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お爺様が結婚するようにと仰った時に、まだ知りもしない結婚相手の名前だけが、頭に浮かんだ。
スヴェン・フォン・ルーゼイン。
その人と結婚することを、なぜだか当然のように知っていて、そうしたら、思い出したかのように、物語が頭の中に流れ込んできた。
一度なぞった時間を、再び過ごしているような感覚。
私は、それを「物語の世界に転生した」と思うことで、とりあえず納得することにしたのだ。
◇
顔を見る前に、抱きしめられてしまった。
何が起こったのか分からないまま固まっていると、ルーゼイン侯爵家の従者が、驚愕の声を上げた。
「こ、侯爵様!どうなされたのですか!?」
どうやら、普段からこの様なことをするような人物ではないらしい。
彼はようやく身体を離すと、羽織っていた重厚なマントを私の肩にかけた。が、それがとんでもなく重たい。身動きが取れなくなった。
そういう嫌がらせじゃないよね?
とりあえず、彼の顔をみる。
澄んだ青に、少しだけ緑かがった綺麗な瞳。銀色の髪が、雪景色と相まって、まるで雪の妖精かと思った。
一度見たら、あまり忘れないような容姿。でも、やっぱり見覚えはない。
不可思議な行動だったけれど、物語と違うだけだろう。
彼は少し息を吸った。私を見つめる瞳が、緊張したように揺れた。
「――初めまして。スヴェン・フォン・ルーゼインです」
私もハッとして彼から一歩引き、ドレスの裾を摘みお辞儀しながら、形式通り自己紹介をしようとした。
かけられた羽織の重さで、よろけてしまう。それを、候爵様はすぐに抱きとめてくれた。
「あ、ありがとうございます」
ここは、まだ寒空の中で、先程まで雪の中を歩き、私の身体は冷えきっていた。
「……くしゅんっ」
(あ、しまっ……)
その瞬間、足が宙に浮く感覚がした。返事をする間もなく、いつの間にか候爵様に抱き抱えられていた。
「えっ?え?」
何が起こったのか分からず、私はただ侯爵様の顔を見あげていた。彼は、心配した表情をしていた。いや、心配というよりも……。
「今すぐ部屋に運びます」
(運ばれる!?)
心配というよりも、酷く怯えたように見えたのは、どうしてだろう。
ただ、彼の苦悶の表情の正体が、マントの重量と、自分の体重では無いことを願うしかない。
◇
「何故、雪の中を歩かせる事になった?転移の魔法は使わなかったのか」
「お、お嬢様のお身体を考えまして、転移魔法は、雪の中を歩かせてしまうよりも、身体に負担がかかると、判断致しました」
私の専属の侍女の一人であるシエラが、侯爵様と会話している声がぼんやりと聞こえる。
もう一人の侍女、リズは、ベッドに横たわっている私の額に、冷たい布を当てていた。
「お嬢様、具合はいかがですか?」
そこまで遠い距離という訳ではなかった。だというのに、道中の疲労と寒さで、あっさり熱を出してしまった。
呪いのせいなのか、生まれつきなのか、私の体はどうにも脆くて、気がつけば暖かいベッドに寝かされていた。
「……喉乾いた……」
「はい、すぐに飲み物をお持ちしますね」
その場を離れたリズと入れ替わるように、誰かが近くに来た気配がした。報告を終えたシエラが来てくれたのか、はたまたこの屋敷の使用人だろうか。
熱で直ぐに温まってしまう額の布を、誰かが丁寧に新しいものへ取り替えてくれる。
それが誰か分からないまま、再び私は眠りに落ちていた。
目が覚めると、体が大分楽になっていた。
随分寝ていたようで、身体を起こして軽く伸びをし、ふと横を見ると、ベッドのすぐ側に椅子が置かれ、そこには侯爵様が手に書類を持ちながら仕事をしていた。
「!?」
侯爵様が書類から顔を上げ、ばちりと目が合ってしまう。
「体調はどう?」
「え、あ……大分良く……なりました」
書類を置いて、こちらに歩み寄ったかと思えば、彼は大きな骨ばった手を私の額に当てる。少しひんやりとして気持ちがいい。
「まだ少し熱い、食事は取れそうですか?」
「す、少しなら。食べられると思います……」
「分かりました。用意しましょう」
チリンと呼び鈴を鳴らすと、少ししてからシエラとリズがやってくる。
侯爵様は、後のことは頼んだと二人に伝えて、部屋を出た。
(看病してくれていた?)
さすがにそれは無いと、私は頭を振る。
こんな違和感を覚えるのは、きっと、身構えてた様子と違うだけだ。
後に来た朝食は、公爵家で過ごしていた頃よりも豪華で、あまり食べられないと伝えたのに、様々な料理が出てくるのだった。
体も完全に回復した頃のことだった。あれから幾度か、侯爵様が忙しそうな合間を縫って、私の様子を見に来ていた。
「寒い時期は、比較的魔物が大人しいって聞いていたのですけれど、その、そんなに大変なのですか?」
「ラシェル……様。お気になさらないで大丈夫ですよ」
(あ、またこの目だ)
侯爵様は時折、本当に優しい瞳で私のことを見てくる。
けれど聞いたことには、曖昧な返事しかしてくれなくて、彼の言動が優しいのか、突き放しているのか、分からないでいた。
「では行ってきます」
「はい、行ってらっしゃいませ……」
数日の間に、当然のことのようになりつつあるやり取りを終えて、侯爵様をベッドの上から見送り、起きようとしたとき、ドアをノックする音と共に侯爵家の執事長である、アレックが部屋に入ってきた。
まだ返事もしてないのに入ってきたということは、軽んじられているのか、突然結婚なんてすることになって、警戒されているのだろうか。
物語では、侯爵家に仕えている者たちからも、あまり歓迎されていなかった。
その記憶のせいで、つい悪い方へ考えてしまう。
「ラシェル様、今後お使いいただくお部屋のご用意が出来ました。ご案内いたします」
「部屋?なんの話ですか?」
「この部屋は、現当主スヴェン様の部屋なのでございます」
私は、間を置いてから、部屋を見渡した。
部屋を占めているのは、黒檀で作られた装飾の、大きなベッドと、部屋の隅には、使い込まれた書机がある。私物らしいものは特に見当たらない。
「…………え?」
「お話を続けてもよろしいでしょうか?」
ひとまず話は置いて。
「……き、着替えます!今すぐ身なりを整えさせてください」
酷く動揺する時は、とりあえず身のまわりから整えるべし。




