プロローグ 私のヒーロー
私は誰も傷つけたくはなかった。
自分の中で蠢くドス黒い何か。
それは押さえつけようとする度に、どんどんと膨れ上がっていく。
ーー嫌だ、嫌だ、嫌だ!!
私はまるで自分が自分では無くなっていくような感覚に陥り、助けを呼ぶようにして心に叫んだ。
本当は大きな声を出して叫びたかった。
けれど、私は恐怖のあまり声を出すことが出来ない。
目の前には複数の大人の男達が群がり、私に向かって気味の悪い笑みを浮かべていた。
鼻息が荒く、興奮するように男達は私を見る。
きっと、この後に私がたどる運命は悲惨なものだろう。
男達に弄ばれて、体を触られてーー。
それを想像するだけで吐き気が込み上げてくる。
そんな私にできるのは、奇跡を願うことだけ。
誰かがさっそうと現れて私を救ってくれる。そう願うことしか出来ない。
けれど、私は知っていた。
この世界にヒーローなんて居ないということを。
もはや私の未来は変わらず、想像通りの結末を辿るしかないということを。
だから私は目を瞑った。
淡い期待に目を反らし、現実を受け入れたのだ。
私はもう助からない。
それが現実。ここにいること自体が、私の人生の終わりを示していた。
だからもう諦めよう。
私が私であることを。彼らを傷つけないようにすることを。
私がそう思ったとたん、押さえていた何かが勢いよく体から噴き出した。
ジュっと、焼けるような音がする。
そして、次に聞こえてくるのは男達の悲鳴。泣き叫ぶ声。のた打ち回るような音。
私は誰も傷つけたくはなかった。
そうだ。私が恐怖していたのは男達にではない。自分の内に潜む何かにだったのだ。
男達の悲鳴はやまない。
けれど、私はじっと目を瞑っているだけで何が起こっているのかはわからない。
ーーごめんなさい、ごめんなさい!
そうやって心の中で謝ることしか出来なかった。
気が付くと男達の声はもちろん、もう物音ひとつ聞こえなくなっていた。
けれど、私は未だに目を瞑っている。いや開けれなかった。
何かが私の体を包み込んでいるようで、身動き一つとれない。
息もできず、徐々に意識も遠のいていく。
ーー苦しい。誰か助けて⋯⋯。
私はまたしても願ってしまっていた。
誰も助けになんて来ない。
こんな残酷な世界では、自分の身は自分で守るしかない。そんなことは痛いほど知っているのに。
もう息が続かない。
今にも私は消えてしまいそうだった。
薄れゆく意識の中、誰かが私を呼んでいるような気がした。
最後の力を振り絞り、うっすらと目を開けてみる。
赤紫色の視界。
そこにはぼんやりとだが、確かに誰かが居た。
顔は見えない。
けれど、その人は懸命に私に向かって何かを言っている。
何を言ってるんだろう。
わからなかったが、何故か私は手を伸ばしていた。
どうしてそのような行動をしたのか、私自身わからなかった。どうせ助かるわけもないのに。その手を掴んでくれるはずがないのに。
何故ならこの世界にヒーローはいないのだ。そうだというのにーー、
「助けて⋯⋯」
私の口からはそんな言葉が零れだしていた。
すると目の前の人は私の手を握ると、勢いよく引っ張り出した。
私を覆っていた何かが崩れる。
それは赤紫色にうねっており、飛び散った一部は地面に付着すると、ジュっと音を立てて煙を出した。
間違いなく有毒だ。
きっと私に手を出そうとした男達も、この毒で死んでしまったのだろう。
私は助けてくれた人の左手を見た。
伸ばした手を掴んでくれた温かい手。
その手には赤紫色の液体がべっとりとついている。
きっと手には激痛が走っており、今後二度と動かせなくなる可能性すらあった。
そうまでして何故自分を助けたのか。あなたは何者なのか。
そんな様々な疑問が浮かぶ中、私の体はついに限界を迎え倒れてしまった。
最後に顔だけでも見たい。
その一心で私は目をこじ開けた。
霞んでろくに見えない中、そこにいたのは黒い仮面を着けた男の人。
誰が見ても不審者にしか見えないその人を、私はヒーローなのだと思った。
この世界にヒーローはいない。
そうだとしても、彼がヒーローであると信じたかった。
私はどうにかしてお礼を伝えたかったが、もう口どころか指一本動かせない。
そんな私には構わずに、仮面を着けた男の人はその場を去ろうとしていた。
ーー待って!。
そう言って止めたいが、今の私にはそれが出来ない。
深い眠気が襲い、いよいよ意識を刈り取ろうとした時、私は決意した。
今度会うことができたなら、絶対に言うんだーー。
伝えようとしたその言葉を思うよりも先に、そこで私の意識は途絶えた。