情よりも、過去の思い出を優先してしまいました。そのせいで貴方を傷つけてしまいました。
最低ですよね、私。だから今働いている〈月華の兎〉で立派な人間に成長出来たら、必ずもう一度アンジュの元に帰ります。そして今までのことをいっぱいお話しましょう。アンジュが許してくれるかはわかりませんが、今の私を見てほしい。想いを聞いてほしい。そしてまた一緒に笑いましょう。だってアンジュは私にとっての唯一人の親友なのですから』
「リコル⋯⋯」
アンジュは手紙を読み終えると、大粒の涙を零していた。
リコルは自分のことを恨んではいなかったのだ。
それどころか未だ大切に想っていてくれていた、親友だと呼んでくれた。そのことが何よりも嬉しく思えたのだ。
「ごめんなさい、リコル。私も大好きだよ、ずっと一緒に居たかったよ。だからもう一度私とくだらない話をしてよ! 一緒に笑おうよ!! リコル、リコル⋯⋯ぅ、うぅああぁぁぁッ!!」
リオティスの前だというのにも関わらず、アンジュは泣き叫んだ。その悲しみがリオティスにも伝わっていく。
(⋯⋯これでよかったのか、リコル。けど俺は⋯⋯)
と、そこでリオティスはとあるものを見つけた。
手紙を掴んで泣き崩れているアンジュの右手に、黒く禍々しい紋章が浮かび上がっていくのだ。
それは記憶者の紋章。
突如発現したその紋章に、リオティスは見覚えがあった。
「まさか、リコルの能力⋯⋯!?」
信じられない光景を目の当たりにするように、リオティスは驚愕の表情を浮かべる。
彼の目の前では、アンジュが泣き叫ぶことを止め、自身の頭を押さえていた。
「何、これ。変な映像が流れ込んでくる、声が聞こえてくる。これって、リコルの記憶⋯⋯」
アンジュの全身を駆け巡るのは死んだはずのリコルの想いと記憶だった。
辛い記憶も、悲しい記憶も、忘れ去ってしまいたいような残酷な記憶までもが入り込み、アンジュは目を背けようとした。
だが、アンジュを優しく包み込むようにして、温かい想いが広がっていく。
『大丈夫ですよ、アンジュ。私がずっと傍に居ますから』
「リコル⋯⋯」
何が起きたのかわからず、自身の変化についていけないアンジュだったが、リコルの言葉が頭に響きだし、今までに感じたことのない安心感と幸せに包まれていた。
想いは受け継がれ、記憶は力となる。
そんな世界の理を目の当たりにしたリオティスは、そこにいるであろうリコルに対して言葉を零した。
「何が自分じゃ想いは届けられないだよ。ちゃんと届いているじゃねェか」
奇跡を目の当たりにしたリオティスは、感動のあまり涙を浮かべていた。
記憶者が死ねば、この世界に生きる別の人間に能力が譲渡される。だが、誰がその力を手にするのかは神にしかわからないのだ。
そのはずなのにも関わらず、アンジュはリコルの想いを受け継いだ。記憶したのだ。
「⋯⋯届いたんだよ、お前の想いが。たったひとりの親友に」
リオティスは空を見上げる。
もう夜明けが近づいているようで、見上げる空は光を帯び始めていた。
リコルは死んだ。
だが、その想いまでは死んではいなかったのだ。
そのことに気が付いたリオティスは、リラの想いを受け継いだ時のことを思い出していた。
冷え切った心に温かく広がったリラの想いは、リオティスに再び生きる力をくれた。前へと進むきっかけをくれた。
最初は何をするでもなくただ生きるだけだったが、自分が本当は何をしたいのかを見つけることが出来た。リコルと出会うことが出来た。
そんな想いを受け継ぐことの温かさを思い出したリオティスに、アンジュは涙を拭って言い放った。
「⋯⋯決めたよ、私もギルドに入る! そしてこの能力で皆を助けるよ。リコルと一緒に!!」
「それはリコルがそうしろって言っているのか?」
「そうかもな。けど、それ以上に私がそうしたいんだ。もう私のように傷つく人が出ないように、誰も失わないように。それが私自身の願いだ!」
昇る朝日に照らされて叫ぶアンジュの姿が余りにも眩しく輝いており、目を細めたリオティスには彼女の隣にリラとリコルが立っているように見えた。
微笑む二人。
きっと彼女たちもそれを望んでいるのだろう。
(俺はずっと自分が何をして生きればいいのかわからなかった。ただリラの想いに動かされているとばかり思っていた。けどそれは言い訳だ。アンジュのように、俺は自分の意志でここまで来たんだ。そしてリコルと出会い、自分が本当になりたいものを見つけることが出来た。その想いは決してなくならない。あいつと過ごした日々は記憶者になったアンジュだけじゃなく、俺の中にも宿っているんだ。だから⋯⋯)
リオティスは一度大きく息を吐きだすと、目の前で輝いているアンジュと、そして自分自身に向かって言った。
「だったら、お前は俺のギルドに来い。来年、お前が十七歳になった時に入団しに来い! その時までにお前が、お前たちが胸を張れるような最高のギルドを作ってやる。残り一年で〈月華の兎〉を〈六昇星〉にまで成り上がらせてやる! 約束だ」
それがリオティスの決意であり、新たなる目標だった。
アンジュはそんなリオティスの言葉に目を丸くしたが、一切笑うことは無かった。本来ならば聞く者全てが笑い飛ばしたであろう発言に対し、並々ならぬ熱意を感じ取ったのだ。
すると、リオティスは懐からある物を取り出した。
赤い宝石の付いたペンダント。
それはリコルの唯一の形見だった。
(これをリコルは俺に渡したが、俺はもう数えきれないほどのものをお前から貰った。だからこれを貰うに相応しい人間は俺じゃない。そうだろ、リコル?)
一度ペンダントを強く握りしめると、リオティスはアンジュへと手渡した。
「これって、リコルのペンダント?」
「あぁ、それもお前に渡せって頼まれたんだ。そしてこれもな」
そう言って次にリオティスが取り出したのは、大金の入った袋だった。
「これもリコルから預かったもんだ。一年は不自由なく暮らせるはずだ」
「アンタ⋯⋯」
アンジュはペンダントと大金を受け取ると、信じられないといった表情でリオティスを見た。
何故ならば彼が嘘を吐いていることを知っていたのだ。
このペンダントも、大金も、本当はリオティスのものであり、リコルが自分へと渡すように言ってはいないものだった。
それをリコルの想いと記憶を受け継いだアンジュは知っていたが、ただ黙って受け取ることにした。それがリコルの答えでもあったのだから。
アンジュが無事に受け取ったことを確認したリオティスは、これ以上何も言うことは無く〈月華の兎〉へと帰るために歩き出した。
(リラ、リコル。こっからだ。俺の人生はもう一度ここから歩き出すんだ。だから見ていてくれ。俺が最高のヒーローになるところを⋯⋯!)
想いは受け継がれ、記憶は力となる。
これはそんな世界を恨むひとりの記憶者がした、大きな約束と小さな嘘の物語。それが始まった瞬間だったーー。