第6話 闇の正義
夢を見ていた。
終わることの無い永遠の夢を。
ひとりの男が立っていた。
乾いた砂の上。裸足で感じるのはザラザラとした感触と、尖った小石の痛み。見渡せば、自身を囲うようにして壁が聳え立っている。
直径が百メートル程の円形の広場だ。
その中心に立つ男へと、周りの視線は注がれていた。
そこは闘技場だった。
人間同士が戦い、血を飛び散らし、殴り合い、斬り合い、戦う。時には死人も出た。だが、観客はそれを見るために喜んで金をばら撒く。醜く、歪んだ、人間の欲望が具現化したかのような場所だ。
男はこの場所が嫌いだった。
見世物にされていることも、人を殴ることも、血を見ることも。そして、それを嬉々として観る客たちが嫌いだった。
だが、男には逃げる手段が無い。
この体は、生まれた瞬間から自分の物では無くなっているのだから。
男は汚れて擦り切れた両手を見下ろした後で、ゆっくりと顔を上げた。目の前に立つ、これから戦うであろう相手を見つめた。
小柄な少女が、そこには立っていた。
自分と同じように小汚い布で全身を覆い、覗かせる肌は汚れ傷つき、髪は泥と血でカチカチに固まってしまっている。
それは余りにもか弱く、吹けば飛ぶような命だった。
「⋯⋯やめようビア。こんなことは間違っている」
湧き上がる歓声に紛れるように、男は相手にだけ伝わるよう懇願した。
「俺たちが戦うなんて、あっちゃならないだろ。分かってるんだろ? これはアイツが仕組んだことだ。始まれば最後。俺たちのどちらかが死ぬまで終わらない」
「だろうね。でも、仕方ないじゃん。私たちの運命は生まれた瞬間から決まっている。逃げることだって出来ない。なら⋯⋯」
刹那、少女の様子が豹変した。
どす黒い殺気を放ち、乾ききった唇の端を吊り上げる。
「殺し合うしかないよね。丁度良かったよ。私、ずっと君を殺したくて仕方がなかったんだ」
まさに悪魔的だった。
目の前に立つ少女は人間の皮を脱ぎ捨て、ただ獲物の血を吸い尽くさんと狂気的な瞳で男を見ていた。笑っていた。
「四肢を捥いで殺す。目玉を繰り抜いて殺す。さぁ、殺り合おうよ! クラトス!!」
「⋯⋯違う。演技だ。そうなんだろビア!」
たじろぎながらも男は懸命に叫んだ。
「お前はそんな奴じゃない! あの日の言葉は嘘なんかじゃない! だって、俺は。俺はお前のことを⋯⋯!」
「煩いなぁ。バカだよねやっぱり君は」
男の説得を残酷に無視し、少女は大地を蹴った。
一瞬にして男の目前にまで接近した少女は、手に持っていた古びた刀剣を振り上げる。
「今までが演技だった可能性ぐらい考えなよ。私は生き残るためなら何だってする。これが、私の答えだ」
切り裂かれる胴体。
噴き出す赤い血の色と、耐えがたい痛みが、男の奥底に残っていた希望を黒く染め上げた。
◇◇◇◇◇◇
「先輩~。起きてくださいよ」
「⋯⋯ん」
耳元で囁かれる不快なノイズに、男は目を覚ました。
上半身を起き上がらせ、額に手を置くと、男は隣にしゃがみ込んでいた少女を見た。
黒い帽子に黒いマスクを身に着けた小柄な少女。
彼女はこちらの視線に気がつくと、くりっとした目を細めた。
「やぁっと起きましたね先輩。お寝坊さんですか? とりゃとりゃ!」
起きるのを待っていましたと言わんばかりに、少女は人差し指で男の脇腹をつつく。
鬱陶しいな。
男は寝起きでイライラする頭を冷ますため懐から煙草を取り出すと、慣れた手つきで火を付け口にくわえた。
「何の用だガキンチョ。俺は今機嫌が悪いんだ」
「マジで先輩寝起きヨワヨワですもんね~。ちゃんと眠れてます? 何なら私が添い寝してあげましょうか! ちょっと名案じゃないですかコレ!?」
「ったく、騒がしい奴だぜ」
男はひとりで勝手に盛り上がる少女を無視し立ち上がると、一度大きく煙を吐いた。
「暇じゃねェんだよこっちは。要件が無いなら帰んな」
「ゲホゲホっ。けむいですよ先輩。体に毒ですって」
「俺には薬なの。ついでにどこぞのガキ除けにも使える」
わざとらしく少女に向かって再び煙を吹きかける。
少女は咽返りながらも涙目で訴えかけた。
「煙草禁止にしましょうよ。ゲホ、あぁ変な匂い」
「禁止にさせたきゃ俺より強くなるんだな」
「無理言わないでください! それと、先輩絶対暇でしょ!」
「暇じゃねェって。フゥー、実際問題な。俺だけまだノルマ達成できてないのよ。いい加減ターゲットをおびき寄せる方法を考えねェとな」
寝惚け眼を擦りながら男がぼやくと、少女が煙を払いのけ得意げに胸を張った。
「ふふん! お困りのようですね先輩! 私が助けてあげましょうか」
「無理だろお前には」
「大丈夫なのでーす! 何と報告がありましてね。ターゲット自ら島に来るそうですよ!」
「あぁ? マジかよ」
思いもしなかった意外な言葉に、男は疑いの視線を少女に向けた。
「嘘吐いてんじゃねェの」
「本当ですって! それを報告しにきたんですよ! 信じてください先輩! 私が先輩に嘘を吐くわけないじゃないですか!」
「確かにな。そこはお前の良いとこだよ」
男はニヤリと笑って少女の頭を撫でる。
「サンキューなリノ。お前もたまには役に立つじゃねェかよ」
「ふえっ!? 先輩が褒めた!! ど、どどどどうしたんですかちょっと!? 悪いものでも食べました? ヤニの吸いすぎでいよいよ脳みそ壊れましたか?」
「⋯⋯やっぱ今の無しだな。お前は脳みそ壊しの刑な」
落胆するように男は肩を落とすと、目一杯吸い込んだ煙をリノの顔に吹き付ける。リノは「脳みそが壊れる!?」などと暴れまわるが、男は既に興味を無くして歩き始めていた。
「ちょっくらやる気出てきたなぁ。俺にもようやく運が回ってきたか」
男は吸っていた煙草を足元に落とし、靴底でグリグリと踏締めた。
そして再び懐に手を入れたかと思えば、次に取り出したのは折り畳み式の黒い櫛で、男はそれを自身のガチガチに固まったリーゼントに添わせるようにして動かしていく。
「バシッと決めてくぜ。オイ、リノ! お前は他の幹部連中に報告しとけ!」
「ゲホっ、うぅ。それぐらい自分でしてくださいよぉ。先輩だってオヴィリオンの幹部のひとりなんですから。〈五堕天〉が一角〝正義のクラトス〟さ~ん」
後ろから茶化すような声を飛ばすリノに、クラトスは櫛の先端を向けた。
「やめろ。俺は嫌いなんだよそれ」
「いいじゃないですか正義って! 私たちオヴィリオンそのものですよ」
「何が正義だ。それから仲間意識もやめろ。俺は一匹狼だ。だから勝手に部下を名乗るな」
「嫌ですよ。私は先輩に憧れてオヴィリオンに入ったんですから。死ぬ時も一緒ですぜ先輩!」
自信満々に親指を立てるリノに、クラトスは櫛を仕舞ってわざとらしく溜息を吐いた。
「面倒なガキンチョに目を付けられちまったな。俺は女にウロチョロされんのは嫌いなんだ。せめて視界には入らないようにしろよ」
「任せておきなって先輩!」
やはり謎の自信に満ち溢れるリノにうんざりしながらも、クラトスは今後の準備をするために再び歩き出した。
「てか女は嫌いとか言いましたけど、さっき寝言で誰かの名前を呼んでましたよね? 確かビアだとか⋯⋯」
リノが何気なくその名前を口にした瞬間、クラトスの足が止まった。
「オイ、次その名前を一度でも口にしてみろよ。⋯⋯殺すぜ」
「⋯⋯っ」
背中から発せられる殺気。
本気の殺意を全身に向けられ、リノは息をすることも出来ずに座り込んでしまう。
汗が噴き出す。
手足が震えて言うことを聞いてくれない。
リノの意識はもはや風前の灯火だった。
「分かったらさっさと報告に行け。お前はオヴィリオンに所属するひとり。俺の部下じゃない。俺はひとりで生きているんだ。今も、そしてこれからもな」
クラトスは吐き捨てるようにそう言うと、リノを置いて部屋から出て行った。
空間を支配していた重い空気から解放され、リノは汗を滴らせながら堪らずに地面に手を突いた。
「ハァ、ハァ、ハァ」
息を必死に吸い込み、吐き出す。
ドクン、ドクン、と煩く暴れまわる心臓を落ち着かせるように、リノは自身の胸を押さえた。
「⋯⋯やっぱ凄いな先輩は。ただの殺気でもうこっちは死にそうだよ」
脱力して、リノは前を向いた。
既に居なくなったクラトスの背中と言葉を思い出しながら、リノは疲れ切った笑みを浮かべた。