第2話 酔っ払い
暗い夜道をリオティスは歩いていた。
その背中には酔いつぶれて眠っているタロットを担いでいる。
〈トルビア亭〉の酒場を出ようとリオティスが考えた時には、既にタロットは意味不明な言葉を連呼し、苦しそうな表情で机に突っ伏していた。
放っておくわけにもいかないので、リオティスは彼女を背負って借りている宿を目指すことにした。
タロットの身長はリオティスと同じぐらいで、瘦せていた三年前と比べて肉付きも良くなり、体重も増えている。
そんな彼女を背負っているのにも関わらず、リオティスは多少の疲れしか感じていない。三年前に記憶者となった瞬間から、彼の肉体には底知れない力が溢れていた。
せいぜい感じることと言えば、タロットの柔らかい胸の感触。昔から大きかったその胸は数年でさらに大きくなっていた。
特に悪いことをしているわけでもないのに、タロットの胸を背中で感じるたびに謎の罪悪感がリオティスを襲う。
一方のタロットはと言うと、当然リオティスのことなど気にもせず、気持ちよさそうに頬を緩めて涎を垂らしている。
「⋯⋯もう二度とこいつには酒を飲ませてやんねェ」
リオティスはひとりぼやく。
だがそれと同時に、タロットに対して申し訳なく思う。
日々のストレス。
そのせいで今回酒に手を出したタロットを見て、リオティスは自分の今までの行動に疑問を持つようになった。
(俺はリラのためにと今まで戦ってきた。けど、最近はそのことに何も感じなくなってきている。タロットまで巻き込んで、俺は一体何をやっているんだ)
自分がしたいわけでもなく、リラの残された想いだけが今のリオティスを動かしているのだ。
それはもはや呪いと言ってもよい。
膨らんでいくリラの想いは、ただリオティスを苦しめているだけ。だが、そのことにリオティス自身は気が付いてはいない。
だからこそ未だに彼は悩んでいる。戦っている。
無駄とわかっていながらも、それでもリオティスはリラの幻影を追い続けるしかないのだ。
ふぅっと、リオティスは息を吐いた。
吐き出された白い息は夜空に吸い込まれ、冷たい風が肌を刺激する。
酒を飲んで熱くなった体を冷まし、考えを落ち着かせるのには丁度いい風だった。
「⋯⋯俺はどうすればいいんだ」
「ご主人⋯⋯」
リオティスの言葉に背中で寝ていたはずのタロットが反応する。
「ご主人は、好きなように生きればいい」
「⋯⋯⋯⋯」
「ご主人が何に苦しんでるのかタロットにはわからないけど、もう自分に素直になってもいいんじゃないか? 好きなことをして、好きな人といて、そうして笑えばいい。それが、タロットの願いだ⋯⋯」
「タロット、お前」
リオティスが聞き返すが、もうタロットの声は聞こえない。
すやすやと寝息を立てて、夢の世界に旅立っている。
きっと今の言葉も寝言だったのだろう。
リオティスはそう思うことにして、また暫く黙って歩く。
好きなように生きればいい。
そんなタロットの言葉が頭に響くが、だからといってリオティスにはその好きに生きるということがわからなかった。
(俺は自分が何をしたいのか、何が好きかなんてもうわからない⋯⋯いや、怖いんだ。好きになったものがまた目の前で壊れてしまうことが)
リラの最後の表情を思い出す。
彼女はごめんねと謝っていた。
悲しそうな表情で最後にそう言ったのだ。
そしてリラは死んだ。
あの時の絶望を未だ忘れたことはない。
(あんな思いをするのはもう沢山だ。だからーー)
そんな風にリオティスが考えながら歩いていると、何やら前方から話し声が聞こえてきた。咄嗟に目を開いてみると、奥の方に三人の影が映った。
ひとつは恰幅のよい男で、隣に立つもうひとりの男に向かって話しかけている。
「見なよスネイル! ゴミが僕ちんにぶつかってきたせいで服が汚れたぞ!!」
「左様ですか、カール様。では今すぐにでも帰り新しい服に新調致しましょう」
スネイルと呼ばれた男は宥めるようにしてそう言った。
「まったく、せっかく夜のお散歩をしていたのに台無しだ! 全部このゴミのせいだぞ」
怒りの表情でカールは、目の前に佇むゴミのように汚らしい少女を見た。
黒ずんでボサボサの赤い髪。服装も穴だらけで、ただの布切れを羽織っているようにしか見えない。布から覗く手足は細く、触れれば簡単に折れてしまいそうだった。
そんな少女はぼんやりとした目で空を見上げているだけで、カールの言葉も聞こえてはいない。
「こいつ、きっと貧民街から来たんだぞ! あぁ臭い、臭い。こんなゴミはさっさと片付けなくちゃな」
大げさに鼻をつまむカールは、何かを思いついたようで隣に立つスネイルに向かって言った。
「そうだ! スネイル、お前の剣術を見せてくれよ!」
「⋯⋯よろしいので?」
「こんなゴミが死んでも誰も気にしないよ。それとも、僕ちんに雇われているくせに言うこと聞かないつもりか?」
カールはスネイルを睨みつける。
それを見てスネイルは小さく溜息を吐くと、仕方がないといったように腰に差していた剣を引き抜いた。
鏡のように磨き抜かれた刀身が月の光を反射する。
まるで水に濡れているかのような美しい剣を間近で見て、カールは興奮していた。
そんな彼を無視して、スネイルは剣を振り上げる。
次の瞬間には斬られて死ぬというのにも関わらず、少女はやはり何の反応もしめさない。
瞳には光が無く、うっすらと開かれた口からは言葉が出る気配がなかった。
それはまるで彼女自身が死を望んでいるようにスネイルには見えた。
「悪いな」
スネイルはそれだけ言うと、勢いよく少女に向かって剣を振り下ろした。
せめて楽に死なせてやろう。
そんなスネイルの思いが乗せられた剣戟は、一瞬にして少女の首を切断したかのように見えた。だがーー、
「⋯⋯貴様、何者だ」
少女の首元、その寸前で止まった刀身。
それを小さな短剣で受け止めている仮面を着けた男に向かって、スネイルは尋ねた。
「通りすがりのただの酔っ払いさ」
仮面の男リオティスはそう答えると、勢いよく短剣を振るった。