第36話 手①
眩く白い光が闇に染まった世界を斬り裂く。
果てしなく続く黒い宇宙空間を光は走り抜け、番人を貫き、迷宮の核である巨大な脈打つメモライトまでを飲み込んだ。
他の色の一切を受け付けず、混ざらず、ただ触れた物全てを白に還す狂気的な光は次第に弱まっていくと、微かな粒子となって弾けて消えていった。
「ハァハァ⋯⋯ハァ」
自身の荒い呼吸だけが耳に響く。
ティアナは朦朧とする意識の中、右手に握られた真っ白な宝剣を見つめた。
傷も無く、汚れも無く、憎いほど白く美しいメモリーは、彼女の人生を狂わせた元凶だった。
母を亡くし、父に見放され、兄に侮蔑される毎日の中で、ティアナに残された選択肢は剣を振るうために生涯を尽くすことだけ。
ディアティール家に伝わるメモリーを扱うことさえ出来れば、罪が浄化され、許されると考えていた。
だが、今こうして剣を抜いたティアナが思い出していたのは、リオティスと〈月華の兎〉の仲間たちの顔だった。
過去のしがらみも家族のことも忘れ、死力を尽くしたティアナの奥底に残ったのは、初めて出来た仲間と呼べる者たちとの日々。
くだらないことで一緒に笑いあい、同じテーブルで同じ料理を食べ、同じ空間で一緒に眠る。
生きていれば家族や友人と経験するであろう当たり前の日常を、ティアナは〈月華の兎〉で過ごすことで、ようやく手にすることが出来たのだ。
当たり前であり、願うことはおろか、必死に手にしようなどとは考えもしないであろう日常。
それが自分にとって何物にも代えがたい宝であることに、ティアナはようやく気が付いた。
「⋯⋯そっか、私はもう、自分が自分であるための理由を、持ってたんだ」
ティアナはひとり微笑むと、剣を鞘に戻して前を向いた。
皆に早く会いたい。
また一緒に笑いたい。
熱い想いがティアナの身体を巡ると同時に、宇宙を映し出した偽りの世界に亀裂が走った。
輝く星々は消滅し、闇を斬り裂く大きな亀裂からは細かなヒビが一気に広がり、白い光が溢れだす。
刹那、世界がパリン、と音を立ててガラスのように砕け散ると〝ロスト〟の大自然が姿を現した。
〝ロスト〟内の異様な草花や、強い生命力を具現化したかのように太く高く伸びる木々は淡い光を放ち、ティアナの立つ大地は激しく揺れていた。
恐らくは核を破壊したことで迷宮が攻略され、〝ロスト〟が消滅しかけているのだろう。
鈍く回る脳からそう結論付けたティアナは安堵したが、ほっとしたのも束の間で、足元に広がる景色に唾を呑んだ。
ティアナの目前には空間を削り取ったかのように底なしの闇が広がっていた。
一直線に太く黒い線が走っているように地面が分断され、ティアナが立つ場所は断崖絶壁の崖の上となっているのだ。
「なに、これ」
何故今まで気が付かなかったのか。
ティアナの右足はつま先まで地面から離れ、足を滑らせればそのまま闇の奥底へと落ちてしまうだろう。
異空間に入るまでには決して存在しなかった巨大で深い溝の正体を考える余裕も無く、ティアナは咄嗟に下がろうとした。
だが、ティアナの思考と動きを止めるように、突如として激しい頭痛が起きた。
頭を、脳を貫くような鋭い痛み。
さらにはドロリ、と鼻からは血が流れ落ちる。
「う、えっ⋯⋯?」
意味も分からず硬直したティアナであったが、彼女を襲う痛みや違和感は次の瞬間には全て消えた。
いや、痛みだけでは無い。
感覚も力も抜け落ちたように何も感じなくなったのだ。
立つ足は勝手に崩れ落ち、抵抗しようにも全身がまるで石になってしまったかのように言うことを聞かない。
(まさか、あのメモリーの代償⋯⋯で)
気が付いた時には何もかもが遅く、ティアナの身体は崖から身を投げ捨てるような形で前に倒れていった。
◇◇◇◇◇◇
「ハァ、ハァ⋯⋯。一応拘束したが、流石に動けないよな」
リオティスが見下ろす先には、黒い鎖に身をグルグルに巻かれたイースの姿があった。
分解の杭による攻撃と、創造の分身二体による斬撃。
普通の人間であれば間違いなく致命傷であるにも関わらず、リオティスが未だ警戒していたのはイースが普通ではないからであった。
「⋯⋯やっぱまだ息あるな。記憶者は純粋な力だけじゃなく、生命力も尋常じゃない。やっぱ拘束は必須か」
気を失ってはいるものの、イースの命に別状は無い。
情報を得るため生け捕りにすべく、リオティスが多少の治療を施したということもあるが、記憶者とはそれだけ異質な存在なのだ。
「最後の分解で一応片手を吹っ飛ばして移動用の記憶装置も使えなくしておいたし、暫くは問題ないな。後は⋯⋯」
と、リオティスが迷宮攻略の時間を危惧した時、激しい揺れと共に〝ロスト〟内の大自然が不自然に光り出した。
草木は光の粒子となって徐々に消えていき、空間そのものも歪み始めたのだ。
「時間切れ⋯⋯じゃないよな。ハハッ、やったなティアナ」
リオティスは状況を理解すると、少し先で広がっていた白い壁へと振り向く。
白い壁には幾つもの黒い亀裂が走っており、次の瞬間には砕け散った。
壁の先には周りと同じように自然が広がっていたが、そこにはひとりの女性が立っていた。
黒く美しい髪を靡かせ、白い長剣を身に着けたその女性の後ろ姿を見て、リオティスは手を振るう。
「ティアナ⋯⋯」
リオティスが彼女の名前を呼ぼうとした時、ある違和感に気が付いた。
ティアナの前方に広がる地面を分断する巨大な溝。立ち姿からもわかるティアナのダメージ。覚束ない足元。
それを見たリオティスの脳裏に浮かんだのは、リラとリコルの最期だった。
「ティアナァッ!!」
気が付くとリオティスの体は動いていた。
手を伸ばし、全速力で走っていた。
すると、ティアナの身体が揺れたかと思うと、彼女は闇へと身を投げ出したのだ。
倒れていくティアナに、懸命にリオティスは腕を伸ばす。
だが、その距離は十メートル近く離れており、到底届くはずも間に合うはずも無かった。
(ピースはもう無い!! 分身二体と拘束の鎖を創ったせいで、もう完全に底をついた!! ダメだ。もっと、もっと速くッ⋯⋯!!)
息を切らし、脇腹から血を流し、ボロボロな手を伸ばす。
記憶者の身体能力をもってしても、もはやリオティスの体は限界に近く、想いとは裏腹にティアナの後ろ姿は遠のいていく。
(頼む、頼む!! 間に合ってくれよッ!!)
仮に万全であっても、メモリーを持っていたとしても、余りにも距離が離れすぎている。
それがわかっていながらも、リオティスは必死に手を伸ばした。
(もう、嫌なんだよ! 目の前で誰かが死ぬのは!! 手を伸ばしても届かないのは!! 手を放してしまうのは!!)
思い出すのはリラの謝る姿。リコルの血に濡れて笑う姿。
(嫌、なんだ。ここでティアナを死なせたら、迷宮が攻略出来ても意味がないんだよ! 俺はもう誰も死なせたくない。守りたいんだ! 救いたいんだ!! 頼む。間に合わせてくれ! 俺は、俺は⋯⋯あいつらの信じたヒーローになるんだァァッ!!!)
刹那、リオティスの背中を誰かが押した。
誰も居るわけがない。
誰も助けてくれるわけがない。
それでも、確かにリオティスの背中には柔らかくも温かい、そんな小さな二つの手が触れていた。
極限の集中力の中。
まるで時が止まったかのように訪れた静寂で、リオティスの耳には二人の少女の声が響く。
『『頑張れ、ヒーロー!!』』
懐かしい温もりがリオティスの内に広がった時、彼の身体から無数の光が咲き乱れた。
赤紫色の花弁。
リオティスから放出された幻想的な光は彼の首元に集約すると、より一層輝きを増した。
高密度のエネルギーの爆弾が爆発したかのように首元の花弁から注入された力は、リオティスに人間離れした〝速さ〟を与えた。
風を、音を、光を超えたかと思わせるほどの速度。
リオティスは一気に加速すると、喉を枯らしながらも全身全霊で叫んだ。
「届けェェッ!!!」
闇に堕ちたティアナへと、リオティスは左手を伸ばした。




