第37話 手②
「リオ、ティス⋯⋯」
崖から身を落とし、もはや絶命は免れないと諦めたティアナであったが、彼女の視線の先には恐怖も絶望も闇も無く、ただひとりの男の顔だけが見えていた。
汗を滴らせ、顔を歪ませ、息も絶え絶えで、それでも必死に赤く染まった左手でティアナの腕を掴むリオティスは、崖から身を乗り出し、彼女が落ちてしまわないように強く強く握りしめている。
「ゼェ、ゼェ⋯⋯大丈夫、だ。今、助ける」
震える声で、リオティスは言う。
だが、それが虚勢であり、自分自身に言い聞かせて平静を保とうとしていることはティアナにも直ぐにわかった。
血がしみ込んだ左手の包帯や、苦しそうな、泣き出してしまいそうな余裕の無い表情も、見える全ての情報がこの危機を物語っていた。
腕を掴むリオティスの左手は少しずつ力を失い、上半身は今にも落ちてしまいそうな程に崖から乗り出してしまっている。
パラパラと、不安定で崩れかけた地面から小石が落ちていく。
次の瞬間にはリオティスが身を置いている大地が崩壊し、二人を共に地獄に落としてしまうかもしれない。
それでもリオティスはティアナの手を離さなかった。
感覚も失いつつある左手で、必死に掴み上げようとしている。
普段の打算的なリオティスからは考えられないような、命すらも厭わない覚悟の理由を、ティアナは知っていた。
リラとリコル。
二人の愛する者を救えなかったリオティスの後悔と苦しみを、ティアナは知っていた。
手を伸ばしても届かず、掴んでも離れてしまう。
何度も何度も、悪夢に魘される度に思い出す自身の無力さと喪失感。前を向き、笑顔を取り戻したリオティスだったが、心の奥底にこびりついた呪いは未だ消えてはいない。
肉体のダメージも、体力も、リオティスにとっては些細なことであり、この場で彼を一番苦しめているのはまさしくその呪いなのだ。
リラとリコルの死が脳にフラッシュバックし、見下ろすティアナの姿と重なる。
助けると言葉にしても、拭えない己の弱さと卑下の心。
リオティスは必死に折れないように自分を保とうとしているが、それももう限界に近かった。
(クソッ、何でだよ。何で力が入らないんだ。助けるって決めてたのに。何で持ち上がらないんだ。ダメだ。俺は、もう⋯⋯)
リオティスの心が折れかけた時、ふとティアナの顔に焦点が合った。
リラとリコルを思い出さないようにするためにか。
無意識に認識しないようにしていたティアナの顔がハッキリと見えると、そこには恐怖も不安も一切を感じさせない、真っすぐな瞳が向けられていた。
死にたくない。
助けて。
生きたい。
リオティスがリラとリコルから向けられた想いとは違い、言葉を発さないティアナから感じ取れたものは、強い信頼だった。
絶対に助けてくれると、絶対に出来ると、ティアナは本気でそう信じているのだ。
「ぐっ、ぅぅ。ァァァァァァッ⋯⋯!!」
ティアナからの信頼に気が付くと同時に、リオティスの体から底知れない力が込み上げる。
全身が熱を帯び、痛みが走り抜ける。
だがリオティスには全てが関係なく、ただひとつの事が脳を埋め尽くし、筋肉を、細胞を動かしていた。
助けたい。
その他の一切の考えを捨て去ったリオティスは、声にならない声を絞り出し、命を燃やし尽くすかのような全身全霊の力でティアナを引き上げた。
ドサリ、と大きな音を立てて、リオティスとティアナは大地に倒れる。
「ゼェ、ゼェ、ゼェ、ぐっ⋯⋯ゲホゲホっ」
「ハァ、ハァ、ハァ⋯⋯」
仰向けに倒れるティアナの耳には、自分とリオティスの荒い呼吸音だけが聞こえ、次第に心臓の音も鳴り響く。
ドクン、ドクン、と。
脈打つリズムを耳で感じ、そっと胸に手を当てて肌で感じる。
そうして初めて、ティアナは自分が生きているのだと実感することが出来た。
「そうだ、リオティス⋯⋯!!」
思い出したかのように起き上がったティアナは、すぐ隣で倒れて動かないリオティスを見た。
うつ伏せで倒れ、息を全身でするリオティスの安否を確認しようと手を伸ばした時、突然彼は勢いよく寝返ると、大の字になりながら言った。
「よかったぁ⋯⋯」
「っ」
心の底から安心するように優しい声を零すリオティスの笑顔に、ティアナの心臓は再び意識出来る程に動き出す。
胸の奥が温かくなり、痛いような、くすぐったいような、気持ちのいいような、そんな謎の感覚に襲われた。
(これって、あの時と同じ。どうしたんだろう、私。こんなの初めて。リオティスのことを見ると、何だか凄く変。ドキドキする⋯⋯顔が、熱い)
ティアナが心地の良い違和感に頭を悩ませていると、リオティスがゆっくりと上半身を起き上がらせた。
「ハァ、にしても凄い崖だな。何があったんだよコレ」
「私も知らないわ。番人を倒して出たらこうだったの。まるで巨大な剣で斬り裂いたような⋯⋯あっ」
言葉の途中で何かに気が付いたかのように、ティアナが口を押えた。
「ん? どうした」
「⋯⋯ごめんなさい。コレ、私のせいかも。多分、この剣の能力が原因だと思う⋯⋯」
恥ずかしそうに謝るティアナ。
だが、リオティスは怒ることも無く、寧ろ嬉しそうに笑った。
「マジか。それ抜いたのか! ハハ、流石だなティアナ」
「うっ⋯⋯うぅ。ちょっと、待って」
「はぁ? 何だよ。凄いことだろ」
「そうじゃなくて、その。私さっきから変で。だから、ちょっと、こっち見ないで」
熱くなった顔を隠すように両手で覆うティアナに対し、リオティスは不思議そうに首を傾げる。
「大丈夫か? もしかして怪我したのか? さっきも倒れて落ちそうになってたし」
「だ、だだだ大丈夫だから! だから、今は近づかないで!! それに怪我ならリオティスの方が酷いじゃない!?」
近づくリオティスを制し、話を逸らすティアナ。
だが事実、リオティスの怪我は重症のように見えた。
「あー、まぁ大丈夫だ。普通に痛いし血も無いしふらつくけど、少し寝ればマシになる。記憶者だしな」
「そ、そういうものなの?」
「あぁ、心配してくれてありがとな。⋯⋯いや、それだけじゃないか。ティアナ。俺のこと信じてくれてありがとう」
真っすぐにティアナを見つめ、感謝を口にするリオティスの姿は、少し前の彼とはまるで違い、柔らかな表情だった。
「⋯⋯変わったわね。貴方」
「そうか? まっ、気分がいい今だけかもな。んじゃ、俺はもうちょい休むから、完全に〝ロスト〟が消えたら教えてくれ」
まるで気にしていないように再び倒れたリオティスは、ティアナに背を向けるように寝転がる。
そんな彼の後ろ姿を見つめながら、ティアナは心を落ち着かせると、意を決して口を開いた。
「あ、あの! リ、リオティス。そ、その⋯⋯あっ、りが⋯⋯と」
「うーん、何か言ったか?」
ティアナの声に振り向くリオティスだったが、どうやら聞こえなかったらしく、再び顔を見てしまった恥ずかしさも相まって、ティアナはつい視線を逸らしてしまう。
「べ、別に何でもないわよ!」
「何だよそれ。全く、お礼ぐらいちゃんと言えよな」
「なっ!? 聞こえてるじゃない!!」
「あー、やっぱそういうのだったのか? ふーん、なるほどなぁ。へぇー」
「騙したわね!? そういうところよもうっ!!」
「ハハハ。悪い悪い。ホント、お前は可愛い奴だな」
「か、可愛い!? え、えっ!! それって⋯⋯」
「チョロくて面白いってこと⋯⋯イタっ! って叩くなよ! こっちは怪我人だぞ」
「うるさい!! リオティス、貴方って人は本当に⋯⋯」
などと、リオティスとティアナの騒ぎ声が崩壊寸前の〝ロスト〟に響いていく。
言い争う二人だったが、その表情は今までの人生で一番輝いていた。