第1話 変化
賑やかな帝都モントレイサの街中を、ひとりの男が全速力で駆けていた。
人混みを手で乱暴に払いのけ、構わずに突っ切る。
まるで何かに追われているかのように男には余裕が無く、目立つ事も恐れずに怒号を上げた。
「どけェッ! 邪魔なんだよゴミ共が!」
明らかに正常では無かった。
血走った目。切羽詰まった表情。振り絞るような声。楽し気な雰囲気に包まれていた街並みは一変し、恐怖した人々は狂気から逃れるように道を開けた。
邪魔な障壁が見事に消えたことに満足した男は、大事に抱きしめていた鞄を一瞥する。
(逃げ切れる! ははは! これで俺の人生もバラ色だ!)
汗を流し、息を切らしながらも男は笑みを零した。己の明るい未来を予期し、確かな希望を抱いていたのだ。それが叶わぬ儚い夢だとも知らずにーー。
「逃がすわけねェだろ」
男の頭上から声が降り注ぐ。
危機を察知し、咄嗟に男は身構えるようにして上を見上げた。
見えたのは青色の影。
急速に接近するその影を男が認識すると同時に、全身に衝撃が走った。
「ぐはっ!?」
胸を締め付けるような痛み。呼吸もままならない。両手は固定されているかのように動かすことが出来なかった。足も同様だ。そして、背中に感じる圧倒的な重み。まるで鉄球を乗せられているかのようだった。
「確保。狡い盗みは止めとくべきだったなオッサン」
再びあの声が聞こえた。
男が痛みに耐え、懸命に目を見開くと、そこにはひとりの男が立っていた。
青い髪をした、美形で中性的な顔立ちの男。
その男ーーリオティスはしゃがみ込むと、男の顔を覗き込んだ。
「もうすぐしたらディザイアの人間が来る。まっ、暫くはそうやって地べたを這いつくばってんだな」
リオティスの言葉にようやく男も自身の現状を把握した。
手足は太く硬い縄で縛られ、完全に身動きが取れなくなっている。背中にはやはり重錘が乗せられているようで、男は成す術も無く地面に倒れてしまっていた。
「ぐっ、クソ。一体、いつの間に⋯⋯」
男は呻き、考えるが分からない。
あの一瞬で拘束されたという事実が受け入れられなかったのだ。
リオティスは男の疑問に答えることも無く立ち上がると、傍らに置かれた鞄に手を伸ばす。
「そんじゃこれは持ち主に返しとくか。昼間からひったくりしやがって。ちゃんと罪は償えよ」
話は終わりだと言わんばかりに歩き出すリオティスに、男は苦虫を噛み潰したような顔で叫んだ。
「ふざけるなよ犬野郎が! 絶対に、絶対に許さねェ! どこの所属だ!? 必ず復讐してやる!!」
「ん、俺の所属?」
今にも噛みつきそうな勢いの男に対し、リオティスは世間話を振られた程度の軽い反応を返した。
「俺は〈月華の兎〉の団員だ。もし復讐したいんだったらいつでも相手してやるよ。ただ、俺個人じゃなくギルドにも手を出すってんなら、次は手加減はしてやれねェからそのつもりでな」
リオティスはヒラヒラと手を振るうと再び歩き出し、二度と振り返ることは無かった。
◇◇◇◇◇◇
「本当にありがとうねぇ。私の鞄を取り戻してくれて」
鞄の持ち主である淑女は、穏やかな笑みを浮かべた。
見るからに高価そうな服装に、気品ある立ち振る舞い。
どうやら彼女は上流階級の人間であるようだったが、リオティスにはどうでもよいことであった。
「いえ、ただ近くにいただけなんで」
「そう? なら私は幸運ね。貴方のような強く優しい女性が傍にいてくれて」
悪気なく言う女性に、リオティスの顔は少しだけ引きつった。
女性じゃない。
そう反論しかかった口を閉じ、リオティスは努めて笑顔を作った。
「あはは、そうですね。おれ⋯⋯私もあなたと出会えてよかった。鞄も無事で本当に何よりです」
「この鞄は主人から貰った大切な物でね。中にはお金も入っていたけれど、それ以上にこの鞄が戻ってきてくれたことが私は何よりも嬉しいの。だからどうかお礼をさせてはくれないかしら」
「そのお気持ちだけで十分です。私も用事がありますので」
これ以上の面倒事を避けるべく、リオティスは慎重に断った。だが、女性は好感を持ったらしく、感激するようにリオティスの手を握る。
「本当に素晴らしい方なのね。分かりましたわ。ですが、せめてお名前と所属するギルドを教えていただいてもよろしいかしら?」
「それぐらいでしたら。私はリオティス。所属は〈月華の兎〉です」
「〈月華の兎〉⋯⋯」
ギルドの名前を聞いた女性は少しだけ驚いた様子だった。
「そうでしたか。いえ、噂や過去から決めつけるのは良くありませんね。事実、貴方のような素晴らしい団員がいらっしゃるのですから。後日、またお礼をしに伺わせて頂きますわ」
「分かりました。お待ちしています」
リオティスは短く返答するとお辞儀をして女性と別れた。
いつも通りの賑やかさを取り戻した帝都。
リオティスはようやく解放された安堵から大きな欠伸を漏らしながら、〈月華の兎〉に帰るべく歩き出した。
だが、リオティスの足はすぐさまに止まることとなる。
「何してんだよお漏らし野郎」
目の前に立ちはだかるようにして此方を見るひとりの少女。
水色のフードを深く被り、両手には何故だか白い毛並みの猫を持つ彼女は、同じギルドの同期であるフィトだ。
フィトは訝しむような目でジロジロとリオティスの全身を凝視する。
「⋯⋯君、何ですか今の」
「今のって、あの女性か? さっきひったくり野郎に鞄を盗まれてな。俺が取り返したんだよ。どうだ? ギルドらしいだろ?」
得意げに笑うリオティスに、フィトは口をへの字に曲げた。
「君が人助けって。それになんですかあの笑顔。鳥肌物でしたよアレ」
「全部見てんのかよ。仕方ないだろ、これもギルドのためだ。つーか、お前も何だよその猫」
見られていた恥ずかしさを誤魔化すように、リオティスはフィトの両手を指差した。掴まれている猫は呑気にニャァ、と小さく鳴いた。
「これは依頼です。逃げた猫を探して欲しいと頼まれたので」
「猫探しねぇ」
リオティスがフィトと猫を見比べていると、背後から聞き覚えのある煩い声が飛んできた。
「オーイ! ご主人!!」
振り向くと、そこには工具箱を片手に握りしめたタロットが嬉しそうに手を振るう姿があった。
「タロットか。何してんだ」
「ふふん、タロットはこれから屋根の修理に行くところだ!」
「修理⋯⋯。お前、無駄に手先器用だからな」
納得しつつも、違和感を覚える。
当然だ。フィトもタロットも、まるでギルドとは思えないような仕事を当たり前のように行っているのだから。
「これがBランクギルドのすることかよ」
呻くようにリオティスは溜息を吐いた。
Bランクに昇格してから早一か月。
仕事のまるで無かった〈月華の兎〉にも、ようやく幾つかの依頼が入るようになっていた。だが、内容はどれもくだらないものばかり。リオティスが苦悩するのも無理は無かった。
「仕方ないですよ。Bランクと言ってもボクたちの評判は最悪なんですから」
フィトの発言は、どこか自分自身に言い聞かせているようにリオティスには聞こえた。
「こんなんじゃAランクは夢のまた夢だな。もっと手っ取り早くデカイ依頼でも来ないもんか?」
「無理ですよ。そもそもギルドは一に実力。二に信頼です。まずは悪いイメージを払拭するために、地道な土台作りからです」
「何年掛かると思ってんだよ⋯⋯」
フィトの言い分は最もであったが、リオティスには時間が無かった。
何故ならば一年で〈月華の兎〉を〈六昇星〉にするという目標があるのだ。アンジュにも言った手前、何よりも自分でようやく見つけた夢でもあったため、リオティスにはこの現状を打破する必要があった。
さてどうしたものか、とリオティスが悩んでいた時、
「あっ、お姉ちゃん!」
そんな子供の声がした。
走り寄ってきた小さな少年。
リオティスにはまるで見覚えが無かったが、彼を見たフィトが驚いたように目を見開いた。
「君はあの時助けた⋯⋯! 元気でしたか?」
「うん! お姉ちゃんのお陰だよ!」
無邪気に笑う子供に、フィトは微笑みかけた。
「そうですか。良かったです」
フィトの脳裏に思い出されたのは、帝都に魔獣が現れた日のことだった。
あの日、フィトは魔獣に殺されそうになっていた彼を助けていた。名前も何も聞いてはいなかったため、もう二度と会うことも無いだろうと考えていたが、運命は再び二人を引き合わせたのだ。
そんな笑いあう二人の元に、ひとりの女性が近づいた。
「あなたがこの子を助けてくれたんですね! あぁ、何とお礼を言っていいのか。ずっと、あなたを探していたんです」
どうやら彼女はこの子供の母親のようだ。
母親を加えた三人で話を始めたフィトを、リオティスはただ見つめていた。
「アイツの知り合いか」
「みたいだなご主人。フィトも良い奴だからな! ご主人のように助け回ってるんだろう」
「別に俺は⋯⋯」
否定しようとしたリオティスの言葉を、別の声が遮った。
「すみません! もしやあなた方は〈月華の兎〉の団員じゃないでしょうか?」
「ん、そうだが?」
タロットの視線の先にはやつれたひとりの女性が立っていた。
彼女はタロットの姿を何度も確認した後で、泣き崩れるようにして地面に膝を付いた。
「〈月華の兎〉に所属する獣人。じゃあ、あなたが氷の魔法師なんですね⋯⋯! あなたが私の子を見つけてくれた⋯⋯!」
「私の子?」
身に覚えがないと首を傾げたタロットに、女性は涙を流しながら懸命に説明した。
「二か月ほど前、私の子供が誘拐されました。そして、殺された。死体だけが返ってはきましたが、もうあの子の体じゃなかった。機械のように改造されていたんです!」
「もしかして」
ひとつ、心当たりがあった。
それはリコルと共に迷宮に逃げた偽の死神を追った時のことだ。死神は能力で誘拐した子供を改造し殺した。恐らくはその子供の事を言っているのだろう。
「だが、タロットは何も出来なかった。救えなかったんだ」
「それでも、死体を綺麗なままで私の元に届けてくれた。見つけ出してくれた! 中身は違っても、私の子供には違いないんです。だから、ありがとうございます。最後にあの子と私を会わせてくれて⋯⋯」
泣きながら必死に話す女性に、タロットは困惑しつつも優しく背中を摩る。彼女もまたフィトと同様に、女性からの想いを受け止めていた。
二人の様子を少し離れた所から見守ることにしたリオティスも、同じような心持だった。
偶然、この場でフィトとタロットを探している女性たちが出会ったのだ。以前のリオティスであれば多少なり疑いを持っていただろうが、今は違う。彼女たちの想いが、この出会いをもたらしたのだと理解することが出来た。
「にしても、流石に目立つな」
リオティスは苦笑いを溢す。
帝都の中で人目も気にせず涙を流し、感謝する彼女たちに人々の視線が集中するのは当然のことだった。
さらには〈月華の兎〉の団員だということも分かっているようで、次第に人々の陰口は大きくなっていった。
「⋯⋯あれ、〈月華の兎〉だろ? 何やってんだ?」
「泣いてるわよあの人」
「また何かやったんだろ。とんだ屑ギルドめ」
隠そうともしない憎悪がリオティス達に向けられる。
いつもと同じだ。
別段、リオティスも気にする事も無かったが、人々の話声の中にとある違和感を見つけた。
「⋯⋯でもなんか感謝してるみたいだぜ」
「本当だ。もしかしてやっぱり〈月華の兎〉も変わったのか?」
「たったの五人で高難易度の迷宮を攻略したって話だ」
「しかもディザイアの敵対組織と戦闘し、捕獲したんだとよ」
「マジか。凄ぇな」
罵倒や陰口に紛れ、確かにそんな声が聞こえてくるのだ。
「ちゃんと進歩はある、ってわけか」
リオティスはひとり呟くと、フィトとタロットを置いて〈月華の兎〉へと帰ることにした。
もはやリオティスがこの場に居る理由も意味も無い。
仕事の残っているフィトやタロットと違い、リオティスに残っているのは依頼達成の報告ぐらいだ。何よりも、あの空間は彼女たちのもの。邪魔者は消えた方が無難だろう。
リオティスは颯爽と歩き始めた。
ヒソヒソと話す人混みを掻き分け、視線を無視し、帰るべき場所へと進んでいく。
今はまだBランクの最低最悪なギルドに違いは無い。
だが、この仲間たちとならばきっと辿り着くことが出来るはずだ。世界最強の一角に。誰もが認める最高のギルドにーー。
リオティスは先ほどまでの不安を振り払い、希望を胸に抱いて前を見据えた。