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そうして一週間ほどは自宅でゆっくりと過ごしたが、いい加減学校にも行かねばならない日がやってきた。期末試験があるのだ。エマは重い腰を上げた。
両親はしばらく学校など行かなくても良いと言ったが、エマは休む気になれなかった。ここで休んでしまえば、もう二度と学校に行かなくなるような気がしたのだ。
ニックの家との話し合いは、ややあちら側の有責ということで決着していた。婚約は破棄ではなく白紙撤回で、慰謝料も支払われる。しかしニックの不貞行為やモラハラをシャルマン家は証拠がないと否定、パーティーでの奇行のみしか罪と認めなかった。
これにエマの父親は激怒。事後処理が済み次第シャルマン家とは縁を切り、共同事業はラヴィッジ家のものとしてやる!今に見ていろ!と息巻いている。シャルマン家は先日のパーティーのニックの言動がもとで、運営が危ういのではと噂が立って他の貴族からも手を引かれているらしい。そのまま没落してくれることをエマは神に祈っている。
そうして気乗りしないものの、試験のためと思い登校したエマを待っていたのは人々の噂話の渦だった。
___ねえあれ、ラヴィッジ家のご令嬢よ。
___ああ!シャルマン家の…例の婚約破棄された。
___どうなったのかしら。
教室に入れば、更にざわめきが広がった。
あの日のエマを間近で見ていた者も多かった。
___あれ、ニック様が家を継ぐってことだろう。
___入り婿に逃げられるとか、初めて聞いた。陰気だってフられたらしい。
___すごい、学校来てるの。
___私なら恥ずかしくて…とてもじゃないけれど…
(私だって、来たくなかったわよ)
いつもと同じ時間に登校したが、時間ぎりぎりにするべきだったと後悔してうつむく彼女の耳に、涼やかな声が響いた。
「エマ!おはよう、試験対策はバッチリかしら?」
パッと顔を上げれば、友人のマルギットが立っていた。彼女は侯爵家令嬢で、現王子の婚約者に内定している才女。黒茶色の髪が地味だと揶揄されることもあるが、濃い紫の瞳と相まって落ち着いた雰囲気を醸し、知的で素晴らしい女性だ。
間違いなく学園での最上位のカーストに属する彼女の声に、教室での噂話はパタリとなくなった。彼女と私が友人関係にあることは、クラスメイトは承知している。マルギットに睨まれれば親に怒られ、なんなら家業が傾く。
「マルギット…いえ、ちょっぴり、不安よ」
いつも通りに接してくれる友人の在り難さに涙が出そうになる。そして試験が不安なのも本当だ。この一週間、何も手に付かなかった。
「それなら、私のノートを見せてあげるわ!試験対策にまとめたの」
「えっ、でもマルギットが」
「私はもう書いて覚えたからいいのよ。分からないところがあったらいつでも声をかけてちょうだいね」
ノートを押し付けられてエマは戸惑うが、マルギットが試験対策の勉強などをしているところを見たことがないと思い、素直に受け取った。
(きっとこれ、私のためにまとめてくれたんじゃないかしら)
ぱらりとめくれば、試験に出そうなポイントをまとめてあり、最後のページには“エマがんばれ!”とメッセージまで添えられていた。すでに自分の席に着席している彼女の背中を見て、目の裏が熱くなる。
(がんばろう、周りの声なんて気にしない)
在り難い友達の存在を噛み締めて、今日学校に来てよかったな、と初めて思った。
学園の食堂に、エマとマルギット、そしてシラーが顔を並べていた。周囲は高位貴族二人と、渦中の人物であるエマに注視しており近寄ってくるものはいない。ぽっかりと周囲から人が遠ざかっている。
三人は以前から仲が良く、こうして一緒に食事をすることもあった。今日はシラーが教室までやってきて、エマとマルギットを誘ってくれた。
「テストはどうだった」とシラーが切り出した。
「私は問題ありませんわ」とマルギットが言った。
「ちょっと、心配かも」エマはあいまいに答えた。
シラーとマルギットは、エマを見つめた。先週のパーティーでの出来事を思えば、当然のことだと考えたからだ。
マルギットがなにか思いついたように、そうだ、と言った。
「殿下に相談してみましょうか。話が早いかも」
シラーにも言われたことだが、人脈を使って相手をねじ伏せたくはなかった。
「ご心配には及びませんわ、もう父親同士で話もついておりますし」
「婚約は撤回?」
「はい。白紙撤回となりました。慰謝料も支払われるそうです」
「「それだけ?」」
シラーとマルギットの声が重なった。自分も同席させてもらったので、納得の上での話だと説明をする。
「それでも、エマの苦しみは……。いいや、婚約が白紙になったのなら、俺だって遠慮しない」
「まぁっ、やっとですのね!むしろ良かったかもしれませんわ!」
「?」
小首をかしげるエマを見て、マルギットが愉快そうに笑った。
「ごめんなさいね、私、シラーを応援するわ。だってそのほうが、ずぅっとエマと仲良しでいられそうなんですもの」
よく事情は呑み込めなかったが、シラーは昔からエマに悪いことはしなかった。マルギットも賛成していることなら、エマだって応援する。
「私もシラーのこと、応援するよ?」
だから何のことか説明してよと続けようとした言葉は、嬉しそうに笑い声を上げたマルギットによりかき消された。シラーも「それなら頑張れそうだ」と笑うばかりで、説明する気はないようだった。
すると、昼時で人の多い食堂の中、ぽっかりと場所があいているからだろうか。男女の二人組が席を探している様子で三人の近くへとやってきた。そうして、エマの顔を認めると、愛想良く話しかけてくる。
「お久しぶりですエマ様!一週間心配してたんですよぉ」
ミューアだった。下位の者から上位貴族へ話しかけるのはマナー違反だが、ここは学園。校則の下に身分はなく平等と記されている。が、親しくなければあまりしない。そして、エマとミューアはこの間の夜会で初めて顔を合わせたレベルの知り合いだ。これは無礼な行為だった。
「この間の夜会では楽しませていただきましたわ」
貴族的な笑みを浮かべて返すエマに、ミューアは仏頂面になる。
「お休みの間に婚約は白紙になったそうですねぇ。入り婿がいなくなって、大変なんじゃないですかぁ」
「お気遣いなく。万事つつがなく終わりましたわ」
「よかったですぅ。あ、ここ座らせてもらいますね。他の席あいてなくって」
エマの二つとなりの席に腰かけたミューアは「こっちよー」と言いながらトレイを持ってくる男に手を振った。相手はもちろんニックだ。
ニックはエマの顔を見て下卑た笑みを浮かべたが、隣にマルギットがいるのを確認して嫌そうな顔をした。さすがの下種男も、次期王子妃に無礼を働いてはいけないことはわかるらしい。
「おいミューア、ここやめようぜ」
「だってぇ、他に空いてないんだもん」
「チッ。こんな陰気な女の顔見てたら飯がマズくなるだろ」
「あはっ!じゃあしょうがないねぇ!外のベンチで食べよっ」
シラーの口の端が上がるのを、エマは見た。
「陰気?誰のことだ?」
振り返って問うたシラーを見て、ニックは目を見開く。エマに気を取られて、シラーがいることに気が付かなかったようだ。
「ねえ、だれー?」
「ちょっとだまってろっ」
ミューアの甘えた声を小声で制したニックは、引きつった愛想笑いを浮かべる。
「レンゲフェルト公爵子息様、お久しぶりです」
「ああ。なぜか卒業パーティーで嘘の呼び出しにあってね。大切なエマのそばにいることができなかったし…君にも会えなかった」
先日の卒業パーティーは在校生のみのもので、親はいなかった。そこでニックの愛の宣言を止めるとしたら、エマの縁戚で身分も高いシラーが考えられた。ニックはシラーが邪魔だったのだ。使用人に金を握らせて教授が呼んでいると伝言をさせ、シラーを会場から引き離していた。
固まった笑顔で「お会いできなくて残念でした」と言うニックの横では、「すごーい公爵子息様と知り合いなのぉ」とミューアが目を輝かせている。
黙っていろと目くばせをするニックに気が付いたのは正面に座る三人のみで、当の本人はシラーに夢中で気が付きもしない。
「で、誰のことだ?」
低い声でシラーが問いかけて、視線で射殺すようにニックを見た。
「……いえ、べつに」
あわててニックが首を左右に振ると、シラーの方から話題を変えた。
「それで、家業は大丈夫かい」
「……なにが?」
シラーは目だけを細めて嗤ってみせた。
「東の海との貿易だよ。自分の家業だと啖呵を切ったそうじゃないか。アレはラヴィッジ家のものだ。嘘はいけないね、商売の世界で一番嫌われるのは、嘘だよ」
口の端を曲げたので笑ったかのように見えるが、目がひどく冷酷で、それは顔の筋肉を動かしただけだった。
遥か上の身分の公爵令息の言葉に「はい」と返すしかないニックは、一刻も早くこの場から立ち去りたかった。昔からニックはシラーが苦手だった。身分も上、ルックスも上、頭もよくて運動もできる、何も勝てない相手。唯一、エマの婚約者であるという点だけが、ニックをシラーの上に立たせていた。それも、もうない。
___貿易はラヴィッジ家のものだそうだ。
___ではニック様は嘘をおっしゃられていたのね。
___公爵令息様が言うんだ、そうだろう。
ざわめきに反論しようにも、シラーの言葉に異を唱えることになる。公爵が言えば、白い鳥も黒いカラスになるのだ。何を言っても無駄だった。それくらいの身分差がある。
「君、他にも嘘をついているよね」
「……なんのことだか、わかりません」
___やっぱり、エマ様は嫌がらせなんてしていないのでは?
___内容が幼稚すぎると思っていましたわ
___彼女が望めば、もっと、ねぇ。公爵家と侯爵家が味方ですのよ。
「エマはそちらのレディに嫌がらせなんて、していない。そうでしょう、マルギット様」
「ええ。学園ではよくご一緒しておりますけれど…そちらの方と違って、エマは心優しい淑女ですのよ。ありえませんわ」
当事者であるエマを置き去りに、公爵令息シラーと侯爵令嬢で次期王子妃のマルギットによる、ニックの公開処刑が始まっていた。二人とも、腹に据えかねていたのだ。しかし当のエマは愚痴の一つもこぼしてはくれない。言ってくれれば、いくらでもやるのに。歯がゆい思いをしていた矢先に、仕掛けてきたのはあちらだ。このチャンスを逃してなるものかと、戦闘態勢に入った二人を止められる者はいなかった。
何も考えていない、ミューアを除いては。
「でもっ、ニック様も、すごい方なんです。最近考案した商品もとっても売れてるし、貿易もできて、商才があるすごい方なんですよ」
ミューアは勝ち誇ったような顔をして、エマを見た。
「でも元婚約者のエマ様は…なんだか暗くて、無口。何を考えているかわからないところが苦手って、みんな言ってる。ニックのほうが心優しいと思うわ」
ひゅっと息をのんで怒りを吐きだそうとしたマルギットを、シラーが手を上げて制した。
「ニックの、たとえば、どんなところが優しいんだい?」
シラーはできるだけ幼児にするように、優しい口調を心がけて聞く。ミューアは嬉しそうに胸の前で手を組んで、うっとりと語りだした。
「私をいつも助けてくれるわ。勉強も付きっ切りでみてくれるし、行きたいお店も連れて行ってくれる。しかも、困っていたらなんでも買ってくれるの。ドレスや靴もだし、アクセサリーだってそろえてくれたわ。私がエマ様からの嫌がらせで落ち込んでいたら、毎日お花をプレゼントしてくれたこともあったわ。ね、とっても優しいでしょう?」
確かに、ニックの行動は、ミューアに優しい。
しかしそれは、恋人に対するふるまいのソレだ。
「それは、優しいね。ニック様は君にとって、どんな存在だい?」
「お友達よ!とっても優しい、とびきり特別な友達なの!」
余計なことを言うなと圧をかけるニックの目くばせは、ミューアには伝わらなかったようだ。
にい、とシラーの目が細まった。
___特別な友達ですって。ドレスを頂くの?
___まあそれはまるで愛人ね。お名前も、親しく呼び合ってらっしゃるのね。
___それで愛の宣言を、全てを捨てる覚悟でしたのね。
___違うわよ、捨てられないから、エマ様が悪いことにしたのでしょ。
「あなたの考案した商品って、まさかだけど、サンゴの髪留めのこと?」
「っ……」
言葉に詰まるニックを不思議そうに見上げたミューアは「そうです!ニックが考えたんです!商才もあるの、素敵でしょう」と言ってしまった。
冷や汗をかくニックを見て、マルギットは嗜虐的な笑みを扇子の下で浮かべた。眉だけ、困ったように少し下げて声を出す。
「おかしいわね。あれ、エマが考えたのよ」
「ちがいますよぅ。ニックはたくさんのアクセサリーを考えているんです!今までだって、ハート形のネックレスとか、ヒット作を生み出しているんですよ」
「それもエマが考えたのよ」
「リーフの髪飾りもニックが…」
「それもエマが考えたの」
言葉をかぶせたマルギットは、ミューアを見下した。
「エマは自分でデザインしたアクセサリーをくれるの。私が気に入ったものを身に着けると、社交界で流行するの。だから売れるのよ、おわかり?」
「……でも、アイデアはニックが」
「デザイン画から私の好みぴったりにエマが考えてくれているのに?」
マルギットの凄みのある笑みが、ミューアを圧する。
「どうして、その男が作った商品になっているの?」
___エマ様の手柄を自分のものにしていたってこと?
___いやがらせをねつ造して、貿易を独占するおつもりだったのでは?
___おそろしい!なんて人なの…。
ざわめきはもはや、ささやきにおさまらなかった。
ニックは知らなかったのだ。エマが考案した商品は、自分名義でどんどん売り出していた。エマの声など聞かなかった。エマと結婚するのだからと、ラヴィッジ家にもマルギットにも見逃されていただけのことを、ニックは知らなかったのだ。
「っもういい、行こうミューア。失礼します」
女の腕を掴んで立ち去ろうとするニックを、シラーが「話は終わってないよ」とその場に縫い止める。
「で、最初の質問がまだだ。誰が、陰気だって?」
怒気をにじませたシラーの目は、ニックを射殺さんばかり。ニックは答えることもできずに脂汗を浮かべるも、周囲の視線は自分に集まっている。何か言わなければ。何か。その思いが頂点に達した。
「……ミューアです。ミューアの顔が、陰気くさかったのです」
「なっ、ニック?!」
所詮その程度の男だった。詰められれば、すぐに女も切り捨てる。自分が一番かわいい、自己保身の塊。
「答えたんだ、これで失礼する。…ミューア、そんな顔をするな。後で説明するから」
逃げようとするニックに、ここで初めてエマが口を開いた。
「私たちが失礼しますわ。どうぞ、お二人でもう少し、話し合われては?」
「っふざけないで」
ミューアの声はかすれていた。
ニックが目を血走らせてこちらをにらむのを気にせず、エマは立ち上がる。シラーとマルギットもそれに倣った。
すれ違いざま、シラーは立ちどまった。
「いままでうまくいってたからって、自分の力だと過信しないほうがいい。因果応報、自分のしたことは返ってくるぞ」
その低い声は、大きくもないのに食堂に染み渡った。
冷徹公爵と呼ばれるシラーの絶対零度の視線に、ニックはとんでもないことをしたのかもしれないと気が付いた。




