第29話 地獄に咲く花③
「リ、リコル⋯⋯」
胸を斬り裂かれて意識が朦朧とする中、リオティスは何とか立ち上がると、うつ伏せで倒れたままのリコルへと歩みを寄せた。
一歩一歩、よろけながらも着実に歩くリオティスは自身の胸を押さえる。手にべっとりと赤い血が付着したが、致命傷ではなかった。
何故スネイルが自分に止めを刺さなかったのかがリオティスにはわからない。だがそんなことはどうでもよく、今はただリコルのことしか頭になかった。
小柄で軽いリコルの体に触れると、リオティスは仰向けに動かした。
「オイ、オイ! しっかりしろ、リコル!!」
リオティスは懸命に彼女の名前を呼んだ。
だが、リコルの呼吸は既に止まりつつあった。
蒼白な顔色に虚ろな瞳。それは今までの煩く騒いでいた明るい彼女からはまるで想像がつかない程で、リオティスに死を予感させた。
「しっかりしろよ!? 大丈夫だ。絶対俺が助けるから! だからもう少しだけ頑張ってくれ!!」
何度も何度もそうやって呼びかけるリオティスに対し、リコルは遠くを見つめていた。
「⋯⋯リオティス、さん。私⋯⋯」
「今は喋るな! クソッ! 血が止まらねェ⋯⋯!!」
必死にリコルの貫かれた胸を手で押さえるリオティスだったが、どれだけ押さえても血は止まらない。既に彼女の周りには血溜まりが出来ていた。
それでもリオティスは諦めずにリコルの血を止めようとした。命を繋ぎ止めようとした。
「止まれ、止まってくれェッ!!」
リオティスは叫び声を上げて懸命に胸を押さえるが、彼自身もその行為が無駄であることはわかっていた。わかっていたが認めたくはなかったのだ。
リオティスの震える手に、リコルがそっと触れた。
「⋯⋯リオティスさん。聞いてください」
「煩い、黙れ!! 大丈夫だ、絶対に助かる! だから⋯⋯」
と、そこでリオティスの言葉が止まる。
彼の目に映ったのは、静かに首を振るリコルの姿だった。
「⋯⋯もう、私は助かりません。だから⋯⋯聞いてください」
「何諦めてるんだ!? ヒーローになるんじゃなかったのかよ! ギルドで胸を張って人々を助けるんじゃなかったのかよ!!」
「⋯⋯そう、でしたね。けど、もうその私の夢は、とっくに叶っていたんです。リオティスさんと出会って、タロットさんと出会って、そして〈月華の兎〉の皆と出会って⋯⋯」
リコルの頭の中には、今までの人生が走馬灯のように流れていた。
両親との記憶。ひとりで生きていた時の記憶。そして、貧民街での記憶。それらが一瞬で思い出されていくが、その殆どが消し去ってしまいたいトラウマだった。
両親を殺し、自身の能力に怯え、孤独と戦う日々。
そんな過去に何度も押しつぶされそうになり、何度死にたいと願ったことか。だが、あの日リオティスと出会ったことで、人生が動き出したのだ。
「⋯⋯私はずっと、特別な何かになりたかった。人殺しじゃなく、誰かを救うヒーローとして、生きてみたかった。⋯⋯けど、気づいたんです。私が、本当に欲しかったのは、ごく普通の、幸せだったんだって」
息も絶え絶えで、今にも消えてしまいそうな意識。
それでもリコルは話しを続ける。
「⋯⋯ギルドで過ごした、この数日は、今までで一番楽しかった。生きていると思えた。皆と笑って、ふざけて⋯⋯本当に楽しかった。それこそが、私の求めていたものだったんです。だから、もう、大丈夫です。私は、私を生きることが、出来たから⋯⋯」
「ふざけんなよ! ならもっと生きろよ!! タロットと馬鹿みたいに騒いで、それを俺が叱って。そんなくだらない生活をまたさせろよ! 俺と一緒に生きてくれよッ!!」
「⋯⋯リオティス、さん」
今までに見せたことのないリオティスの熱い想いに、リコルの瞳が揺らいだ。まだ生きたいと、リオティスと一緒に居たいと、そう思ってしまった。
だがその気持ちを口に出せば、リオティスをさらに苦しめることになる。それを理解していたリコルはグッと堪え、上着のポケットから一枚の紙を取り出した。
「⋯⋯これを、私の代わりに、届けてくれませんか? いつか渡そうと、書いておいたんです」
リコルから差し出されたのは一通の手紙。
白い紙の殆どが血で汚れてしまっていたが、リコルにはどうしても渡したい理由があった。
「⋯⋯ある、友達に書いた手紙なんです。大切な、手紙なんです。だから⋯⋯」
「だったら自分の手で渡せよ!! 勝手に諦めてるんじゃねェ!!」
「⋯⋯いいえ、もう、ダメなんです。私じゃ、この想いは、届けられないから」
リコルの手紙を持つ手が揺れる。
彼女も本当は自分の手で手紙を渡したかった。だがそれはもう不可能なのだ。だからこそ、こうしてリオティスに託そうとしていた。
リオティスは手紙を見つめるだけで、やはり受け取ろうとはしない。受け取ってしまえば、リコルの死を認めてしまう気がしたのだ。
ずっとリコルの傍に居たい。笑っていてほしい。そんなリオティスの想いがどんどんと膨れ上がっていく。
だが、それでも現実は変わらない。
リコルも自分の死と向き合い、生きたいのにも関わらず、懸命に想いを繋ごうとしているのだ。
そんなリコルの姿を見て、リオティスも覚悟を決めた。
「⋯⋯わかった。俺が絶対に届けてやる」
「⋯⋯ありがとう、ございます」
リコルの手を強く強く握りしめ、リオティスは手紙を受け取った。
それを確認して安心したリコルは、次に自身の首に着けられていたペンダントを外すと、リオティスに差し出した。
「⋯⋯これ、約束、でしたね。私が一人前になった時に、渡すって。だから、受け取って⋯⋯ください」
「けど、それはお前の⋯⋯!」
「⋯⋯いいんです。最初から渡す、つもりでした。それにこれは、母の言葉ですが、このペンダントには【受け継ぐ意志】が込められているんです。だから、私の意志を継いでください。もちろん売っても、いいですよ⋯⋯?」
「売るわけねェだろ⋯⋯バカ」
リオティスはそう言うと、リコルからペンダントを受け取った。
これで今できることは全てやった。
リコルがそう感じた途端、一気に体から力が抜けていく。
「⋯⋯へへ、どうやら、もう限界⋯⋯みたいです」
「っ⋯⋯! ダメだリコル、やっぱり死ぬなよ!! なぁッ!?」
「⋯⋯そう、言ってくれるだけで、よかったです。リオティス、さんは、優しいから⋯⋯これからも、皆を助けてあげてください、ね」
「俺は優しくなんてねェよ!! 弱くて弱くて、何も守れなくて! そんな奴が、優しいわけねェだろ!!」
「⋯⋯優しい、ですよ。だって⋯⋯」
と、そこでリコルは最後の力を振り絞って、リオティスの頬へと手を伸ばした。
「⋯⋯私のために、泣いてくれているじゃないですか」
「⋯⋯っ」
リオティスはそこで初めて自分が泣いていることに気が付いた。
目から止めどもなく涙が溢れ出し、リコルの手が濡れる。彼女は優しい笑みを浮かべており、それを見たリオティスはさらに涙を流した。
「リコル、死なないでくれよ⋯⋯頼む。お前まで失ったら、俺は⋯⋯!」
「⋯⋯大丈夫、です。ずっとここにいます、から⋯⋯」
リコルはリオティスの胸を指差した。
そして最後に彼女は今までの人生の中で、一番の笑顔を作って言った。
「⋯⋯最高に、楽しかったです。ありがとう、リオティスさ、ん⋯⋯⋯⋯」
全ての力を出し尽くし、捻りだした言葉。
それがリオティスの耳に届いた瞬間、リコルの手が力なく地面に落ちた。そして幸せそうに眼を閉じたまま、リコルはもう動かなかった。
彼女の髪から青色が抜け落ち、元の赤色へと戻る。額に生えた黒い角も光輝いて消滅し、右手に描かれていた記憶者の紋章も段々と薄くなっていく。
「⋯⋯リコル」
リオティスは冷たくなったリコルの体を強く抱きしめた。
もうリコルの笑顔は見れない。煩く騒ぐ声も、ふざけて遊ぶ姿も、涎を垂らして寝る姿も、無邪気に名前を呼んでくれこともーー。
そんな余りにも非情な現実を受けて、リオティスはただリコルの体を抱きしめることしか出来なかった。
「リコル、リコル⋯⋯! ぅ、ぐぅ⋯⋯うあああぁぁっ!!」
再び〝ネスト〟の中に響くリオティスの叫び声。
彼の足元には、いつの間にか赤い花が咲いていた。
地獄に咲いた一輪の花。
その花はリオティスの悲しみを受けるようにして、静かに揺れていた。