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婚約破棄されても世界は終わらなかった。
「すごい、学校来てる」
「私なら恥ずかしくて…とてもじゃないけれど…」
教室に入れば、ざわめきが広がる。
私だって、できればこんなところに来たくなかった。
でも、戦争が起きたわけでもなければ、親が死んだわけでもない。普通に夜は明けて、朝が来るのだ。
「私にできることがあれば、なんでもしますわ」
友人は言った。
「おまえにはふさわしくない男だった」
父は言った。
「しばらく家でゆっくりしましょう」
母は言った。
そのどれもが思いやりに満ちていた。でも今は少しだけそっとしておいてほしい、その優しさがつらいから。婚約破棄されたばかりのひねくれた心で、伯爵令嬢エマ・ラヴィッジは思った。
♢
エマは伯爵家の一人娘で、物心がついたときには婚約者がいた。最初からいるのだから、当然“その男”が伴侶となり、自分と共にラヴィッジ伯爵家を切り盛りしていくのだと信じて疑わなかった。婚約者と仲良くしていると、父も母も嬉しそうにするから、子ども心に『愛想良く接するべき相手だな』と思ったのを覚えている。
今思えば、エマが生涯一緒にいる相手(入り婿)と良好な関係を築けていることへの安心であって、決して“その男”が素晴らしい相手で、エマが媚びを売らなければならないわけではなかったのだが、幼少期はまだそれがよく分かっていなかった。
それがよくなかったのだろう。
“その男”は調子づいて、大人がいないところで、エマを格下のように扱った。
『なあ、エマ。最近、俺の服が古いと思わないか』
『別に思いませんけれど…』
『嘘つくなよ。この間の茶会で笑われた。お前も、俺を貧乏な伯爵家だと思ってるのか。家格は同じだろ?自分の家が裕福だからって見下すなよ!』
彼の腕は、触れてはいけないというのに淑女である私の肩に手を回し、ぎりりと食い込むほどに二の腕を圧迫した。
『痛っ、思ってませんし、やめてくださいませっ』
『おお、それは悪かった。俺は、おまえにふさわしい恰好がしたいだけなんだ。裕福なラヴィッジ伯爵家のお前にな。わかるだろ?』
エマに“その男”の頼みを断るという考えはなかった。機嫌を損ねれば、こうして暴力的な一面を見せることもあったし、何より父と母を悲しませたくない一心だった。
エマは数日後“その男”へと服を贈った。
幼少期のエマは時折、夜中に目が覚めることがあった。寂しくなって、こっそりと母の寝室を訪ねたこともある。その時、聞いてしまったことがあった。
___エマと婚約者の様子は良好だな。
___よかったわ、うちにはエマしかいませんから。
___このまま何事もなく成長してくれればいいが。
父と母の声だった。私は、この婚約を何事もなく成さねばならないと心に刻んだ。優しく、真綿にくるむように私を愛し育ててくれる両親を、悲しませてはいけないと。
♢
時は流れ、エマは14歳になった。
「エマ・ラヴィッジ!お前との婚約は破棄だ!」
その男の声は、卒業パーティーの会場に響く。
「格下の男爵令嬢と蔑み、ミューアを虐げたな。心根の腐ったお前と一生を共にするなど反吐が出る」
その男の腕に腰を抱かれた女が「わたしっ、こわかったんですけどっ、謝ってくれたらゆるしてあげますっ」と手を顔で覆いながら涙声を出す。大胆に露出した胸が腕に押されてむにゅりと寄ったのを見てゆるんだ表情を、慌てて引き締めてその男は続けた。
「無論、お前に瑕疵があるのだから、慰謝料を請求する。長きにわたる婚約で、この俺__ニック・シャルマンの貴重な時間を無駄にした罪は重い!義父上には世話になったが、今後は商売での付き合いも控えさせてもらう!」
卒業生だけではなく、在学生も参加するため出席者は200人を超える大規模な催しで、そこに立つ参加者はひそひそと囁きあった。
___ニック様はシャルマン家を継いだの?
___いいえ、ご当主様はお父上で、健在よ。しかもご長男様がいらっしゃるわ。ですから、ニック様は婿入りのご予定でしたのに。
___では、ご当主様とご長男様の身に何かあったということかしら?
___商売に口を出す権限があるということは、そういうことよね。
卒業パーティーでの婚約破棄は、珍しいことではない。
その昔、王家の男が平民上がりの女を娶るためにしたことを始まりとして、今では障害のある愛を貫く者たちの宣言の場となっている。
それでもパーティーの参加者たちがざわつき始めたのは、ニックの発言の内容について、ひっかかるところがあるからだ。
___ご当主は急逝されたのか。長男と二人同時にとなると、もしかして誰かに殺された可能性も。
___そういえば、商売のためとはいえ後ろ暗いこともあったようですよ。
___シャルマン家はよほど恨みを買っているらしい。
ありきたりな婚約破棄におさまらず、その男の発言は方々へと飛び火した。
この会場にいるのは学生だけとはいえ、貴族の学校の卒業パーティーだ。領地の経営や商売に関わる者も多く、自分の家の利益を考える子どもたちはざわめいて情報や考えを共有している。
___恐ろしいな。付き合いを考えねばならないと、父上に進言しよう。
ニックとミューアは、きょろきょろと周囲の反応を見る。しばらくして、ささやき声を拾ったのか徐々にその顔色は赤らみ、表情はこわばっていく。
「父上も兄上もご健勝だ!失礼な!」そう叫んだニックは、ぐるりと周囲を見回す。
「無礼な発言をしている人の顔は、しっかり覚えさせてもらう!うちはシャルマン家だぞ。うち抜きで、東の海と商売できると思うなよ!」
波のように広がっていた囁き声はぴたりと止み、叫んだ男の荒い息遣いが会場中の耳へと届く。
このままではまずいと思い、エマは口を開いた。
「婚約の白紙撤回はかまいませんけれど、破棄に該当するようなこと、私側にはございませんわ。そちらの女性とも面識はありませんし…何か、誤解なさってませんか」
「ふざけるな!嫌がらせをしておいて、謝罪もしない気か!…この陰気な女と婚約者だったと思うと虫唾がはしるっ」
その男は、裏でよく黒髪のエマのことを陰気な女と呼んでいた。また、エマの金色の瞳を気味が悪いとも。母譲りの髪色と、父親譲りの瞳をエマは気に入っていたが、反論すればネチネチと嫌味を言われ、エマが謝るまで暴力をチラつかせた脅しをかけてくるので聞き流すようにしていた。
しかし、頭にくるものは、頭にくるのだ。
『今日限りの婚約者であるならば、最後に反論しておこう。』とエマは考えた。
「陰気?私のどこが?」
「その黒髪も、獣のようにギラついた目も、俺の言うことしか聞けないところもだよ!自分で考えて動けない…お前は気味の悪い人形みたいだ。ミューアは違う。いつでも俺のことを考えて、自分で動いて俺を癒してくれる」
抱いたままの女の腰をいやらしくさすりあげ、ミューアに視線を落とすニック。「もう、ニックさまぁっ」という甘ったるい声が響く。
自分で動くって別の意味じゃないの、と会場で聞いた男たちは思った。
二人は顔を寄せ腰をさすり、視線を絡ませてこぶし一つもないほどに顔を寄せていた。エマは一通り、二人の気が済んで視線がこちらを向くのを待つ。会場中の人々も、二人の様子をうかがっていた。
二人の絡まる視線がほどけて、ゆっくりこちらを向いたところで、エマは口を開く。
「私のお母様は黒の公爵家に連なる一族で、この黒髪は誇り高いものです。金の瞳も、恐れ多くも国王陛下と同じ色彩ですわ。それを陰気とおっしゃるのであれば、高貴なる方々を侮辱するのと同じこと」
沈黙の中に、エマの声がゆきわたる。
「なっ、お前に言っているんだ!お前ごときが、高貴な方々と同じ色彩だと?!それこそ侮辱だろう。第一、性格は遺伝ではない。お前そのものが陰気だ。性格ブスのくせに、俺の婚約者として周りに優しくされて誤解したのだろう。調子に乗るなよ」
ニックは顔こそ悪くなかったが、すこぶる性格がよろしくなかった。ついでに、品もなければ忍耐力もない。ただ、人当たりが良い見栄っ張りなために、浅い付き合いの人間からは『気のイイヤツ』と高く評価されるだけ。
「シャルマン家は今、東の海への貿易を一手に担っている。俺の考案した商品が、ものすごく売れているんだ。お前ごときでは、俺に釣り合いはとれない。みっともなく執着しないでくれ、迷惑だ」
「ニック様、すごぉい」
「俺の友人であるミューアに嫌がらせをするなど、貴族としての器量もない」
しなをつくってニックに上目遣いでほほ笑む女は、この男がとんでもないことをしでかしていることを分かっていない。頭はピーマンのように空っぽなのだろうと、エマは思考の外に彼女の存在を追い出した。
「東の海への貿易は、我がラヴィッジ家との共同事業です。お間違えの無いようお願いします」
ぴしゃりとエマが言葉を挟めば「生意気な女め」と低い声でつぶやくニック。
「第一、嫌がらせとは何ですか。証拠は」
「陰口、仲間はずれ、にらみつけ、ミューアを陥れようとするなどだ。証拠はミューアが言っている。貴族として、情報交換での交流を妨げるなどあってはならないこと。立派な犯罪だ!」
開いた口がふさがらない、という状況をエマは人生で初めて体験していた。どれも物証のないものばかり。しかも証言はこの頭カラカラ女のみ。あまりのふざけた告発に、会場に一瞬の沈黙が落ち、さざ波のように囁き声が広がる。
___それが嫌がらせ?ずいぶんと、お優しいこと。
___商才のある入り婿に、虫がついたらお嫌でしょうけれど。
___本妻としての器量がなかったのね。内容が…幼くていらっしゃるわ。
ねつ造された嫌がらせのレベルの低さに、エマの評価すら下降していた。また、この事態を晒し続けることで、さらに評判は滑落するだろうことは目に見えていた。
卒業パーティーでの婚約破棄はたまにあるが、大抵は破棄される側が祝福をして終わることが多いという。そのカタチに落ち着かなければ、穏便に話し合いが進まないためだ。そうなれば裁判までもつれ込むこともあり、両家に負担が大きい。
(無難におさめたかったけれど、無理そうね。これ以上ここにいるほうがリスクが高いわ)
内心でため息をついたエマは覚悟を決める。
「私に恥ずるべきことは何もありません。あとは両家の話し合いで解決いたしましょう。卒業生のみなさま、おめでとうございます。失礼させていただきます」
「逃げるなッ」
「やだぁ、どこ行くんですかぁ」
後ろから声がするも、エマは振り向くことなく会場を抜ける。
モーゼのように人波が割れて出口まではすんなりとたどり着き、ドアマンもいたわるような目礼にて外の世界へと逃がしてくれた。
(すぐにお父様に報告しよう)
足早に進むエマがエントランスに出ると、柔らかい微笑みをたたえた黒髪の貴公子がこちらへ向かって歩いてくる。彼の名前はシラー・レンゲフェルト。母親の縁戚で、公爵家の嫡男だ。
「あ、エマじゃないか。そんなに急いでどうした」
しかし、笑みを浮かべて話しかけてきてくれた彼の顔つきはすぐに変わった。エマの目を覗き込んで、心配そうに声をあげる。
「エマ!なにがあったんだい」
彼にそっと手をとられ、エマはこみ上げてくる涙を喉で止める。しかし彼が泣きそうな顔をするものだから、いよいよせり上がるものがあって、エマの目から涙が零れ落ちた。
別に婚約破棄なんてどうでもよかった。むしろせいせいする。しかし、なぜ涙が出るのか、その理由が自分でもよくわからないまま、馬車にエスコートされ、揺られ、屋敷に帰り着くまで、エマは泣き続けた。
「エマ…君が泣いていると、つらいんだ。お願いだ、話を聞かせておくれ」
公爵家の彼に言えば、事が簡単に済むかもしれないと考えがよぎる。幼少期から身分差はあれど何度も遊び親しくして来た相手だ。冷徹公爵と揶揄されるシラーだが、昔からエマには優しく甘かった。悪いようにはされまい。
しかしエマは、シラーを頼りたくなかった。対等で居たかった。
エマは何も言えなかった。
シラーはエマの手をにぎり、そっと背をさすりながら、ずっと彼女を見つめていた。
その夜のうちに、激怒した父によってシャルマン家の当主が呼び出された。ニックの父親は健在で、今日の出来事は寝耳に水だという。
「いやしかし、ニックからは何も聞いておらず…」
「それで済むわけがなかろう。婚約は白紙撤回、もしくはこちらからの破棄だ」
父親同士のやりとりに同席しながら、当事者だと言うのに遠い世界のことのようで、ぼんやりとエマは話を聞いていた。
慰謝料や今後の取引についてなど、父親は全ての話にエマを同席させた。この家を継ぐのはエマで、彼女には今後のラヴィッジ家に関わる取引について知る必要があったからだ。
夜も更け、シャルマン家の当主はニックに話を聞くために家へと帰っていった。いまだにエマの父親は怒り心頭で、娘の名誉の回復のために、一つもこちらが折れることはない!といった強い姿勢をみせた。
「もういいの、お父様。しかたないわ。ご迷惑をおかけしてごめんなさい。次はもっとうまくできるわ。ごめんなさい、ごめんなさい…」
長年婚約者に蔑ろにされたエマの自尊心はズタズタだった。幸せな結婚生活など、自分が望まなければいい。そうすれば相手はいくらでもいるだろう。陰気でつまらない自分は、人形のように仕事をこなし、義務として血をつなぐことしかできない。父親の、家の一番利益になる人間をまた選んでくれと懇願した。
「エマにそう思わせてしまう、自分が父親として情けない。おまえは素晴らしいレディだよ」
父は力いっぱいエマを抱きしめる。
太い父親の腕に包まれて、エマは再び涙を流した。
体中の水分を出し切るくらい泣いて泣いて、エマは泣き疲れて眠りに落ちた。
それを見守っていた父も、母も、屋敷の誰もが怒りに燃えていた。