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顔を見る前に、抱きしめられてしまった。何が起こったのか分からないままでいると、ルーゼイン侯爵家からの使いで迎えに来た従者が驚きながら声を発する。
「ど、どうなされたのですか!?」
どうやら、普段からこの様なことをするような人物ではないようだ。
5日間の間に、物語の内容と、転生したと結論づける前までの生きてきた記憶を整理した。要は普段の生活には何も支障は無く、まるで1度なぞった時間を過ごしているような不可解を、転生したと思うことで解消したのだった。
お爺様が彼と結婚するようにと仰った時に、まだ知りもしない結婚相手の名前だけが、頭に浮かんだ。
スヴェン・フォン・ルーゼイン
(この人と結婚することを、なぜだか当然のように知っていて、そうしたら思い出したかのように物語が頭の中に流れ込んできたのよね…)
彼は身体を放して、自分が羽織っていたマントを私に着せた。ようやく顔を見ることが出来る。
銀色の髪に、アクアマリンの澄んだ目の色、やはり彼を見知っていた記憶は無い。
(雪の妖精みたいな人…)
彼は少し息を吸って、静かに私の目を見て自己紹介をする。
「ーー初めまして。私がスヴェン・フォン・ルーゼイン、貴女の夫になる者です」
私もハッとして彼から1歩引き、ドレスの裾を摘みお辞儀しながら形式通り自分の自己紹介をしようとしたが、忘れてはいけなかった、まだここは寒空の中で、先程までそこそこ長い道中を歩き、身体が冷えきっていたという事を。
「侯爵様、はじめま…………ふぁぁっっくしょんっっ!」
盛大にくしゃみをしてしまった。侯爵様の肩が小刻みに震えてどう見ても笑いを堪えているのを横目に、私は鼻水が垂れないようにすることに必死になっていたのであった。
「何故吹雪の中を歩かせる事になった?転移の魔法は使ったんだろう」
「それが…ラシェル様…お嬢様のお身体の事を考えますと、あまりの長距離の転移魔法は吹雪の中を歩かせてしまうよりも身体に触ると判断致しました」
私の専属の2人の侍女の1人シエラが、侯爵様と会話している声がぼんやりと聞こえる。もう1人の侍女リズが、ベッドに横たわっている私の額に冷たい布を当てていた。
「お嬢様、具合はいかがですか?」
道中の疲労と寒さで簡単に熱を出して風邪を引いた身体は、呪いのせいなのか生まれ持ってのことなのか、脆いものでくしゃみをした後に倒れてしまったらしく、気がつけば暖かいベッドに寝かされている。
「…喉乾いた…」
「はい、何か飲み物をお持ちしますね」
その場を離れたリズと入れ替わるように誰かが近くに来た気配がした。報告を終えたシエラが来てくれたのか、はたまたこの屋敷の使用人だろうか。熱で直ぐに暖かくなる、額に当てていた布を取り替えてくれているようだ。
リズが戻ってくる前に再び私は眠りに落ちていた。
目が覚めると身体が大分楽になっていた。随分寝ていたようだ。身体を起こして軽く毛伸びをし、ふと横を見るとベッドのすぐ側に椅子が置かれ、そこには侯爵様が手に書類を持ちながら仕事をしている。
(……!?な、なんでここに)
侯爵様が書類から顔を上げ、ばちりと目が合ってしまう。
「具合はどう?」
「あ…大分良く…なりました」
そう、と手をこちらに伸ばして、大きい骨ばった手を私の額に当てる。少しひんやりしてて気持ちがいい。
「まだ少し暑いね、食事は取れそうですか?」
「少しなら…食べられると思います」
「分かりました、用意しましょう」
チリンと呼び鈴を鳴らすと、少ししてからシーラとリズがやってくる。後のことは頼んだと2人に伝えてスヴェン様は部屋を出た。
(まさか一晩中見ていてくれた…とか?)
どうして?
物語は物語で、実際の彼とは違うということなのだろう。なのに、どうしてこんなに違和感を感じるのだろか。
後に来た朝食は、公爵家で過ごしていた頃よりも豪華であまり食べられないというのに様々な料理が出てくるのだった。
それから3日が経ち、身体も完全に回復した頃、またもや驚いてしまう事実を知ることになる。
あれから幾度か侯爵様が忙しそうな合間を縫って私の様子を見に来ていた時のことだ。
「寒い時期は比較的魔物が大人しいって聞いていたのですけれど…その、そんなに大変なんですか?」
「ラシェル様はお気になさらないで大丈夫ですよ」
(あ、またこの目だ)
侯爵様は時折、本当に優しい瞳で私のことを見てくる。けれど聞いたことに答えてはくれなくて、彼の言動が優しいのか突き放しているのか良くわかないでいた。
「では、行ってきます」
「はい…行ってらっしゃいませ…」
数日の間に当然のことのようになりつつあるやり取りを終えて侯爵様をベッドの上から見送り、着替えようと侍女を呼ぼうとしたとき、ドアをノックする音と共に侯爵家の執事アレックが部屋に入ってきた。
まだ返事もしてないのに入ってきたということは
(軽んじられているのか、突然結婚なんてすることになって警戒されてる?)
物語では侯爵家に仕えている者たちからもあまり歓迎はされていなかった、その記憶のせいでつい邪推して悪い方へ考えてしまう。
「ラシェル様、今後のお使い頂くお部屋のご用意なのですが、準備出来ましたので結婚式を挙げるまでお使い頂きたく思います。」
「部屋?なんの話ですか?」
「この部屋は、現当主スヴェン様の部屋なのでございます」
「……え!?」
ひとまず話は置いて、身なりを整えてから何事も話はするべきだと、教訓となる出来事だった。