第42話 クソ兄貴
迷宮攻略から一週間後。
ティアナはようやく癒えだした傷跡をそのままに、とあるギルドの前に立っていた。
多種多様なギルドが建ち並ぶモントレイサの街並みの中でも、圧倒的な存在感を放つ巨大なギルドの入り口を見上げると、華やかな文字が嫌でも目に映った。
『Sランクギルド〈歳星の鷲〉』
それは世界三位の実力を誇るギルドであり、ティアナが最も恐れていたギルドだった。
ふぅ、とティアナは小さく息を吐きだす。
緊張する体に鳴り響く心臓の音。
気が付くと両手は汗で濡れ、隠すことの出来ない恐怖を自覚せざるを得なかった。
(やっぱり怖い。あの男に会うことが、心の底から怖い。でも、それでいい。恐怖を無理やり押さえつける必要なんてない。少しずつでいい。少しずつ、前に進んでいけばそれでいい。だから、私は今ここにいる)
震えて冷たくなった両手を握りしめると、ティアナは真っすぐにギルドを見据えて叫んだ。
「私は〈月華の兎〉の団員、ティアナ!! デルラーク=ディアティールに要件があります。早急にこの場に下りてきなさい!!」
賑わう街のど真ん中。
さらにはSランクのギルドに対して怒号に近い叫びを上げたティアナに対し、周りを歩く人々の視線は一気に集中した。
珍しい黒色の髪。整った顔立ち。スラリと伸びた長い脚。
見れば見る程に美しい少女の姿に目を奪われる中、街行く人々が何よりも興味を示したのは、彼女の口から発された〈月華の兎〉というギルドの名前だった。
一度は世界の頂にまで上り詰めた最強のギルドでありながらも、ディザイアを裏切り地に落ちた最低最悪のギルド。
〈月華の兎〉に対する認識は皆同じであり、名前を聞くだけで誰もが嘲笑を浴びせるだろう。
だが、今日この場だけは違った。
最低ランクの〈月華の兎〉が、現〈六昇星〉の一角である〈歳星の鷲〉に喧嘩を売っている。
ティアナの堂々たる立ち姿と眼差し。
何よりも王族であり、絶対的な権力者であるデルラークへ放った無礼極まりない発言が全てを物語っていた。
人々の期待と興奮がピークに達した時、ギルドの扉が静かに開かれた。
現れたのはひとりの女性だった。
前髪を眉の高さに真っすぐと切りそろえ、後ろ髪も清潔に短くまとめられている。身だしなみも黒色のワンピースの上から白いエプロンを着用しており、汚れは一切見当たらない。
女性は一度、ティアナの頭のてっぺんからつま先までを観察すると、優雅にお辞儀をした。
「お久しぶりですティアナ様。ご元気そうでなりよりです」
「貴方もね、ミラア。それでどうして副団長の貴方が来たのかしら? 私はお兄様を呼んだのだけれど」
ティアナの言葉に、ミラアは顔を上げた。
無表情で氷のように冷たいミラアの視線がティアナに突き刺さる。
「聞きたいのはわたくしの方です。デルラーク様に何用で?」
「妹が兄に会うのに理由が必要かしら?」
「⋯⋯二つ、誤解があるようで。ひとつ、貴方は最低ランクのギルドに所属する団員。本来どのような理由があろうとも、Sランクのギルドのましてや団長と面会が許されるわけがありません。二つ、ティアナ様はもうあのお方の妹ではありません。デルラーク様のギルドに無礼を働く。デルラーク様の妹を名乗る。その意味、お分かりですよね?」
ミラアは相変らず無表情であったが、言葉ひとつひとつから感じ取れる重みと、身体から発せられる圧迫するような雰囲気から、彼女の心情を汲み取るのは容易だった。
だが、ティアナは動じない。
ミラアの圧を前にしても、微塵も覚悟が揺らがなかった。
自身の立場。弱さ。
そんなことは自分が一番、痛い程に理解していた。
本来であれば、ここに立つことも許されないのだろう。
もしかすれば、生きて〈月華の兎〉に帰ることも叶わないのかもしれない。
恐怖と不安を抱きつつも、ティアナが今なおこうして立っていられるのは、他でもないリオティスのお陰だった。
不器用で、言葉遣いの荒い、大切な仲間。
彼が迷宮内で教えてくれたのだ。
自分の存在価値を。生きる意味を。そして、本当にやりたかったことをーー。
(リオティスのお陰で、私は今ここにいる。彼のことを思い出すと、何故だか勇気が込み上げてくる。だから大丈夫。私は、私の信じる道を歩いて行ける!)
迷宮でのリオティスとの会話を思い出しながら、ティアナはミラアに言い放った。
「意味なんて関係ないわ。私があの男に会いたいだけよ。だから貴方がすべきことは、私が今から言う言葉を一言一句漏らさずに伝えること。『今までイジメていた妹にビビッてるんじゃないわよ。その情けない顔を見てあげるからさっさと下りてきなさい。クソ兄貴』と」
「なるほど。つまり死ぬ覚悟は出来ている、ということですね⋯⋯?」
ミラアの眼光が空間を鋭く射抜いた時、彼女の肩に手が置かれた。
「そこまでにしておけ。この人殺しの相手は俺だろう?」
「デ、デルラーク様⋯⋯」
いつの間にか背後に立っていたデルラークにより、ミラアは仕方なく肩の力を抜くと、邪魔にならないように一歩後ろへと下がる。
無表情な鉄の仮面を崩さなかったミラアだったが、この時は少しだけ悔しそうに下を向いていた。
「何しに来た人殺し。思惑の外れた俺を揶揄いにでも来たか?」
ティアナの前に立ったデルラークは、憎悪の籠った目で彼女を見下ろす。
光も色も無い黒い瞳。
何度も向けられて来た闇を前に、ティアナの恐怖は膨れ上がった。
煩く暴れまわる心臓。額に滲む脂汗。震える身体。
その恐怖を悟らせまいと、ティアナは強気に言い返した。
「貴方のような意地の悪いことは考えないわよ。でもこうして見れば案外良いものね。どうかしら? 一方的に有利なゲームで負けた気持ちは」
「正直言って最悪だな。だが、お前に会えたことで少しは楽になりそうだ」
デルラークは素早く腕を伸ばすと、ティアナの右手首を掴んだ。
ビクリ、とティアナが怯えるのをデルラークは見逃さない。
「さっきまでの威勢はどうした? まるで生まれたての小鹿のように震えて。お前にしては上出来だったな。気丈に振舞って、足掻いて。だが人間の本質は変わらない。お前は負け犬なんだよ」
「ぐっ⋯⋯」
絶望に顔を歪めるティアナ。
そんな彼女を見て、ミラアはつい笑みを零してしまう。
「フフっ⋯⋯コホン。失礼しましたデルラーク様」
「いや、いい。こんな間抜けを見れば誰でも笑う。まるで見世物だ。お前らもそう思うだろう?」
デルラークが街中の人々に尋ねる。
人々は困惑の色で互いに見つめ合ったが、次の瞬間には大きな笑い声を上げていた。
当然だ。
デルラークに逆らうことなど出来るはずも無いのだから。
心地の良い笑い声に満足そうに頷くデルラークだったが、彼の腕をティアナが振り払った。
「⋯⋯相変らず良い性格をしているわね」
「⋯⋯⋯⋯」
「どうかしたのかしら?」
突如押し黙るデルラークに違和感を覚えたティアナは警戒する。
すると、デルラークは訝しむように尋ねた。
「⋯⋯お前本当にあの人殺しなのか?」
「え」
「いや、気のせいか。ハァ、もういい。やはり堪えているのかもな。⋯⋯要件を言え。お前を甚振るのはその後だ」
額に手を置き疲れたようにデルラークは溜息を吐く。
ティアナには未だ一抹の不安があったが、震える右手を握りしめ、意を決してデルラークへと向き直った。
「大したことじゃないわ。ただ、私は貴方と⋯⋯今までの私と決別しに来たの。私はもうディアティールの名に囚われない。私は、私のために生きる。仲間のために生きる。追い出されて偶然見つけた居場所だけど、今じゃ私にとってはかけがえのない場所なの。だから、もしも貴方がまた私の居場所を奪おうとしたら、容赦はしない」
ティアナは腰に差された真っ白な宝剣の柄へと右手を伸ばす。
刹那、鞘から眩い光が零れだすと、辺り一面の空気が鉛のように重くなった。
全身に刃物を向けられているような、息をすることさえ阻まれるような、賑やかな街並みには到底似合わない地獄のような空気が流れ出す。
汚い笑いを響かせていた人々が次々に倒れていき、間近に立っていたミラアまでも息が出来ずに苦しみ始めた。
汗を滝のように全身から流し、立つことも出来ずに地面に手を突いてしまう。
(息が、出来ない⋯⋯!?)
薄れゆく意識の中、ミラアが感じたのは自身を受け止める力強い腕の感触だった。
「デル、ラーク様⋯⋯」
その言葉を最後に、ミラアは完全に気を失った。
気絶するミラアを抱きかかえるデルラークは、ティアナに驚愕の視線を向ける。
「⋯⋯まさか、抜いたのか? その剣を」
「えぇ」
静かに頷くと、ティアナは柄から手を放した。
「言っておくけど。戻るつもりはないわ」
「誰も戻ってこいなどと言うつもりもないがな。そもそもまだ扱えていないんだろう? この悲惨な状況が何よりの証拠だ。母上なら、こんな被害は絶対に出さない」
デルラークが周りを見渡せば、見物していた人々の数人が倒れ、他の者たちもその手当てに追われていた。
腕の中で気を失ったミラアをデルラークは強く抱きしめる。
「言っただろう。人間の本質は変わらない。お前は人殺しだ」
「そうかもしれない。私はあの人に遠く及ばないのかもしれない。けれど、私には仲間がいる。この力はそのために振るうわ」
真っすぐで美しいティアナの瞳に、デルラークは逃げるように背を向けた。
「今回は俺の負けだ。今日にでも正式にBランクへと昇格されるだろう。だが覚えておけ。その力はお前には制御しきれない。お前が何を思い、何のためにその剣を振るうのかは興味も無いが、いつか代償を払うことになる。それでも諦めず無様に歩き続けるというのならば、俺が直々に終わらせてやる」
デルラークは吐き捨てるように言うと、ギルドの中へと戻っていった。
緊張から解放され全身の力が抜けたティアナはよろめくが、足に力を入れなおし踏み止まる。
頭に残るデルラークの言葉を噛みしめながら、ティアナは倒れる人々の元へと走り出した。
◇◇◇◇◇◇
デルラークが扉を開けると、そこにはひとりの男が座っていた。
場所は〈歳星の鷲〉の一室。客間。
広々とした空間に派手な装飾品が施され、高価な美品が飾られている。
デルラークが所有するギルド内で、最も心が安らぐ場所だと自負する部屋であったが、今は一刻も早く立ち去りたい気分だった。
原因は言うまでも無く、部屋の高価なソファに腰深く座る男のせいだろう。
優しい顔をした男だった。
手入れのされたブロンドの髪。流された前髪は右目を覆い隠し、後髪は背中に届くほど伸びている。高い鼻や凛々しい目元からか、歳は三十を超えているのにも関わらず若々しく見えた。
男は部屋に入ってきたデルラークを見ると、目尻に皺を寄せて微笑んだ。
「遅かったねデルラーク。外が騒がしかったが何かあったのかい?」
「何でもないさ。どこぞの兄妹が喧嘩でもしていたんだろう」
デルラークは扉を閉めると、男の正面へと腰掛けた。
「それで。世界一位のギルドマスターが、三位の俺に何の用だ? なぁ、ウィルヘルム」
デルラークの瞳の奥が歪む。
すると、ウィルヘルムはテーブルに置かれたティーカップに視線を落とすと手を伸ばした。
「そう卑屈にならないでほしいな。私はただ任務の帰りに立ち寄っただけだし、何ならデルラークと仲良くしたいと思ってるんだ」
「俺と仲良くなりたいなら方法はひとつだ。視界から消えろ。お前の顔を見ると無性に腹が立つ」
「アハハ、相変らずだねデルラークは」
ウィルヘルムは困ったように笑うと、ティーカップに優しく唇をつけた。
口に広がる程よい甘味と、鼻に抜ける豊かな香り。
美味しい、と小さく呟くとウィルヘルムは続けた。
「私も長居するつもりはないよ。ただデルラークに聞きたいことがあるんだ。私が魔神の討伐に行っていたのは知ってるだろう?」
「あぁ、任務の帰りと言ったな。まさか失敗でもしたか?」
「またそうやって私の地位を落としたがる。勿論、成功したよ。ただ例のオヴィリオンも接触してきてね。これについてはまんまと逃げられた。聞いてはいたけど、逃げがうまいよ」
「言い訳か。まさか慰めろとでも」
「いやしないだろうデルラークは。そうじゃなくて、ひとつ気になる話をしてたんだよ。それでちょっと聞いてみようと思ってさ。⋯⋯デルラークは知ってるかな」
再びウィルヘルムは紅茶を口に含む。
ゴクリ、という喉を通る音が聞こえる程に静かな部屋でウィルヘルムはティーカップを置くと、デルラークを見つめた。
「〝始まりの記憶者〟についてーー」