漸近線上のi
「転校生を紹介する」
教師の一言で紹介されたのは儚げで。
触れれば壊れてしまいそうで。
危ういバランスの中でようやく存在できているような。
そんな……美しい少年であった。
――――――
「なぁ、なぁ、知ってるか? 転校生が来るって話」
教室の喧騒はいつもとは違った空気に満ちていた。
それもそのはず。
転校生なんて話題の種を見逃すほど、生徒たちは大人じゃない。
それもまだ義務教育を終えたばかりの者であれば尚更だ。
「えっ、マジで? 可愛い子? ってか、お前が話題にするんだから勿論女なんだろうな!」
いつも馬鹿話に花を咲かせる男子たち。
それを遠巻きに視線を送る呆れ顔の女子たち。
彼らは知らない。
自分たちの言葉が甘酸っぱい青春から遠ざけていることを。
見てくれは悪くない、と思う。
女子の好みはわからないので、なんとも言えないが。
「それがな……わからん!」
男子の一人が断言した。
「わからん!って、男か女かもわからないのかよ! 使えねぇ……」
不満を漏らすのは仕方ない。
転校生が美少女であるという提で話を進めたかったのだから。
ここで筋骨隆々の男子だったら、話題にすら上げないはず。
二人の信頼は不純という言葉で築かれているのだった。
「俺の美少女センサーは確かに反応した! だが、俺の目に映り込んだのは男子の制服を着ていた……何を言ってるのかわからねーと思うが」
「つまり、転校生は……男装女子!?」
その言葉を聞き逃さなかったのは女子たちだ。
先ほどまでの呆れた顔とは裏腹に、期待の籠った顔になっている。
「男装女子…ヅカ系女子…尊い」
「もしかしたら、女装男子の可能性が微レ存」
「その言葉、既に死語じゃない?」
結果からすると、クラスが盛り上がるのは必然だった。
確定された情報でないからこそ、想像の幅が広がる。
各々が都合の良い想像を膨らませる。
浮き足立つクラスの空気に居た堪れなさを感じ、窓の外を眺めた。
「桜も、もう散ったか……」
清掃員のおじさんが掃除をしている。
4月に満開だった桜の残滓が、5月の訪れを告げる。
中途半端な時期に転校生。
のっぴきならない事情があるのか、それとも。
既に枯れてしまった心に、新しい風が吹く。
願わくば、この心の平穏が壊れませんように。
俺の世界がこれ以上壊れませんように。
――――――
ガラッと教室の扉が開かれる。
その音と同時に生徒たちは慌てて席に着く。
それを面倒臭そうな目で見つめる教師。
ジャージ姿で無精ひげでサンダル。
出席簿で肩を叩く、その姿はテンプレのダメ教師の姿だった。
「あ~、その様子じゃ既に知ってるのかもしれねぇが、お前たちにこの言葉を言わなきゃならねぇ」
ごくっと誰かが息を飲む音が聞こえた。
えっ、ここってそんなシリアスな場面なのか。
教室の空気に思わず、たじろぐ。
わからない。
クラスで浮いていると思っていたが、ここまでとは思わなかった。
俺だけこの空気に乗れていなかった。
「転校生を紹介する」
ガラッと扉が開く。
そして、入ってきた者に皆が目を奪われた。
もしかしたら、心すら奪われた者もいるかもしれない。
儚げで。
触れれば壊れてしまいそうで。
危ういバランスの中でようやく存在できているような。
そんな……美しい少年であった。
「雨宮薫です。今日からよろしくお願いします。」
名前だけの自己紹介。
普通だったら、もっとちゃんとした自己紹介をと文句の一つでも言いたくなるだろう。
だが、それが許された。
それが正解だと思ってしまった。
ここにいる誰もが目を奪われ、息を飲んだ。
そう、俺もその一人だった。
あぁ……あの目は。
信じていたものに裏切られた目。
そして、立ち直れていない目だ。
「えぇ~と、質問とかあるやつ~」
教師の言葉に待っていましたとばかりに手を上げる男子。
転校生の話題で盛り上がっていた一人だ。
「えっと、雨宮さんは女? それとも男?」
見た目は美少女なのに、制服は男子のもの。
その質問は誰もが気になっていた。
雨宮は顎に指を当て、考える。
その仕草があまりに似合っていて、謎が更に深まる。
「いえ! 結構です! どっちでもいいです!!」
謎の言葉を残し、男子は席に着いた。
誰もが気になっていたことを聞いたのに、返事は聞かず。
それを咎める者はいない。
彼の言葉は真実だった。
性別さえ些末な事に思えたのだ。
「じゃあ、雨宮の席は加藤の隣な。」
「はい。」
先ほど謎の言葉を残した男子。
どうやら、加藤という名前らしい。
1ヶ月経って、名前を全く覚えていない自分の薄情さに嫌気が差す。
「よろしくね、加藤くん。」
「は、はい! よろしくです、雨宮さん!」
緊張しまくりな男子、加藤。
無類の女好きと言われた彼が新たな性癖に目覚めたのは必然だったのかもしれない。
――――――
ちゅーとストローを啜る音が聞こえる。
紙パックのいちごミルク。
男の癖に随分可愛いものを飲むんだね。
そう言ってくれる人はいない。
なにせ、ここには俺一人しかいないからだ。
「ここは、静かで落ち着く」
学校のはずれにある大きな木。
そして、誰が置いたのかわからないベンチ。
ここには俺しかいない。
俺だけしか知らない場所。
俺だけの世界。
そんなチープな世界が俺は好きだった。
しかし、そんなチープな世界はチープな理由で瓦解する。
「ここ、空いてる?」
突然の来訪者に驚く。
そして、それが転校生だと気付いてなお驚く。
クラスの連中に囲まれ、質問攻めされていたはずだ。
それが、こんな人気のない場所にいる。
そんなこと誰も想像できないだろう。
だからこそ、転校生を追う者はいなかった。
「残念だが、この場所は一人用なんだ。」
「僕も一人になりたいんだ。ダメかな?」
「それじゃあ、二人になっちまうだろう。本末転倒だ。」
「ごめん、言葉の綾だった。静かな場所を探しているんだ。」
学校の教室も、屋上も、中庭も、食堂も。
一人になれる場所は案外少ない。
その果てに見つけたのが、この場所だった。
それをたった一日で見つけた転校生の審美眼に驚嘆する。
活眼か? 美を見極めてどうする。
「ここは俺が先に見つけた場所だが、俺のものじゃない。こんな小さな場所でも土地として見れば高額だ。それを一介の学生に負担できるものではない。」
「えっと、とどのつまり?」
「好きにしろってことだ。ただし、静かにしていてくれ。ここがなくなったら、他に居場所がない。」
「そうだね、ここは静かな方が良い。」
そう言って転校生、雨宮だったか。
はベンチに腰掛け、弁当箱を開いた。
色とりどりの弁当につい目がいく。
「あの、食べます?」
「いや、そういうつもりで見ていたんじゃない……手作りか?」
「えぇ、その方が安く済みますし」
「それにしても、量が少ないな。男子だったら足りないだろ?」
「小食なんだ、僕。」
「そうか……。」
俺は残っていたいちごミルクを一気に啜った。
もう、この場所に用はない。
「ふふっ」
雨宮が笑う。
そんな反応をされてしまうと、気持ち悪くて、このまま立ち去れない。
「どうした?」
「いや、見た目の割に随分可愛いものを飲むんだね。」
あぁ、そんなことか。
何度言われてきたか覚えていない。
だが、それも久しぶりに言われたから柄にもなく。
「死んだ彼女が好きだったんだ。」
「えっ……。」
本当のことを言ってしまった。
「ふっ、冗談だ。」
「えっ、えっ……」
「じゃあな。」
「んぅ……いじめっ子だ。」
去り際に見た雨宮の頬を膨らませる顔を見て、してやったりと思った。
自分でもどうしてこんなことを言ってしまったのか、よくわからない。
ただ、俺と。
同じ目をする雨宮を見て。
少し……イラついただけだ。
――――――
「ねぇ、加藤くん? 窓際の一番後ろの席でいつも黄昏てる男子のこと知ってる?」
「えっ、あのやたらたっぱのある男ですか? えっと、名前なんて言ったかなぁ……女子の名前だったら全て記憶してるんだけど。」
僕は昨日会った男子が気になっていた。
去り際に言った言葉。
あれが、どうしても冗談には聞こえなかったからだ。
――――――
「死んだ彼女が好きだったんだ。」
――――――
質の悪い冗談だったら、どんなにいいだろう。
でも、あの目が。
あの顔が。
冗談にはしてくれない。
「須藤ちゃんは知ってる?」
「クラスメイトくらい知ってろよ。名前は坂巻大地。身長185センチ、垂直跳びで100センチを出した超人だよ。バスケ部とバレー部がうちのクラスに詰め掛けて来たの知ってるだろ。」
「あぁ~あったねぇ、そんなこと。」
「俺たち、非モテ同盟の抹殺リストに登記されたのを忘れたのか。」
「あれ、でも、結局女子に興味なさげだったから、リストから除名されたんじゃ。」
「思い出したか。まぁ、それでも影があるってんで一部女子からは人気なんだよ。」
二人の会話から彼の事、坂巻くんのことがある程度わかった。
恵まれた境遇に思える。
でも、それは他者から見た感想でしかない。
坂巻くんは恐らく過去に何かあった。
それで、あんな目を。
顔をするようになったんだと思う。
興味が尽きない。
僕が誰かに興味を持つなんて、もうないと思ったのに。
「雨宮さん、あんなカスコンビと一緒にいたら馬鹿になっちゃうわよ。」
「えっ、カス? それはちょっと酷いんじゃ……。」
一人の女子が話し掛けてきた。
それに伴って、女子たちに囲まれる。
「加藤と須藤。頭を取ってカスコンビ。女子とかにランクとか付けたり、隠し撮りした写真売ったりしてる変態よ。」
「雨宮さんも狙われてるわよ! 可愛いんだから気を付けないと。」
「はははっ……。」
僕は一応男なんだけどな。
そりゃあ、見た目だとわかりづらいだろうけど。
というか、男子の制服着ているのに、この言い草。
乾いた笑いしか出ないよ。
「坂巻くん、ね。」
窓の外を見るか、机に突っ伏しているか。
誰にも話し掛けられないようにしているけど。
その姿が痛々しくて、とても見ていられなかった。
でも、あの場所なら。
彼はきっと話してくれる。
僕はお昼休みが来るのを待った。
――――――
「ねぇ、坂巻くんは部活とか興味ないの?」
あからさまに嫌そうな顔をしてしまった。
ポーカーフェイスを自負する俺としては明らかな失態だ。
そんなことよりも、なぜ雨宮が俺の名前を知っているのだろうか。
個人情報の管理の甘さに頭を悩ませる。
教卓の上にある席次表にばっちり書かれているから、大した情報じゃないのか。
俺は悩むことをやめた。
「部活って人がいっぱいいるじゃん?」
「うん。」
「俺ってコミュ障じゃん?」
「うん?」
「そういうことじゃん。」
「えっ、坂巻くんが避けてるだけだよね? できないんじゃなくて、やらないだけでしょ?」
この可愛い顔をした悪魔になんと言えばいいのか。
というか、昨日今日でなんで俺を知った気になっているのか。
俺は再び悩みだした。
「部活って時間の無駄に思えるんだよ。プロにならなきゃ意味なんてないように思えてさ。」
「そういうものかな。」
「部活の経験がどこかで役に立つとかプロになれなかった奴の言い訳さ。」
「考え方が大人、だね。」
「いや、違う。言い訳を探してんだ。そうしなきゃ全てなかったことになっちまいそうだから。」
俺はなんでこんなことを雨宮に話してるんだろう。
同性だから。
同類だから、か。
元々そういう距離を詰めるのが上手いんだろうと納得させた。
「でも、諦めきれないんだね。」
「はっ? お前何を言って……。」
「だって、かなり鍛えてるでしょ? それこそ、いつでもやり直せるように。気が変わる日が来るのを信じて。」
雨宮が俺の腹筋をつつく。
その触り方から妙に慣れているのがわかる。
見てくれだけは可愛いから、つい反応を……いや、ないな。
俺はノンケだ。
だが、やられっぱなしは好きじゃない。
俺は雨宮の顎を引き寄せ、耳元で囁く。
「知った風な口を聞くな。」
「い、いやっ!」
雨宮が俺を突き放す。
明確な拒絶。
俺もだが、雨宮自身も驚いていた。
「ご、ごめん!」
そう言って、雨宮は走って行った。
謝りたいのは俺の方だ。
でも、これでいい。
傷というものは時間が経てば、治っていく。
時間が解決してくれるのだ。
「ったく、なんなんだよ。」
ベンチで横になって空を眺める。
木漏れ日が眩しい。
一体、いつまで。
俺はこの傷と一緒にいなきゃいけないんだろうか。
誰も答えてくれる人はいなかった。
――――――
「うぅ……」
僕は机に突っ伏していた。
坂巻くんの心に土足で踏み込んだのに。
自分にはそれを許さなかった。
最低だった。
「大丈夫か、雨宮さん! 生理か?!」
「加藤くん、僕は男だし、その反応は最低だよ。でもありがとう、元気が出た。」
時として能天気な発言が羨ましいことがある。
こんな風に生きられれば、悩むことなんてないんだろうなって。
別に馬鹿にしているつもりはない。
「馬鹿野郎! 雨宮さんが男かどうかは裸になるまではわからないだろうが! シュレディンガーの性器だよ」
「須藤……ってことは、確率は二分の一! それだけあれば、勝てる!」
前言撤回。
この二人は馬鹿だった。
「はぁ……。」
溜息が出る。
昼休み、どうしようか。
さすがにこのまま疎遠になるのは絶対に嫌だ。
謝らなきゃ。
でも、なんて言う。
僕の身の内話なんて聞きたくないだろうし。
でも、それを言わなきゃ説明も出来ないし。
「うぅ……。」
時間を止められたら、お昼休みなんて来なかったら。
あり得ない妄想を頭に浮かべながら、時間は過ぎていった。
――――――
俺はいつもの場所にいた。
昼休みの喧騒から逃れるように。
まるで時間から取り残されているような感じがして。
今の俺には丁度いいと思って笑った。
ちょっとしたイレギュラーで一人じゃない日々が続いていたが。
それも、元通り。
俺は一人になった。
「もう、来ないだろうな。」
何がいけなかったのか、悪かったのか。
その答えは出ていないが、これでいい。
結局、人は一人。
最後は一人ぼっちで死んでいくのだから。
ちゅーとストローを啜る。
「甘い。」
こんなに甘いのを飲み続けていたらきっと糖尿病になる。
一生お付き合いするなら、可愛い嫁さんが良い。
そんな馬鹿なことを考えながら時間が過ぎるのを待っていた。
「そんなに言うなら飲まなきゃいいのに……。」
「生憎、俺は酸いも甘いも知りたい年頃なんだ。」
視線を向けずともわかる。
ここに来る物好きなんて一人しかいない。
「あのさ、その……。」
言い淀む。
それが無性におかしかった。
「この前は悪かった。」
だから、先手を打ってやった。
「うぇ、えっ……それ、僕のセリフ。」
「男に詰め寄られれば、誰だって押し退けるもんだ。それが日の浅い人間なら尚更だ。」
「べ、別に嫌だったわけじゃないんだよ! ちょっと、驚いただけで。」
思いの外、嫌われてはいないらしい。
むしろ、好かれているのか。
女の考えていることはわからん。
あれ、こいつは男……だよな。
思考の輪廻に囚われそうだ。
「僕の方こそ、ごめんなさい。君の事情にずけずけ踏み込んで。でも、悪気はなかったんだ。ただ、君のことを知りたくて。」
「初心なネンネじゃあるまいし。事情なんて人それぞれだ。別に気にしてないさ。」
「君は、優しいね。」
急な好感度上昇に戸惑う。
言われ慣れてない言葉だ。
リアクションの取り方がわからない。
「俺が優しいなら、この世界は優しさに満ち満ちてるぞ。」
「君はわかってるんだ。人を傷付ける言葉がどんなものか。踏み込んではいけないラインを。」
「過剰な評価だな。それじゃあ、俺は人気者みたいだ。」
「なれるよ。君がそれを望むなら。」
この問答に答えなんてない。
一方的な解釈に過ぎない。
それでも、その気になってしまうのは雨宮自身が確信を得ているからだろう。
「そんなのいらねぇよ。生憎俺は性格が悪くてね。だから、あえて言うぞ。」
こいつの幻想をぶち壊そう。
踏み込んではいけないラインとやらに踏み込んでやろう。
俺に優しい言葉を掛ける奴なんて、必要ない。
俺はそんな価値のない人間なんだ。
「俺を押し退けたのはどうしてだ? 過去に嫌なことでもあったのか?」
蛇が出るか鬼が出るか。
結果は悪いに決まっていた。
――――――
「俺を押し退けたのはどうしてだ? 過去に嫌なことでもあったのか?」
前置きをした上で、坂巻くんは聞いてきた。
やっぱり優しいよ。
知らない素振りで聞けば、良かったのに。
そうすれば、自分が悪い人間だなんて思わずに済んだのに。
でも、これにはしっかりと答えなきゃいけない。
坂巻くんの事情に踏み込むなら、僕の事情にも踏み込ませないと。
目には目をってやつだね。
それとも左の頬をってやつかな。
覚悟を決めて、僕は言葉を紡ぐ。
「僕ね、親友がいたんだ。小さい頃からずっと一緒で兄弟みたいに育った人が。その人は僕のことを好きになってくれたんだ。僕もその人のことは嫌いじゃなかったから、男同士でも問題ないかなって思った。」
僕は淀みなく、答える。
本当は話すのがとても怖い。
転校して早々に秘密がバレてしまうのだから。
「でも、その人にとって、それは問題だったんだ。だから、バレないように釘を刺してきた。僕はそれを受け入れたけど、噂というものは怖いね。どこから漏れるのか全くわからないんだから。」
あれ、今の僕は上手く笑えてるかな。
そうじゃなきゃ、引かれて終わりなのに。
「男子たちに囲まれてさ。その人に言うんだ。付き合ってないなら問題ないよなって。それにその人は答えた。好きにしてくれて構わないって。そして、その場にいた男子たちに……。」
息を飲んだ。
知らずに手が震えていた。
そのときのことがフラッシュバックする。
身体の汚れが落ちなくて、一日中お風呂で身体を洗った。
涙は枯れてしまうほどに流れた。
「犯されたんだ。代わる代わる。それでも、その人がきっと助けてくれるって思ってた。でも、その人が犯される僕を見て言ったんだ。」
――――――
「汚ねぇ。」
――――――
「それからのことは覚えてない。僕は学校に行かなくなって、進学する予定の学校は取り止めて、遠く離れたこの場所に来た。」
震えが止まらない。
坂巻くんは一体どんな顔をしているんだろう。
顔が見られない。
あの時みたいな顔をされたら、きっと立ち直れない。
何か、何か言ってよ……坂巻くん!
そのとき、温かいものが僕を抱き締めていた。
「えっ?」
「悪い。こんなことをさせたかったわけじゃない。」
やっぱり、君は優しいよ。
僕の目は間違いじゃなかった。
「さ、坂巻くん……。」
「今でも怖いか? なら、押し退けてくれて構わない。これは俺の我儘だ。」
いつの間にか、震えが止まっていた。
知らずに涙が溢れていた。
「ぜ、ぜんぜん……怖くないよ。こんな風に優しく抱かれたことなんて……なかったからさ……うぅ。」
「泣け。泣いて嫌なもん全部流しちまえ。俺が側にいてやる。」
その言葉に僕の涙のダムが決壊した。
嗚咽を漏らしながら、坂巻くんの制服に涙を染み込ませた。
たぶん、鼻水とかも……。
あとで、クリーニング代を出さないと。
この日、転校して早々に授業をサボってしまった。
泣き腫らした顔を見せたら、色々やり辛いだろうからって。
僕の世界が、変わっていく。
僕の世界が、優しさに満ちていく。
――――――
「つまり漸近線とは限りなくゼロに近付くが、交わることはないもので……。」
俺は授業を受けている。
脳のシナプスがゼロと交わる。
これが俗にいう原点回帰というやつか。
冗談はここまでにして、こんな授業を聞いて一体何の役に立つというのか。
アスリートに説法が必要か。
俺に必要なものはもっと別にあるのではないか……うん、勉強しよう。
目的も夢もない奴は敷かれたレールをただなんとなく進むのだ。
「来週、小テストをするから、しっかり復習しておくように。」
教師の即死の呪文を最後に授業が終わった。
ふと、雨宮が視界に入った。
あいつは勉強とかできそうだな。
ノートもきっちり取っているみたいだし、あれ、こっちの視線に気付いたか。
「はぅ……///」
なぜ、頬を赤く染めたのか。
ってか、あれって本当に男なのか。
昨日なんとなく抱き締めてしまったが、匂いとかも甘ったるくて。
やめよう。
俺はノーマルだ。
ノーマライゼーションなのだ。
俺のマーラ様はベーションしないのだ。
「なんで、僕のこと見てたの?」
「へっ……あれ、授業は?」
「今はお昼休みだよ。というか、気を利かせて教室では話し掛けてないんだから、もっと気を遣ってよね。」
俺は何故怒られているのか。
そして、頬を膨らませている雨宮は本当に男なのか。
世の中、わからないことばっかりだ。
「お前のことを見てたのは勉強とか出来るのかなぁ、ノートとかしっかり取ってるかなぁって思ったからで。」
「えっ、それだけ?」
「あ、あぁ。」
そして、更に不機嫌になる雨宮。
ちゃんとアフターケアしとくか。
「あと、昨日の今日だから心配だった。無理してないかって。」
「……そういうのが反則なんだよ。」
「えっ、なんだって?」
「なんでもない!」
失敗だったか。
下手に話題に出すべきじゃなかったようだ。
赤裸々に過去を吐露したんだ。
あまり思い出したくないんだろう。
こういうときは話題を逸らすに限る。
「それにしても、いつ見ても弁当美味しそうだよな。」
「褒めても何も出ないよ。」
「毎日作ってるのか? 大変じゃないか?」
「もう慣れちゃったかな。」
雨宮が俺のいちごミルクを……ではなく、隣のパンを見る。
そして、少し思案顔で耽る。
俺は察しがついたので先手を打つ。
「食べるか? 足りないんだろ?」
「ち、ちがうよ! そういうんじゃなくて!」
「違うのか……じゃあ、飲むか? 口は付けたけど。」
「それって間接……ばかっ!」
どうやらますます怒らせてしまったらしい。
これでも空気が読めると自負していたのだが。
久しく人と関わってこなかった弊害か。
孤独って罪だな。
「そうじゃなくて、お弁当。作ってきてあげようか?」
「えっ、マジ? リアリー? 実は親のネグレクトで弁当とか作ってくれないんだわ。」
「それは……ごめん。」
「あぁ、冗談だぞ。あまりに不味くてパンに切り替えたってだけだから。」
「君って本当に……いいよ、作ってきてあげる。」
なんか雨宮もちょっと嬉しそうだな。
手間が増えるっていうのに、変わったやつだ。
「お礼になんでもしてやるからな!」
「な、なんでもっ!?」
「お、おう……俺に出来る範囲な。」
「じゃあ、頭。撫でて。」
「おう、お安い御用さ。」
雨宮の頭を撫でる。
髪がきめ細かい。
キューティクルとか、どうなってんだ。
しばらく、夢中になって頭を撫でていた。
雨宮は嫌がることなく、それを受け入れていた。
――――――
「じゃあ、二人組になって。」
教師の非情な言葉に俺は成す術がない。
今は体育の時間。
準備体操なんて、一人で出来るのに、何故ペアを組ませるのか。
海保とかだとバディを組ませるらしいが、あれは危険が伴うからであって。
準備体操に危険があるとは到底思えない。
だが、俺が知らないだけかもしれない。
教師は既に成人しており、俺はまだ未成年。
きっと深い思慮があるのだろう。
「雨宮さん! 俺と!」
「俺と組みましょう!」
いつも騒がしい男子がいつにも増して騒がしい。
名前はたしか……やべっ、覚えてない。
案外俺も非情なのか。
「ごめん。僕は別の人と組むね。」
「「そ、そんなー!」」
雨宮が歩いてくる。
こっちに向かって歩いてくる。
どうしたんだ。
まさか……お弁当か!?!?
さすがに早弁するにしても体育の授業はまずいだろ!
それにあまりにも目立つ。
気を利かせてくれているんじゃないのか、雨宮!!
「坂巻くん、一緒に組もうか。」
「へっ?」
「ペア。決まってないんでしょ?」
「あぁ、別に構わんが。」
「良かった……ふふふ。」
上機嫌な雨宮。
とりあえず、ぼっちは回避した。
ファインプレーだぞ、雨宮。
「じゃあ、背中押して貰っていい?」
「あぁ、ゆっくり押すからな。」
長座体前屈を補助する。
それにしても、柔らかい。
感触が、じゃないぞ。
柔軟的な意味だ。
真っ直ぐ伸ばした足の膝は全く上がらず、膝に胸が付く。
それにしても、細いな。
ちゃんと食べているのか。
腕も足も心配になってしまう。
「ちょっ…ちょっと! どこ触って……んぅ」
「細いけど、ちゃんと肉は付いてるな。まるで……。」
女みたいだ。
そう思った。
「ふぅ…ふぅ…。」
雨宮の息が荒い。
無理をさせてしまったか。
「次は、僕の番だよね?」
「あ、あぁ……頼む。」
そのあとめちゃくちゃ柔軟した。
途中、「嘘!」とか「なんで!」とか声が聞こえた。
柔軟が出来るのは君だけではないのだよ、雨宮君。
そんな俺たちを二人の男子が悔しそうに見ていた。
名前は残念ながら、わからなかった。
――――――
「えっ、今柔軟だけで終わろうとした?!」
「先生、授業してください。」
「あぁ、すまん。どうやら少し疲れているみたいだ。」
体育の授業が始まる。
いつも何をするのか適当で、当日に体育教師が決める。
今回は体育館に集められたので、どうやら室内でできるスポーツのようだ。
「先生、バスケがしたいです! そんな生徒の要望が特になかったけど、バスケをします。略すのは最近の若者の悪い癖だよな。バスケットボール、をします。」
先ほどから何かを交信しつつある教師。
遠回しに自分の若者アピールを混ぜるあたり意外に強かである。
「ルールはなんとなくわかるだろ! 試合に勝る練習はないとか言うし、早速試合だ!」
「よろしくね、坂巻くん。」
「あ、あぁ……。」
いつもどおりの坂巻くん。
でも、どこか元気がないように見える。
以前、部活の勧誘を断ったこともあるみたいだし、もしかしたら苦手なのかも。
あんまり頼らないようにしよう。
「おい、坂巻。そのたっぱを活かしてダンクだ。ダンクを決めろ。」
「なんなら俺達が土台になってやる。ジェットストリームスカイラブだ。」
「あんたたちのおつむが飛んでることは理解したから、とっとと配置に付きなさい。」
加藤くんと須藤くん、それに女子一人を交えた5人のチーム。
「もっと飛んで味噌。」
「飛べない豚はただの豚。」
「飛べない翼に意味はない。」
「君たち、あのコンビに対抗しようとしてる?」
「まぁ、バスケだけはできるんですから好きにさせてあげましょう。」
ふざけた発言とは裏腹に全員が高身長。
バスケ部にバレー部を混ぜた反則チーム。
それが今回の対戦相手だった。
「いいねぇ、萌えるねぇ。」
「草の方ww」
「吹き出しがなきゃわけわかめよ、あんたたち。」
既にジャイアントキリングを脳内に描いている加藤くんと須藤くん。
でも、それが今日は頼もしく見える。
きっと内心は女子にモテようと必死なんだろうけど。
「おい、坂巻! ジャンプボール!」
「……わかった。」
試合が始まる。
坂巻くんはタイミングを外してしまい、ボールは相手に。
そして、ボールはゴールネットに吸い込まれた。
「俺のシュートはオールレンジだ。」
「ただし、確率は半分。」
「しかも、試合だと確率はもっと下がる。」
「君たち、決まったのだから喜びなよ。」
「……勝ったな。」
いきなり点数を取られてしまった。
対して、加藤くんと須藤くんのテンションがだだ下がりだ。
女子に至っては溜息すら漏らしている。
「……すまん。」
「まったくだ! あんなにタイミング合わないとか寝てたのかよ。」
「これじゃ、カッコがつかないぜ!」
「カッコなら既についてないから安心しなさい。」
やっぱり、いつもの坂巻くんじゃない。
ぼっちが発動しているのかな。
とにかく、僕が頑張らないと。
「ど、どんまい! 声出して行こう!」
ここは僕が行くしかない。
須藤くんからボールを貰い、正面突破だ。
「おほぉ、勇ましいねぇ。」
「ばか、抜かれんなよ。」
「フォローするけどさ。」
一人目、二人目までは良かったけど、三人目が抜けない。
咄嗟にシュートの体勢を取る。
「させないよ。」
「くっ。」
相手のブロックを逃れるように後ろに跳びながらのシュート。
だが、無情にも相手の手がボールに触れ、リングに嫌われる。
僕は尻餅を付くような形になり、相手の速攻でゴールを奪われる。
僕はそれをただ見送ることしか出来なかった。
「いたい……。」
「……すまない。」
「なんで謝るのさ。」
「お前にいらぬ心配をかけている。気を遣わせている。それは全部、俺のせいだ。」
坂巻くんが僕に手を差し伸べる。
それを掴み、僕は立ち上がった。
「僕には坂巻くんが何を考えているのか。どんな思いを抱えているかは知らないよ。」
「あぁ。」
「でも、今はこうしてバスケをしている。スポーツを楽しもうとしている。それ以上に考えることなんて、何もないんだよ。」
「そうか……そうだよな。」
坂巻くんはそう言うと、加藤くんからボールを貰った。
そして、先ほどの僕のように正面突破を仕掛ける。
「いくら仕掛けようが今更!」
「右! いや正面か!」
「ここから先は進入禁止だ!」
坂巻くんがドリブルをする。
ダン、ダーンと力強いバウンドの音。
そして、キュッキュッと音を立てるシューズの音。
その音が一つになり、世界から音が止まる。
この世界には坂巻くんしかいない。
「んなっ!」
簡単なフロントチェンジ。
でも、それに釣られてしまう。
「くっ!」
基本のロールターン。
だが、その速さに付いて行けない。
「ふっ!」
自然なインサイドアウト。
刹那、坂巻くんはいない。
「どんなに凄いドリブラーでも!」
「シュートが入らなければ無意味!」
二人は既に前傾で手を伸ばしており、シュート体勢の坂巻くんがこのままシュートを打てば相手の手に当たる。
坂巻くんはそのリバウンドに競り勝ち、再びシュートを打つしかない。
そう思った。
この場にいる誰もが、このシュートは入らないと思った。
だが、ここにいたのは。
ここにいるのは、坂巻くんなんだ。
僕は確信した。
このシュートは入る。
「入って。」
僕の願い。
「入った。」
それはいつか事実になる。
後ろ向きに倒れながら打ったシュートは二人のブロックを高く越える。
背中は地面に付くスレスレの不安定な状態。
だが、そのボールの軌跡はとても綺麗な流線型を描き、静かにネットを揺らす。
そして、一瞬の静寂の後に歓声が上がった。
まるで、プロのような。
マンガのようなシュート。
それに沸き立つのはなんら不思議なことではない。
僕は倒れた坂巻くんに急いで歩み寄った。
「綺麗だ。」
「えっ……。」
突然の言葉に胸が高鳴る。
これ以上、僕の心臓に負担を掛けないでくれ。
「すげぇ、綺麗な世界だった。」
「……それは太陽が差し込んでいるからだよ。」
僕はいつもの坂巻くんにむくれる。
ドキドキさせられるのはいつも僕の方だ。
「お前が見せてくれた世界だ。ありがとう。」
「……///」
坂巻くんはずるい。
そんな顔で。
そんな言葉を投げ掛けられれば。
好きになるしかないじゃないか。
そのあとの試合は坂巻くんの独壇場だった。
その甲斐あってか、試合が終わった後のバスケ部の勧誘は凄かった。
坂巻くんは気が向いたら行くと逃げの言葉を残し、今日という日は終わる。
翌日から坂巻くんの周りに女子が増えたのは言うまでもない。
軽い嫉妬を覚えながら、お昼休みだけは誰にも譲らないことを僕は誓った。
――――――
「ふわぁ……。」
昨日の体育の授業以来、周りに人が増えた。
適当にあしらえば良いのだが、やり方を忘れていて、無駄に体力を使った。
バスケよりもこちらの方がきつかった。
「坂巻くん、待った?」
「いや、今来たところだ。」
ん? なんかやり取りに違和感。
まるでデートのような会話だったな。
でも、見た目だけは問題ない。
疲れのせいか思考することを手放した。
「今日は約束通りお弁当を作ってきたよ。」
そう言って雨宮は弁当箱を取り出した。
ん~やっぱりなんか、おかしい気が。
だが、それも食欲の前では無意味だった。
「わざわざ悪いな。辛くなったら、いつでもやめていいからな。」
「や、やめないよ!」
「あぁ、そうか。なんか悪い。」
「いや、こっちこそ。いきなり大声出してごめんね。」
恥ずかしそうに俯く雨宮。
恥ずかしがる理由はわからないが、早速弁当をいただこう。
「一応、男子高校生の食欲を考慮して作ったんだ。」
「確かに、タンパク質多めで味濃いめなのが多いな。」
「でもちゃんと栄養も考えてあるから。気にせず食べてね。」
「あぁ、じゃあ卵焼きから。」
卵焼きを口に運ぶ。
甘い。
だしとは違い、砂糖が入っているが、これはこれで美味い。
続いて、唐揚げ。
時間が経って冷えているはずなのに、衣がさくさくだ。
肉汁が溢れる。
どんな魔法を使ったんだ。
「ど、どうかな?」
「あぁ、美味い。お店を開けるんじゃないか?」
「僕はみんなに喜んでもらうより、好きな人に喜んでもらいたいかな。」
「そうか、残念だ。」
これだけの腕がありながら、欲のない奴だ。
それから箸はまったく止まることなく、弁当を平らげた。
「お粗末様でした。」
「いえいえ、ご馳走様でした。」
「粗茶ですが。」
「どうも。」
魔法瓶からお茶を注いでくれる雨宮。
あまりに至れり尽くせりで申し訳なくなってきた。
「そういえば、なんか俺にやって欲しいことはないか?」
「えっ、いきなりどうしたの?」
「いや、昨日は迷惑を掛けたからな。それにお前のお陰で少し吹っ切れた。ありがとう。」
改めて礼を言う。
バスケをする恐怖がいくらか和らいだ気がした。
まだ本調子ではないが、いつか前みたいに楽しくバスケをする日が来るかもしれない。
――――――
「私とバスケ、どっちが大事なの?」
――――――
……まだ完全には吹っ切れてないか。
そんなに簡単には行かないな。
「あれは坂巻くんが苦しそうだったから……。お礼なんて別にいらないよ。」
「これは俺のけじめみたいなもんだ。だから、何か言って欲しい。それに、弁当も美味かったからな。それも含めたもんだと思ってくれ。」
このままだと俺が貰い過ぎだ。
友達足る者、対等でなければならない。
どちらかに依存するのは友達とは呼ばない気がする。
俺は雨宮と友達でありたい。
「えっと、それじゃあね……膝枕。」
「膝枕?」
「……うん。」
少し考えてから言い辛そうに雨宮は言う。
聞き間違いということはないようだ。
「男の膝は固いと思うが、俺の膝で良ければ。」
「ち、ちがっ……僕の。僕のを使って欲しい。」
果たしてそれがお礼と言えるのか。
甚だ疑問ではあったが、雨宮がそう言うなら仕方ない。
俺はベンチで横になる。
「これで良いのか?」
「うん。……良い。」
雨宮に膝枕される俺。
男の膝なんて固いと思っていたが、存外柔らかい。
というか、普通に気持ちが良い。
「ふわぁ……。」
「眠たいの?」
「あぁ、3年分は喋ったから。」
「ふふ……じゃあ、寝て良いよ。時間が来たら起こすから。」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
春の陽気と雨宮の太腿に包まれ微睡む。
驚くほど直ぐに俺は意識を失ったのだった。
――――――
坂巻くんが寝息を立てている。
僕の膝の上で。
「ふふふ……すごく可愛い。」
「すぅ……すぅ……。」
僕は坂巻くんの頭を撫でたり、頬を突いたりする。
その度に少しだけ苦しそうな声を出す。
「んんぅ……。」
「夢でも見てるのかな。良い夢だったら良いんだけど。」
「ん……かん…な……。」
「えっ……。」
誰の名前だろう。
ううん、そんなことより。
どうして、そんな悲しい顔をしているの?
先ほどまでの幸せそうな顔はどこに行ったの?
「うぅ……ぐすっ……。」
「な、泣いてるの……は、ハンカチ。」
僕はポケットのハンカチで坂巻くんの涙を拭う。
すると、目元の刺激で覚醒したのか。
坂巻くんはゆっくりと目を開けた。
「悪い……がっつり寝てた。」
「ううん、全然大丈夫だよ!」
「えっと、なんでハンカチ?……まさか!?」
ダメ、気付かないで。
今の僕じゃ何も出来ない。
もうちょっとだけ時間を下さい。
「よだれとか垂らしてたか? すまん、洗って返すよ。」
「ダメ!」
「えっ……。」
ハンカチに手を伸ばした坂巻くんに叫んでいた。
あれ、なんで叫んだんだろう。
これじゃあ、まるで坂巻くんが使ったハンカチを返したくないみたいな。
ダメなのは僕の方じゃないか。
「あぁ、大事なものだったのか。すまん、気が利かなくて。」
「えっ、あっ、ちがっ。」
さっきから坂巻くんに謝らせてばっかりだ。
違うのに。
あの言葉は坂巻くんが誰かに取られそうになったからで。
それが嫌で大きな声になっただけで。
でも、それを説明することもできなくて。
「大丈夫か、雨宮?」
「う、うん。実はそうなんだ。ごめんね、大きな声出して。」
だから僕は嘘を吐いた。
いつか坂巻くんの全部を受け止める為に。
その為にはまだ時間が必要だから。
二人の距離は少しずつ近付いていく。
だが、それがゼロになることは恐らくない。
それでも二人は近付くことをやめられない。
――――――
「ん……かん…な……。」
――――――
「はぁ……。」
放課後の教室で僕は机に突っ伏し、懊悩と煩悶を繰り返す。
さっきの坂巻くんの言葉が頭から離れない。
あれは多分、女性の名前。
それも恐らく、とても大切な人の。
「僕に何が出来るんだろう……。」
泣いた僕を抱き締めてくれた坂巻くん。
優しく僕の頭を撫でてくれた坂巻くん。
――――――
「死んだ彼女が好きだったんだ。」
――――――
その人が出てくると決まって坂巻くんは悲しい顔をする。
そんな顔なんて見たくなんてなくて。
でも、そんな顔にさせられることを羨ましいと思った。
僕にはきっとそんな顔をさせられないから。
「おい、もう下校の時間だぞ。」
顔を上げると、そこには汚い顔があった。
「おいお前、もしかして失礼なこと考えてるだろ。」
意外に察しが良いジャージ姿のダメ教師が立っていた。
「まぁ、いい。用がないなら帰れ。特に部活とかやってないんだろ?」
「……はい、そうですけど。」
このままここにいてもできることなんてない。
坂巻くんにしてやれることなんて、何もないんだ。
「ったく、そんな顔すんなよ。まるで俺がいじめてるみたいじゃねぇか。」
そう言って、僕の前の席に腰掛けた。
目の前の男はもしかしたら僕に気を遣っているのかもしれない。
少し意外だった。
「何があった?」
「先生は坂巻くんのこと、知ってますか?」
「知ってるも何も俺が担任だ。まぁ、そういうことじゃないんだろうな。」
「率直に聞きます。先生は坂巻くんに何があったか知っていますか?」
直接本人に聞けない僕は卑怯な手を使う。
誰かの手を借りてでも、知らないより良い。
無知の知が一番怖い。
「あーまぁ、ある程度はな。だが、それを教えるのはナンセンスだ。聞きたいなら本人から聞きやがれ。」
「それは、かんなという女の子の死が関係していますか?」
「なんで、それを!?」
その反応が肯定を示していた。
想像からカマをかけてみたが、やっぱりそうだったのか。
だが、それを知ったところで僕に出来ることはない。
「やっぱりそうですか……。」
「ちっ、カマかけやがったな……はぁ、まぁいい。お前らが何を悩んでいるかなんて知らないが、人生の先輩としてアドバイスしてやる。」
「先生が先生してる。」
「抜かせ。」
一呼吸置いてから、ゆっくりと話し出した。
いつもとは違う真剣な表情に、先ほどの僕の言葉が現実になる。
「俺はお前たちより多くの死を見てきた。爺婆に親父、親戚。よく知った人も知らない人もたくさんだ。そんな俺から一つ言えることは死に慣れるなってことだ。」
「死に慣れる……。」
「あぁ、だから俺からあいつに何かしてやるつもりはねぇ。俺の助言なんて、あいつにとって邪魔にしかならねぇ。これは自分自身が答えを見つけなきゃ、意味がねぇんだ。」
いつもの面倒くさそうな態度など微塵も感じさせない。
この人は間違いなく先生だった。
「お前なら、あいつに寄り添えるかもしれねぇ。こんな中途半端な時期に転校してきたんだ。お前だってワケありだろ?」
「うぐっ……。」
「それが悪いなんて言ってねぇ。その経験があれば、一緒に悩める。一緒に考えられる。お互いに助け合うことだってできる。」
「助け合う……。」
「嫌な思い出も全部引っくるめて、曝け出して、その先にお前が望むもの。お前が出来ることがあるってことだ。」
もう言いたいことは言ったのか。
先生は気怠そうに席を立った。
「ったく、手当も出ねぇに喋り過ぎたぜ。」
「あはは、まるで先生みたいでしたよ。」
「まるで、じゃなくて先生だけどな。まぁ、何かあったら周りの大人を頼れ。あいつらはその為に多くの失敗をしてきたんだからよ。」
そう言って、先生は教室から出て行った。
教室に一人残される。
目を閉じて嫌な事を思い出す。
――――――
「汚ねぇ。」
――――――
あのとき、僕は女の子じゃなくて良かったと思った。
女の子だったら、多分妊娠していたから。
でも、今は違う。
女の子だったら、良かったと思う。
そうすれば、坂巻くんに寄り添えたから。
きっと今とは違う関係になっていたはずだから。
「今の僕にできること。」
全てを曝け出した僕にできること。
女の子じゃない僕だからこそできること。
そんなことがあるのだろうか。
今の僕にはわからない。
好きという感情以外は。
――――――
「坂巻くん、待った?」
「いや、今来たところだ。」
なんかデジャヴを感じる言葉を雨宮と交わした。
しかし、いつもとは少し状況が異なる。
何故なら今日は学校ではないからだ。
休日。
しかも、場所は人通りがある駅。
格好も制服ではなく、私服という違いがある。
何故このような状況が出来上がったのかというと全ては雨宮の言葉がきっかけだった。
「今度の休み空いてる?」
「あぁ、空いてるぞ。」
「じゃあ、デートしよっ!」
「あぁ、良いぞ。」
特に考えなしで返事をしてしまった俺のせいだった。
そのあと冷静に考えて、デートとは親しい男女がやるものだと気付いた。
しかし、男同士が冗談でデートと言うこともあるのでは、と思い深く考えることをやめた。
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥なんて言葉があるが恥はかきたくない。
そして、冒頭の会話に戻るというわけだ。
「なんか休日に会うといつもと違う感じがするね。」
「そうか? まぁ、いつもは制服だからな。」
「うん……いつもより……。」
「? 雨宮は似合ってるな。」
「えぇっ!? そ、その……かっ、かわいい?」
「あぁ、可愛いぞ。」
「んふぅ~……///」
ホットパンツにハイソックス、少し大きめのTシャツを着込んで、頭にはニュースボーイキャップ。
傍から見れば女子にしか見えないコーデ。
それが似合ってしまうのが末恐ろしい。
可愛い以外の言葉は残念ながら出なかった。
「じゃあ、早速どこか行くか。人混みは苦手だ。」
「そ、そうだね。ちゃんとデートプラン練ってきたからエスコートするね。」
「そういうのって普通男がするものって……あぁ、合ってるのか。」
ちょっと性別を忘れていた。
俺はすごく大事なことを忘れていたようだが、断言しよう。
数秒後にはまた忘れているだろうと。
数分後、俺たちは喫茶店に辿り着いた。
お昼時で人が多いかと思いきや、少しわかりにくい場所のお陰で人は少ない。
所謂、隠れ家的お店のようだ。
「いらっしゃいませ~二名様ですか?」
「はい。」
「二名様入りま~す。」
間の抜けた声で窓際のテーブル席へと案内された。
席に着き、メニュー表を見つめる雨宮。
メニュー表が一枚しかないため、俺は店内を軽く見渡す。
カップルが多い気がする。
しかも、そのカップルたちは一つのグラスにストローが二本刺さった飲み物を飲んでいる。
ハート形のストロー。
実在するのだなと少し感動してしまった。
「お冷とおしぼりです。」
「あぁ、どうも。」
「本日のおすすめはカップル限定のラブジュースが付いたランチセットです! いかがですか?」
「いや、いかがと言われても。」
カップルじゃないし。
雨宮もいい迷惑だろう。
男同士の悪乗りでも厳しいものがある。
「カップル……僕と坂巻くんが……。」
「雨宮……。」
カップルに見られて憤慨するかと思いきや、雨宮は何も言わない。
もしかして、あれが飲みたいのか。
大人になってからお子様ランチが食べたくなるみたいなあれか。
ここでカップルじゃないとわかれば、あれは頼めない。
仕方がない。
俺は腹を決めた。
「じゃあ、それもらえますか。」
「さ、坂巻くん!?」
「いいからいいから。」
店員は足取り軽やかに厨房の方へと向かって行った。
すると、雨宮がもじもじしながら聞いてきた。
「坂巻くんは、その…良かったの?」
「あぁ、別に構わないぞ。」
やはり、男同士だと恥ずかしいのだろう。
少し強引だったかと反省はするも、後悔はなかった。
「そうなんだ……へへっ。」
目の前で嬉しそうな姿を見られた。
それだけで俺の行動は間違いじゃない。
そう思えた。
――――――
美術館へ
「坂巻くん、絵って好き?」
「ん? あぁ、あんまり好きじゃ……。」
途端に悲しそうな顔をする雨宮。
その先の言葉を言うほど、俺は人間を辞めていなかった。
「あまり詳しくはない、かな。」
「そうなんだ! じゃあ、僕が教えてあげるね。」
一気に笑顔になったのを見て安心した。
恐らく色々考えてきてくれているのだ。
それを無下にしたくない。
俺の嗜好など些細な問題だ。
公園をしばらく歩いていると目的地らしき建物が見えてきた。
建築の知識はないが、有名な人が作ったんだろうなと思えるデザイン。
付近にはちょっと落ち着いた年齢層の人たち。
絵、ということから美術館だろう。
初めてだから推測の域を出ないが。
「ここです。」
「美術館か。」
「うん、坂巻くんはあんまり騒がしいところは苦手かなと思って。」
「そうだな。確かに得意ではないな。」
色々考えているんだと感心する。
以前、デートをしていたときはあいつが行きたいところにしか行かなかったからな。
もし俺がエスコートしていれば、色々考えたのだろうか。
俺は頭を振って雑念を散らす。
俺は今を生きているんだ。
目の前のことに集中しないと。
「今回は西洋絵画の歴史がテーマで有名作品がたくさんあるから、全然知らなくても大丈夫だよ。」
「おいおい、全然知らない訳じゃないぞ。これでも色んな絵を見てきたんだぞ。」
「そうだね、マンガも絵だもんね。」
「……機先を制するとは、腕を上げたな。」
「そりゃ、そうだよ。坂巻くんのこと、いつも考えているんだから。」
「愛されてるな、俺。」
「んあっ! 違うよ! そういう意味じゃないから。友達として! 友達としてだから!」
あわてふためく姿を見て笑みを浮かべる。
この手の話題が苦手なのは知っているからな。
「んぅ……もしかして、わざと?」
「まぁ、あれだ。好きな子に意地悪したくなる的な。」
「す、す、すぅ……。」
そう言って萎んでいく雨宮。
寝るにはまだ早い時間だ。
というか、まだ絵も見ていない。
小声で自問自答を繰り返す雨宮を尻目に受付に向かった。
学生料金を二人分払う。
何故か俺だけ学生証の提示を求められた。
そんなに老けているのかとショックと入場券を貰った。
「ほら、行くぞ。色々教えてくれるんだろう?」
「う、うん!」
俺はお金を出そうとする雨宮を抑えて建物の中に入る。
入場券を見せたところで黒い機械を貸し出していた。
音声ガイド500円と書かれている。
なるほど、これなら事前知識なしでも安心だな。
「借りるか?」
「……もしかして、好きなの?」
何の話かと思ったら音声ガイドをしているのがテレビでよく見る女優だった。
モデルということもあり男子には人気がある。
だが、教えてもらう約束をしたのに借りる暴挙に出るわけがない。
「そこまで。知ってる程度だな。」
「良かった。」
そう言って腕を組んできた。
ふわりと鼻孔をくすぐる甘い香り。
確かにこれはデートだと思った。
何か忘れている気がするが、気にしないでおこう。
思い出せないということは大したことじゃないからな。
「ん、この絵見覚えがあるな。」
「キリストの磔刑図だね。」
「どこかで……なんか有名なアニメの。」
「よくわかったね。フランダースの犬の最後のシーンで映ってたものだよ。さすがに本物じゃないけどね。」
そうか、この絵を見てネロとパトラッシュは死んだのか。
悲しいシーンの総集編でしか観たことがないから、ストーリーとか知らないけど。
「思い残すことはない、か。」
最後の言葉を思い出す。
そう言える人生を歩んでいるだろうか。
「でも、あの言葉は本当だったのかな。」
「えっ。」
「お金がなくて、画家になれなくて、自分のやりたいことすら出来ずに死んじゃって。それで本当に思い残すことはなかったのかなって。」
「……やりたいことが出来ない。」
その言葉にはっとした。
俺と同じ。
いや、違う。
俺は出来るのにやらないだけだ。
今の俺を見たらネロはなんて言う。
ずるいって、羨ましいって言うはずだ。
悲劇を気取って足踏みして。
こんな俺の為にあいつは死んだんじゃない。
ふと、そのとき背中に温もりを感じた。
誰かなんて言わなくてもわかる。
「大丈夫だよ。」
まるで子供をあやす母親のような。
いや、ここでは聖母マリアって言った方が良いのか。
それだと俺が神になりそうだから却下だな。
「大丈夫、大丈夫。」
「……ありがとう。」
回された手に触れ、その温もりを肌で感じる。
どうして、俺のして欲しいことをしてくれるんだろうか。
俺は一体何をしてあげられるんだろうか。
答えを見つけられないまま、デートが終わった。
でも、喜ぶ顔が近くで見られて良かったと。
その顔を誰かに見せて欲しくないと。
忘れていた感情を見つけられた気がしたんだ。
――――――
「それで何をしてほしい?」
「お弁当貰う度にそれを言うの?」
「あぁ、じゃないと割に合わないだろ。」
「僕は、別に……。」
坂巻くんと一緒にいられるだけで良い、なんて言えない。
それはまだ早すぎるから。
早すぎるって、僕は何を考えてるんだ!?
ダメだ、冷静にならないと。
下手なことを口走ってしまう。
「まぁ、俺に出来る範囲のことだけど。」
「キス……。」
「えっ、なんだって?」
「キスして欲しい……。」
あれ、僕今なんて言った?
もしかしなくても下手なこと言っちゃっちゃ。
落ち着け、クールになるんだ、僕。
まだリカバリーできる。
坂巻くんは鈍感主人公の如く聞こえてないみたいだし。
「……いいぞ。」
「じょ、冗談だよ! ちょっと考え事しててって、えっー!!」
「さっきからテンションおかしくないか?」
「だから、それは考え事をしてて……。」
どうしよう。
坂巻くんに許可を貰ってしまった。
ここで断ったら逆に失礼になるのかな。
でも、坂巻くんのことだから外国なら挨拶みたいなものだと思っているのかもしれない。
「さすがに恥ずかしいものがあるが、俺に出来る範囲って言ったしな。」
「が、外国だと挨拶みたいなものでしょ!」
「ここは日本だしな。」
「あぅ……。」
どうして僕の予想を外してくるんだ。
そのせいでますます恥ずかしくなってきた。
顔だって火照ってきたし。
僕は両手で顔を隠した。
「別に嫌なら無理をするなよ。別にしてほしいことがあるなら、それでも。」
「い、嫌じゃないよ!」
「そ、そうか。」
あれ?
僕、今自分で逃げ道を潰した?
でもでも、ここで逃げたら一生言えない気がするし。
僕は腹を決めた。
「そ、その、お願いします。」
僕は目を瞑る。
坂巻くんの姿が見えないから不思議と緊張がなくなった。
……いや、そんなわけないけど。
今でも顔から火が出そうだけど。
あっ、そういえばお昼ご飯食べた後だった。
口の匂いとか大丈夫かな。
「や、やっぱりちょっとタンマっ!?」
目を開けた瞬間に坂巻くんの唇が僕の唇に触れた。
目の前いっぱいに広がる坂巻くんの顔。
そのことがキスしたことを証明する。
触れるだけのキス。
でも、その一瞬の出来事に。
僕は何故か涙を流していた。
「えっ、あれっ、大丈夫か? 痛かったか? もしかして、そんなに嫌だったか?」
「その、これは、違くて……。」
僕は怖くなったんだ。
この関係に終わりが来るのを。
だって、僕と坂巻くんは男同士。
決して結ばれることはないんだから。
「初めてだったんだ。こんなに幸せな気持ちになれるなんて知らなくて……。」
「ほら、ハンカチ。」
「あ、ありがとう。」
ハンカチで顔を覆う。
息をすると坂巻くんの匂いがした。
そして、また多幸感に包まれた。
「ふふふ。」
「大丈夫か。」
僕はつい笑ってしまった。
そんな僕を坂巻くんが心配そうに見つめている。
その瞳の中に僕がいる。
僕は自分で思っていた以上に坂巻くんが好きみたいだ。
「幸せだなぁ。」
僕は小さく呟いた。
誰に聞かせる為のものでもない。
心から出た言葉だった。
「もう一回いいか。」
「えっ。」
「もう一回していいか。」
坂巻くんの意外な提案に僕は驚く。
これ以上、僕を幸せにしてどうする気なんだ。
そんなにお弁当が食べたいのかな。
それは、ちょっとショックだ。
「今度は俺からしたい。お礼とかそういうのじゃなくて、俺の意思で。」
「それって……。」
「嫌なら抵抗しろ。そうすれば、すぐにやめる。」
「ちょ…んまっ!」
坂巻くんが僕にキスをする。
それはさっきの触れるだけのものとは違う。
貪るかのようなキスだった。
坂巻くんは抵抗しろとか言ってたけど、後頭部に添えられた左手がそれすらも許さない。
僕はただ坂巻くんにされるがまま。
そんなキスなのに。
乱暴なキスなのに。
どうして僕はこんなに満たされているんだろう。
こんな時間がずっと続けばいいなんて考えているんだろう。
「んぅ、ちゅっ、はむっ、ふぁ、ぷはぁ。」
長いキスが終わり、僕の口と坂巻くんの口からいやらしい橋が架かる。
僕は力なく、坂巻くんの胸にもたれかかった。
背中を優しく抱かれながら。
「ごめっ……力が入らなくて……。」
「大丈夫だ。俺もこうしたかった。」
荒い息が落ち着くまでそうしていた。
まさか僕の軽はずみな発言からこんなことになるなんて。
こういうのを棚ぼたって言うのかな。
願わくば最後の一瞬までこんな時間を過ごせたらいいなって。
仮初めの時間が少しでも長く続けばいいなって。
僕は願ったのだった。
――――――
「最低だ……。」
やってしまった。
取り返しのつかないことをしてしまった。
都合の悪いことを聞こえないようにすれば、それで済んだ。
「なにがいいぞ、だ。」
俺は雨宮の優しさに付け込んで、甘えてしまった。
俺が傷付けて死んでしまったあいつの代わりにしようとしたんだ。
そして、今度は上手くやると。
それを贖罪にしようと。
それが裏切りだと知りながら。
結局、俺は過去を引きずって、また誰かを傷付けようとしている。
「そんな関係でも、きっと雨宮は。」
寄り添ってくれる。
傷を舐め合って、依存し合ってでも、側にいてくれる。
本当の雨宮を見ることもなく、報われることもないというのに。
キーンコーンカーンコーン。
放課後を告げるチャイムが鳴る。
机の上のノートは一ページたりとも進んじゃいない。
それがまるで自分の今の状態を暗喩しているかのようだった。
「坂巻くん、大丈夫? 調子悪いの?」
心配そうに雨宮が話し掛けてきた。
俺が今一番会いたくない相手なのに。
その声を聞いて安心している俺がいる。
「大丈夫だ。帰って寝れば治る。」
「……ちょっと来て。」
そう言って雨宮は俺の手を取って歩き出した。
振り払えばいい。
そうすれば、今までと同じように一人になれる。
自分だけが傷ついていると悲劇を気取れる。
それがいい。
それがいいと思っているはずなのに。
どうして、この手を振り払えない。
どうして、こんなに安心している。
この手を繋いでさえいれば、何もいらない。
どうして、そんな気持ちにさせる。
なぜ、どうして、そんな自問自答をしている間に手が離された。
望んだはずなのに。
どうして俺は泣きたくなっているんだ。
まるで、掴んでいた手を探すように空を掴んだ。
「はい、座って。」
俺は椅子に座らされた。
消毒液の匂いがする。
清潔そうなベッドが何組かある。
保健室と呼ばれる場所だった。
「熱を測るやつは……あれ、見当たらないな。」
雨宮は忙しなく動いているが、目的のものが見つからないようだ。
すると、諦めたのか。
雨宮は左手を自分のおでこに、右手を俺のおでこへと当てた。
「熱はない、のかな。」
「ぷっ。」
「へっ?」
「ふぅーはっはっはっは。」
俺は笑っていた。
先ほどまで考えていたのが馬鹿みたいだ。
「結局、何もわかってねぇのかよ。」
「う、うるさいなぁ! こっちは本気で心配して。」
「こうすりゃ、測れる。」
「ふぇっ!?」
俺は雨宮の手を引いて、膝に座らせた。
そして、お互いのおでこをくっつけた。
「熱は、ちょっとあるみたいだな。」
「それは、だって、ちょっと、ちかっ。」
狼狽える雨宮の顔がだんだんと熱を帯びていく。
傍から見れば恋人同士のような格好をさせているのだ。
この反応も無理もなかった。
「……良かった。」
「えっ?」
「さっき、この世の終わりみたいな顔してたから。」
「あぁ。」
うじうじ悩んでいただけだ。
でも、悩む必要なんてない。
直接聞いてしまえばいいのだから
「なぁ、雨宮。甘えていいか? あいつのことを忘れることなんて出来ないけど。それでも、側にいてくれるか? 寄り添ってくれるか?」
「……うん、いいよ。僕も過去のことを忘れることなんて出来ないけど。一緒に悩んであげられる。寄り添ってあげられるはずだから。」
すると、雨宮は俺の頭を愛しそうに胸に抱いた。
俺も雨宮の腰に回した手を強く抱く。
多分、これは良くないことなのだろう。
傷を舐め合って、依存し合って、生きていく。
決して報われることのない関係。
交じり合うことのない関係。
まるで漸近線だ。
でも、その上には確かにiがあって、iがあった。
存在しないわけではないのだ。
二人の距離は限りなくゼロに近付いていた。
雨宮「せっ、先生!?」
先生「ごゆっくり~」
坂巻「だ、そうだが。」
雨宮「だ、そうだじゃないよー!」
このあとめちゃくちゃ説教された。