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始まりのメモライズ  作者: 蓮見たくま
第1章 リコル~出会い~

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幕間 リコルとバルカン

リコルが裏ギルドを壊滅させて気を失った後の話です。


 それは私が初めてバルカンさんに会った時のこと――。


「⋯⋯ん」


 私が目覚めると、そこは見知らぬ天井だった。


 柔らかいベッドの感触。温かな空間。花の優しい香りが僅かにする。白く清潔な部屋の中。

 私はどうやらここで長い間眠っていたらしい。やんわりと頭に響く鈍い痛みと、水に濡れたような体の重みからそう思った。


「よぉ、目が覚めたみたいだな」


 隣から気だるげな声がした。


 起き上がる気力の無い私は、ゆっくりと顔を横に倒す。


 そこにはひとりの男性が座っていた。

 ボサボサの髪。皺だらけの服。清潔や真面目から遠くにいるような人。けれど、眠たげな眼差しからはどこか他の人とは違うような、強くて芯のある特別な気配がした。


「あの、ここは⋯⋯?」

「俺のギルドだ。〈月華の兎(ルナミラージ)〉って言えばわかるか?」


 男性の言葉に私は驚く。


 知らないわけも無い。

 世界で最強の六つのギルド。通称〈六昇星(セクスタント)〉。その中でも一位に君臨する世界の頂点。それこそが〈月華の兎(ルナミラージ)〉だ。


 知らない人間なんてこの世界のどこにも居ない。

 そんなギルドの建物の中に今私がいるんだ。


 気づいた時には、私は飛び起きていた。


「す、すみません。私なんかがこんなギルドに。すぐ、出ますから」


 逃げ出したい、と強く感じた。


 私は記憶者(メモライズ)。

 そして、その力で両親を殺した。


 絶望し、歩き疲れた先で、さらに多くの人を殺してきた。


 大違いだ。

 ギルドで人々を救うこの人たちと私はまるで違う。


 私には、この空間に居る資格なんてない。


「オイ、どこ行くんだ。出て行く必要はないだろ?」


 軽くって、気だるげで、覇気の籠ってない声が私を掴んだ。


 ビクリ、と震える体。

 それを止めるように腕を回した後で、私は恐る恐る顔を上げた。


 目に映った男性はどこか面白そうに笑っていた。


「そんなビビらなくてもいいだろ。別に取って食うわけでもないんだ。でも新鮮だな。あんま怖く無いだろ俺の顔。いつも眠そうだって団員には馬鹿にされてばっかだし」


 自分の顔を指差し笑う男性を見て、ふっ、と体の力が抜けた。


 優しい言葉をかけられたわけでも、脅されたわけでもない。

 意味も無い、ただの言葉。私にとって必要のない言葉。


 けれど、気づくと私に圧し掛かっていた罪悪感は薄れていた。


 きっとこの人は私の過去や考えに興味がないんだ。

 ただ、今の私にだけ話をしてくれている。お前の過去なんてちっぽけでどうでもいい、とでも言うかのように。


 その無神経なただの言葉が、私には凄く有難かった。


「私、いてもいいんですか?」

「いいに決まってるだろ。怪我が治るまで面倒見てやるよ」


 ぶっきらぼうにそう言うと、男性は右手をこちらに伸ばした。


「俺はバルカン。このギルドの団長だ。お前は?」

「私は⋯⋯リコルです」

「リコルか。まっ、よろしくな」


 伸ばされた右手。

 微笑むバルカンさんの表情。


 それを交互に見つめた後で、私は命一杯の力で手を握った。


◇◇◇◇◇◇


 〈月華の兎(ルナミラージ)〉に保護されてから三日が経った。


 私の傷は深くはなく、既に立って歩けるまでには回復していた。


 全身に巻かれていた包帯も、今では両腕だけ。

 自分の能力に暫く包まれていたはずだけど、きっとあの赤紫の液体は能力者本人にとっては無毒に近いのだろう。


 私は読んでいた本を閉じると、包帯の巻かれた左手を見た。


 あの日⋯⋯私が裏ギルドに捕まった日。

 私は能力で多くの人を殺した。そして、私自身もその力に屈してしまうところだった。


 赤紫色の何かに私が飲み込まれ、意識を失おうとした時、誰かが私を助け出してくれた。


 朧げだが覚えている。

 顔も、声もわからない。それでも確かに誰かが私の手を掴んでくれた。助け出してくれた。


 バルカンさんの話では、あの場の生存者は私だけだったらしい。

 きっと、私を助けてくれた人はバルカンさん達と入れ違いになったのだろう。


 ヒーローなんていない。

 そう思っていた私に手を伸ばしてくれたあの人は、今どこにいるのだろうか。


 ぼんやりと窓の外を眺めていた私が再び本を開こうとした時、コンコン、と部屋の扉をノックする音が響いた。


「入ってもいいかな?」


 知らない男性の声。

 バルカンさんではない。もう少し低くて、はっきりとした声。


 一瞬躊躇したが、私は扉の向こうへと返事をした。


「は、ハイ! どうぞ⋯⋯」

「んじゃ失礼」


 返事が終わる間もなく、扉が勢いよく開かれた。


 立っていたのはやはり知らない男性だった。

 白い髪に赤と緑の束が混ざっている。頭頂部から毛先まで流れるように交互に走る髪色は珍しく、ちょっと派手だな、と思った。


 次に目についたのは、口を切り裂いたかのような傷跡。

 口の端から右の頬まで痛々しく続くその傷跡を見て、私はつい顔を顰めてしまった。


「おー、そりゃ気になるかコレ」


 私のあからさまな表情の変化を見て、男性は自分の口の右端を摘まんで伸ばすように引っ張った。


「もう痛かねェよ。何年も前の傷だ」

「わ、わかりましたから! 見せなくても大丈夫ですから!」


 見ていられず私が全力で止めると、ニシシ、と愉快そうに笑って男性は部屋に入った。


「なんもねェ部屋。もうちょい豪華にしてやりゃいいのに」


 男性はズカズカと部屋の中を歩き出すと、キョロキョロと辺りを見渡した。


 確かに部屋にはベッドと机と椅子、そして小さな本棚と窓があるぐらいだ。

 けれど、私は助けられて居場所を提供してもらっている身だ。それに今ままでの生活と比べれば幾分かマシだった。


「その、私は十分助かってますけど」

「へぇー欲のないこと。よくもこんな部屋で毎日引き籠れるなぁ」


 男性は直ぐに見飽きると、私の普段から使っているベットに腰を乱暴に下ろした。


「ちょっ!? そこ私が寝てて!」

「ん? ベッドはそりゃ寝るもんだろ。言われなくっても知ってるって」


 ベッドを乱暴に叩く男性に、私はもう何も言うことができなかった。


「それよか俺の事知らなそうだね。俺はローレル。一応はこのギルドの副団長をしてる」

「副団長⋯⋯」


 初耳だった。

 〈月華の兎(ルナミラージ)〉とその団長のバルカンさんは当然のように知っていた。けれど、副団長の存在は今まで聞いたことがなかった。

 まさかこんなにもデリカシーの無い人だったなんて⋯⋯。


「それで、ローレルさんはどうして私の部屋に?」

「ただの暇つぶし」


 欠伸をしながら答えるローレルさんだったが、それが嘘なのはわかった。


「忙しいですよね絶対。だって世界一位の副団長なら、仕事がいっぱいのはずです」

「どうだろ。俺、少し前から仕事が無くてな」

「そんなわけ⋯⋯」


 と、私が反論しようとした時、ローレルさんの声が遮った。


「だって俺、このギルド嫌いだから」


 今までで一番低い声だった。


「ギルドも、バルカンも嫌い。俺はさ、この環境が嫌で嫌で仕事を全部ほっぽり出してんだよ。だから暇なのは本当だ」


 低くて、寂しくって、つらそうな声。

 嘘を隠すこともなく曝け出した⋯⋯いや、まるでずっと溜め込んだものをようやく吐き出したかのような声だった。


 それを聞いて、私はまたしても何も言えなくなる。

 どう反応すればよいのか困ってしまう。


 すると、ローレルさんが傷跡に触れながら続けた。


「悪いな。困るだろ? もちろん知っててやった。性格悪くてね俺」

「⋯⋯いえ、そんなことは」

「あるだろ。いいんだよ。俺の勝手な遊びだからこれ」


 ローレルさんは立ち上がると、私が先ほどまで読んでいた本を掴み上げた。


「俺は遊ぶの好きだけど、アンタは毎日こんな本読んで楽しいか?」


 ペラペラとページを捲りながら尋ねたローレルさんに私は言い返す。


「楽しいです。本、好きなので」

「へぇー、つまらん人生だね。せっかく選べる生き方を、どうしてそんな嘘で塗り固めるんだよ」

「えっ⋯⋯」


 乱暴な言い方。

 けれど、それは私の心に深く刺さった。


 嘘じゃない。

 そう言うべきなのに、私の口は動いてくれない。どうしてなのかはわからない。わからないけれど、凄く怖くて怖くて仕方がなかった。


 震えて俯く私の前でローレルさんは屈むと、覗き込むようにして無理やり目を合わせる。


「アンタ、夢はある?」

「夢⋯⋯」

「そう。どうなん?」


 突然の質問とさっきの言葉に、私の頭はもういっぱいいっぱいだ。

 そのはずなのに、今まで上手く出なかった言葉が自然と出た。


「夢はありました。昔の事です。今は⋯⋯ありません」

「そっか。じゃあ俺と同じだな」


 ローレルさんは再び立ち上がる。

 それを追うようにして、私も反射的に上を見上げた。


「昔は俺にも夢があった。いや、俺たちの夢か。けどアイツが死んで、せめて形だけは保とうとしたが、もう無理だ。あのバルカンとこのギルドじゃな。けど夢の面白いとこってのは、いつの間にかまたできているとこだ。本人が望もうが望まないが関係ない。無理やり突然やってくる。どんだけ心の奥底に仕舞ってようがこじ開けてくる。⋯⋯どうやら夢ってのは思っている以上に諦めが悪いらしい」


 悪戯に笑うローレルさんに、私は気が付くと目を奪われていた。


 私の夢。

 それは医者になることだった。

 でも、もう助けたかった母親はいない。私が殺した。殺した力では人を癒せない。だから諦めた。私の夢はもう消えた。そのはずだった。


 けれど、ローレルさんの話を聞いて、どうしてだか私の胸は高鳴った。熱くなった。


 その意味を、今の私はまだ知らない。


「⋯⋯私にも夢はできますか?」

「できるさ。暇人仲間の俺が保証する」


 笑いながらピースサインを作るローレルさんに釣られて、つい私も笑ってしまう。


 あぁ、そういうことか。

 この人はきっと、これを言うためにわざわざ来てくれたんだ。


 だったらやっぱりローレルさんは凄い嘘つきだ。


「じゃあ楽しめたし俺は他の暇人仲間でも捕まえに行くわ。あぁ、その前にもうひとつ。バルカンの奴にちゃんと事件の内容話しときな。今のところアンタが倒れていた理由も、馬鹿共が死んだ理由も何一つわかってねーし」


 扉へと向かうローレルさんの背中に私は言う。


「バルカンさんのこと好きじゃないですか」

「まさか。ただ⋯⋯」


 立ち止まったローレルさんがゆっくりと振り向く。


「最(・)後(・)の人助けぐらいは手伝ってやろうと思っただけ」


 ゾクリ、と背筋が凍った。


 不気味。

 そうとしか表現ができない。


 最初に部屋に入ってきた身勝手な姿。

 心を揺さぶるような想いをぶつけた姿。

 そして、今の悪魔のように笑う姿。


 違う。

 全てが違う。


 何一つ私はローレルさんを掴めない。

 一体どの彼が本心なのか。わからない。今までの全てが私にはわからなくなった。


「ローレルさん⋯⋯?」

「ニシシ、なーんてな。それじゃ頑張れよ。夢見ガール」


 手を振って再び歩き出したローレルさんは扉を開けると、静かに部屋から立ち去った。


 困惑し硬直する私はいろんなことを考えるが、最後に残ったのはひとつの言葉


『――どうやら夢ってのは思っている以上に諦めが悪いらしい』


 夢。

 それについて考えていた私は、机に置かれたままとなっていた本を棚に戻した後で、ベッドに仰向きで転がり込んだ。


 ふと、ローレルさんが座っていた場所に手を置くと、微かにだがまだ熱が残っているような気がした。


◇◇◇◇◇◇


 次の日の朝、朝食を食べた後でバルカンさんに呼ばれた私は客間に通された。


 普段から借りている部屋じゃない。

 豪華そうなソファーに広めのテーブル。それ以外は殆ど同じだけれど、わざわざここで話をするのは私を気遣っての事だろう。昨日のローレルさんとは大違いの対応だ。


 ひとつのテーブルを挟み、お互いが向き合うようにしてソファーに座ると同時にバルカンさんが尋ねた。


「調子はどうだ?」

「お陰様でもう大丈夫です」

「そうか。ならよかった」


 安心したようにバルカンさんは微笑むと、懐から一枚のカードを取り出した。


「これを渡そうと思ってな。お前のためのギルドカードだ。失くしたって話だったし作っておいた。後はお前が魔力を流せば更新される」


 手渡されたカードを見る。

 薄いがしっかりとした硬さと若干の重みがある。カードには私の顔写真と名前、他には性別や誕生日と年齢などの個人情報が書かれていた。


 そういえば、と思い出す。

 バルカンさんと初めて会った日に、見たことも無いような機械で体を検査され、血液と魔力も抜かれていた。写真もこの時に撮ってもらったものだ。


「普通は産まれてすぐに作るもんだが、別に再発行するのは簡単だ。お前も物心ついた時には持ってたろ?」

「身分証明書⋯⋯ですよね。魔力を流せば自動で更新される、世界で一枚だけのカード」

「あぁ、持ってないのはかなりマズいからな。次失くしたらすぐ作れよ。どこのギルドでも大体手配してくれる」


 私は頷くと、ギルドカードを大事に仕舞った。


「ありがとうございます。わざわざ私のために」

「ギルドとして当然だ。それに調べたいこともあったしな」


 バルカンさんは座りなおすと、真剣な表情を作った後で口を開いた。


「お前の能力についてだ。まだ教えてもらってなかったしな」

「っ⋯⋯」


 言葉が詰まった。

 心臓がドクン、と脈打ったのを感じる。


 昨日のローレルさんにも言われたが、私はまだあの事件の全てをバルカンさんに話していない。


 なぜ私があそこにいたのか、なぜ死体が転がっていたのか。そして、私の能力についても。


 もしも全てを打ち明かせば、私が能力で彼らを殺したことがばれてしまう。

 罪から逃れるつもりはない。けれど、殺人犯を保護し手当までしたとなれば〈月華の兎(ルナミラージ)〉の評判がどうなってしまうか。それがわからない程、私は馬鹿でも自分勝手でもない。


 ⋯⋯というのもきっと言い訳だ。

 私はただ怖いだけ。私がどう思われるのか考えるのが嫌なだけ。ただ自分の罪から逃げているだけ。


 私はやっぱり、馬鹿で自分勝手なだけだった。


「⋯⋯バルカンさん、私は」


 震える声を振り絞った時、バルカンさんが困ったように両手を上げた。


「だがな、お前の紋章を調べても過去のどのデータにも引っ掛からなくてな。きっとそれ記憶者(メモライズ)の紋章じゃなくて、似ているだけのもんだ。生まれつきの痣かなんかだろ」

「えっ、いやこれは⋯⋯!」


 私が否定しようとすると、


「いいやただの痣だよ。だから大丈夫だリコル」


 真っすぐにバルカンさんがそう言った。


 あの時と同じだ。

 初めてバルカンさんと会って話した時と同じ。何も興味がないと、過去や罪などどうでもよいと、そう訴えかけてくれているようだった。


「だからもうあの日の事件は深く調査しない。裏ギルドの奴らが勝手に揉めて自滅した。そう上に報告してある。俺はただ裏ギルドに攫われた女を保護しただけ。んで、そいつが〈月華の兎(ルナミラージ)〉で働くうちに能力に目覚めただけだってな」


 バルカンさんは立ち上がると、私に向かって手を伸ばした。


 あの日と同じ。

 私を無理やり引っ張り上げるようにして、ただ手を伸ばす。


「どうだリコル? 俺のギルドで働けよ。まだ入団できる年齢じゃねェから見習いだがな」

「私で、いいんですか?」

「あぁ、お前がいい。俺の直感だ」


 笑いながら差し出すバルカンさんの手を見つめる。


 数日前と同じ光景だ。

 同じなのに、私の気持ちはまた高ぶっていた。


 人殺しの私を必要としてくれている。

 この人なら、過去やしがらみを取っ払ってくれる。


 何よりも、このギルドに入れば、私を助けてくれたあの人のようになれる気がした。


 そうか。

 きっとこれが私の新しい夢なんだ。


 誰かを助けるヒーローになること。

 居ないと諦めていたその存在が、私の在り方なんだ。


 薄っすらと目に浮かぶ涙を手で拭うと、私は意を決してバルカンさんの手を掴もうとした。伸ばそうとした。その時だった――。


『無理だよ、お前には。また大切な人を殺す気?』

「え⋯⋯」


 頭に響く声。

 何度も何度も聞いた声。


 どす黒く、重たく、ぐちゃぐちゃに頭を搔き乱して離さないあの声が、私の中に響く。


『両親を殺したお前はヒーローになんてなれない。あの男共を殺したお前は何も救えない。だって見てみろよ。これがお前の未来なんだ』


 刹那、視界が黒く反転したかと思うと、辺りには死体の山が広がっていた。


 お母さん。お父さん。

 見知らぬ男性に女性。子供まで。


 そして、肉体を溶かして転がるバルカンさんと、噴き出した血に溺れるローレルさんの姿がそこにはあった。


「⋯⋯ぅ」


 吐きそうだった。

 今にもあの赤紫色の何かを、邪悪な想いを、辺りにぶちまけてしまいそうだった。


『これがお前の未来。それでもいいならその男の手を取れよ。なぁ、リコル』


 頭の中にその声が沈んだ時、私は立ち上がると、部屋から逃げ出すために走り出した。


「オイ! リコル!」


 バルカンさんの声が背中にぶつけられる。


 それを無視した私は扉を乱暴に開けると、その勢いのままに建物の中を走り抜けていく。


 多くの人が驚くように私を見るが、もう関係ない。どうでもいい。


 私はただ、もうこの場に一秒たりとも居たくは無かった。もう二度と、余計な夢を見たくは無かった。


 人混みを掻き分け、無理やり押し通り、私は〈月華の兎(ルナミラージ)〉から逃げ出した。走って、走って、走り続けて――。


「待てリコル!」


 最後に誰かが私を呼び止めた気がしたが、気にせずに出口の扉を開けた。外に飛び出した私は後ろを振り向くことなく、街の中へと身を投げ出した。


◇◇◇◇◇◇


 どれだけの時間が経っただろう。


 〈月華の兎(ルナミラージ)〉から逃げ出して。

 私は気が付くと貧民街で生きていた。


 着ていた服は剥ぎ取られ、今はボロボロの布切れを羽織っている。お風呂なんてもう入ってもいない。寝床だって無い。そして食事は、この薄汚れたゴミの溜まり場で探す毎日だ。


 夜も更け。

 雨も降り。

 人声も風も生気も無い闇の中、私は身を預けるようにして座り込んだ。


 もう、死んでしまいたい。

 ただそう思った。


 私の中の何かはきっとそれを許さないだろう。

 また頭の中で呪いを呟き、死なせないように能力を使う。そして、いつかは私の身も心も奪い自分の物にしてしまう。


 その瞬間が来るまで、私はこの残酷な世界を生かされ続けるんだ。


 私は全てを諦め、とにかく何かを食べようと、近くのゴミを漁り始める。


 こうまでしてどうして生きなければいけないのか。

 生きた先に一体何があるというのか。


 私がそんなことを考えながらゴミを漁っていると、


「オイ、大丈夫かよあんた。風邪ひいちまうぞ」


 女性の声がした。


 可愛らしくて、でも力強い声。

 私が反射的に振り向くと、そこには赤い髪をしたひとりの少女が立っていた。


メモライズになった後に家から逃げだす→裏ギルドに誘拐→バルカンに保護→貧民街生活

といった流れですね。


バルカンがリコルの能力を知らなかったのは事実です。本来あり得ないことですが彼女の紋章は過去のデータになかったようです。だから入団試験でバルカンはリコルの能力を見て後悔しました。自分なら察することができたのに、と。


ちなみにバルカンが入団試験でリコルに最初冷たかったのは、今度こそ自分で能力を説明してほしかった(逃げないでほしかった)からです。不器用なんです彼は。

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