第1夜:イッツィー・ビッツィー・スパイダー
骨まで凍りついてしまったかと思うくらいの寒さに目を覚ました。
体の節々に感じる異常な痛み、顔の皮膚がつれているような違和感、鼻の奥までねっとり臭うゴミ溜めの臭い。そのどれもが記憶にないもので、がばっと半身を起こすが痛みに堪えきれず元の体勢に戻ってしまう。そこで気づいたのは、顔も腫れ上がって血だらけの俺が、路地裏のゴミ捨て場に伸されていたことだった。
『坂と霧と狂騒の街』。
それがここ、アプエスタの愛称。
長方形のような形の半島は、たった十二平方マイルくらいしかない。国交の舞台になることも多い土地柄、漁業よりも貿易が栄えるようになり、さらには金融会社が立ち並ぶ高級都市へと成長を遂げた。
あらゆるエリート・ビジネスマンが闊歩するこの街に、大志を抱いて上京する若者の多くは、狂騒の街の荒波にもまれ、やがて生気を失って挫折していく。出征街道をひた走っていた者たちも、一つの小さな過ちであっという間にゴミ溜めまで流されてしまう。疲れ果てて、もう一歩も動けなくなってしまった人々が求めるもの。それは、娯楽。
クソみたいな現実を、信じたくなけりゃ信じなきゃいい。目を逸らせばいい。
目を逸らした先に、最高にドープな世界が広がってることだってある。サイケデリックなその夢に溺れて悪いことなんて何もない。そうしてまた鼠色の現実へ、戻る気になったら戻ればいい。そういう人間が集まってしまったらしく、アプエスタは娯楽都市としてもこの国で5本の指に入るほど有名になった。
急激に増えてしまった人口に対して単純に住む場所、商売をする場所が足りていなかった。郊外では信じられないほど狭く区切った土地に、立派なヴィクトリア朝の家を建て、港近くはビジネスと商売の中心として数々の有名な建築士が設計した荘厳なビルが建ち並ぶ。路面電車と自動車、歩行者が入り混じって、ビルに挟まれた大通りを行く。あれだけ急勾配の坂があっても、それは同じだった。
俺が倒れているのは娯楽施設が多く建ち並ぶ、いわばエンターテインメントの地区、ナーダ。メイン・ストリートから入れる路地なんて少なく、そういう場所は百パーセント怪しい取引がされる場所になる。そして店の裏口とゴミ捨て場も大体そういう場所にあって、まだ霧も晴れない明け方、クソ寒いこの場所で仰向けになって四肢をだらしなく広げたままでいる。
無理に起きることをやめた。
所狭しと建ち並ぶビルの細長い隙間から見える空は真っ白で、気持ちが悪いくらい明るい。ここ、アプエスタという都市ですっきりとした青空を見れることは少なく、いつも雲が薄い膜のように空のすぐ下を覆っている。初めてこの街に来た日も確かこんな空で、「ここは空がない街なんだ」とぼんやり思っていた。二年経った今も、同じことを思う。
血の味がする。顔を触ってみれば乾いた血がへばりついていて、少し強引に指で擦ると、ぱらぱらと破片が落ちていく。頬骨の近くまで指が触れた時、鈍い痛みがあった。きっとここも腫れている。
そこからゆっくりと思考が回り始め、昨晩の記憶が断片的に蘇ってきた。
***
大通りからの灯りもほとんど届かない路地の奥を目指してただただ走る。視界はぐにゃぐにゃ歪んで、足元も覚束ない。ひたすら前に進むけど、どこかを目指してるわけではない感覚があった。
「待ちやがれ、この泥鼠が!」
怒号が背後から飛んでくると同時に左肩を強く引っ張られ、その勢いのまま顔面を殴られる。それから数えきれない程のパンチと蹴りを浴びて、何発かやり返したような気もするけどきっと相手にはかすり傷程度で、そのまま俺が動かなくなるまで誰かに殴られ続けた。
「…もう死んでるって。動いてねぇよ」
もう何も見えなかったけど、たぶん殴ってない方の男がそう言った。
***
ポケットから引っ張り出したドル札の束と硬貨数枚をテーブルに置いた俺を見る、高そうなスーツを着た男。マフィアかギャングのボスは大体恰幅が良いイメージがあったが、この男は細身で、長い足を組んでこちらに微笑む。
「本当はこんな額じゃ足りないけれど、まぁいいでしょう。初回割引ということで」
俺の背後から現れた誰かが、目の前に小瓶を差し出す。それは、炭酸のないシャンパンのような美しいゴールドの液体だった。
***
「"願いの水"…?」
俺はバーカウンターに全体重を預け、香水がキツすぎるその女の胸元から顔に視線を移していく。顔は大して綺麗でもないが、首筋が綺麗だと思った。
「そう。将来有望な俳優さんなら聞いたことくらいあるでしょう?」
ずい、と顔を近づけてくる女から顔を逸らすと、女は俺の耳元に口を寄せて囁いた。
「飲めば必ず才能が開花する魔法の水よ」
***
いつも通り、バケツとデッキブラシを持って物置に向かう途中で小劇場の管理人室の横を通りかかった時。聞こえてきたのはプロデューサーと監督、うちの劇団の女優の声だった。
「だから何度も言ってるじゃない…この役はダグにやらせた方が絶対いいわ」
「もうウィスで行くって伝えちまったものをどうしろって言うんだ。稽古を積めば彼にもある程度は…」
「言われた通りにも満足に演じられない役者なんている? いらないでしょ! 大体、陰気で面白くもないしこの数年成長もない」
「それは同感だな…」
「監督!」
「正直難しいんだ。ある程度器用ではあるけどそれ以上でもそれ以下でもない。ダグはここ最近舞台の上で信じられないほど存在感を放つ。この役はウィスに背負い切れるか…」
もう聞いていたくなくて、その場を離れようと左足を踏み出す。
「何よりあの目よ。世界中の悲劇を背負い込んだみたいな、ウィスのそういう目が客を失望させるの」
女優が溜息とともに吐き出したその言葉は、俺の心臓に深く突き刺さった。
ダグにあって、俺に無いもの。ダグは簡単に手に入れることができて、俺には一生届かないもの。
情けなくも視界が滲んで、涙が零れないように目を大きく開いて物置をまっすぐ見据えた。
***
舞台に上がることに焦がれていた過去の俺に教えてやりたくなる。ここは、いざ上がってみると恐怖しか感じない場所だと。毎日向けられた無関心な視線に飽きて、『ある程度器用』な殻を破りたくてぶっつけ本番でのアドリブはだだスベりだった。客の高揚した顔を見たかったのに、向けられる視線は冷たい。
『世界中の悲劇を背負い込んだみたいな、ウィスのそういう目が客を失望させるの』
静まり返った客席を呆然と見つめながら、あの女優が言った言葉を思い出していた。
俺はセリフの続きも忘れ、立ち尽くすことしか出来なかった。
***
時系列も無視した記憶の断片のモンタージュ映像に急に吐き気がして、体を半回転させて地面を向くと、昨日飲んだ何種類もの酒が一気に逆流してきた。むせ返りながらすべて吐き出し、苦しさに涙が流れた。
一体どこで何を間違ったのだろう。努力している人間を笑う奴らに目もくれず、学校の授業も手を抜かず毎日演技の練習だってしてきた。安月給だろうがつまらない役だろうが不満もこぼさずやり抜いてきた。その積み重ねの結果がこの現在地。
なんてことはない、軽い否定。そんなことお前には無理だとか、もっと身丈にあった夢を見ろだとか、何の役にも立たない夢を追いかけるくらいなら定職に就けだとか、そんなありふれた否定は今までいくらでも浴びてきた。その度に震える足にぐっと力を入れて言い返してきた。今に見ていろ、後悔するのは未来のお前だ、と。帰ってから一人の部屋で情けなく泣くことがあっても、劇場に向かう足が鉛のように重くても、与えられた役が馬鹿げた台詞しかない人間でも、毎日一歩一歩、踏みしめてきた。
それでも足りない。可視化した努力でないと人は見向きもしてくれない。
悔しさと遣る瀬無さに押しつぶされてしまいそうで、大声を出した。真っ白な空は何も降らせないし何も受け入れない。情けなくひっくり返った声は空も飛ばず、ゴミ溜めの中に落ちていった。
泣き叫ぶことに疲れ、宛てもなく歩き始めて気づいた。喉が乾いた。どこかで水を飲みたい。
泥と穴だらけの服を身にまとった人間は健常者の視界には存在しないように出来てるようで、控えめに声をかけたところで透明人間として扱われる。ド底辺まで落ちてしまった自覚がじわじわと芽生えると、この狂騒の街が見せる夢に喰い潰された人たちが、ストリートの端で丸まっているのが目に入る。今まで毎朝劇場に向かう道で見ていたはずの光景だが、無意識に見ないようにしていた街のディテールに胸が締め付けられる。
ドロレス・パークまでたどり着いたところで力尽き、芝生の上に倒れ込んだ。歪なオペラ座の客席のような形をした丘には豊かな芝生が敷き詰められていて、小さな子どもから老夫婦まで、様々な人間が集う。無論、透明人間ではなく、まともな人間の方の話。
朝霧で湿ったはずの芝生はもう太陽に乾かされていた。暖かなベッドの上にいるようで、ほんの少し気が緩んだら涙が溢れそうになったから目を閉じて深く呼吸をするよう努めた。
子ども達の楽しそうな声が多いな、と思ったところで今日が土曜日だったことを思い出した。目を閉じていても瞼の裏で太陽の暖かい色を感じる。モラトリアム真っ只中の少年みたいな事を言うと、アプエスタに来てから目に映るものの彩度が低くて、こんなに色鮮やかであたたかな世界も同時に存在してたんだと思うと、どうして自分が今まであんな場所にしがみついていたのかまったく以って解らない。
ちっちゃなクモ 雨どい登ってく
雨が降ってきて 流し出された
俺が寝そべっているすぐ近くを走っていく子ども達が楽しそうにマザーグースを歌う。たった四行しかない歌詞なのにその先を知らないようで、同じ部分をずっと繰り返し歌っている。全てに感傷的になってしまってるせいか、流し出されたままのクモを救ってやりたくて、なんとなくその明るいメロディーを口ずさむ。
ちっちゃなクモ 雨どい登ってく
雨が降ってきて 流し出された
太陽出てきて すべて乾いたら
また雨どいを登ってく
震える声。整わない呼吸。目の前いっぱいに広がる真っ青な空が眩しくて、目を閉じたいのにこのままずっと見ていたい。
こんなマザーグースを歌ったら泣いてしまう奴なんて、世界中の悲劇を背負い込んだみたいな目をした人間くらいしかいないだろう。
この狂騒の街で人生を謳歌する者がこの世界を創っている。ストリートの端で丸まってる人間どもや、俺のような小物は雨に流されゴミ溜めまで一直線。こんな当たり前の世界で当たり前の苦労を買ったはずだった。いつか報われるだろうと不確かな未来が向こうからやってくるのを待っていた。
何がダメだったかなんて、俺が一番よく分かってる。
いつか叶うだろう。ここで努力していればきっと目が利く誰かが俺の才能を見つけ出してくれるはずだ。努力していると言いながら他力本願な俺なんかが叶えられる夢なんてどこにもない。
−−情けない。情けない。…情けない。
込み上げてくる涙をもう抑えられなくて、晴れ渡る空の下、俺はまた情けなく泣き始めてしまった。こんなはずじゃなかった。この街に来た時は何にでもなれると思っていた。鳴り止まない喧騒に包まれて、いつもより数段速く脈を打つ心臓が生きていると叫んでいた。今はもう、疲れ切ってしまった。ぐしゃぐしゃの顔を両手で隠して、俺は太陽から目を背ける。
「よォ、りんご食う?」
優しい声が、降ってくる。俺にすとん、と届いた飾り気のない言葉に一瞬嗚咽が止まる。手をどかして空を見ると、眩しすぎる光を背負った青年の笑顔があった。
乾いた風が吹き抜ける。カラリと気持ちのいい風。青年は鮮烈な赤を纏った果物を俺に差し出している。何も言えずにりんごとその青年の笑顔を交互に見ていると、彼は笑った。
「りんご。嫌い? ならパンもあるけど、水分無いから口ん中パサつくぜ」
屈んでいるのが疲れたのか、彼はその場にしゃがんで買い物袋の中を漁りながら、俺に気にせず話し続ける。
「チョコとかキャンディーの方が好き? 糖分は頭の働きを良くしてくれるからな。あ、でもやっぱりりんご食っといた方がいいよ。その身なりじゃロクなもん食ってねぇだろう。ビタミン摂っとかないとすぐ風邪引くってさ、ウチの婆ちゃんが煩かったんだ」
俺の返事を待つどころか訊いてもいないことをベラベラ喋る。この身なりの人間に話しかけるのはロクでもない奴しかいない。食べ物を与えて警戒心を解いた後にヤバい仕事でも頼むつもりかもしれない。センチメンタルモードから一気に自己保身へと脳のスイッチが切り替わり、目眩がするのも気づかないフリをして俺は立ち上がった。
「えっ、ちょ…」
彼の静止の声も聞かず、緩やかな芝生の丘を下りていく。しかし、水分も栄養も全く足りていない体が悲鳴をあげ、膝から崩れ落ちるようにその場にへたり込んでしまった。
「あーあーほら! 無理できる体じゃねぇんだろう!」
俺の右腕を掴んで立たせてくれるが、体勢を立て直したところで俺はその青年の手を振り払った。目の前のダークグリーンの瞳を睨みつける。深みがあり落ち着いた色の瞳は、太陽の光を受けて真っ直ぐ輝いている。気に入らない。ちらりと見た時に彼のシャツやコートがそこそこ高そうな物だったのも余計に気に入らなかった。きっと歳も俺と変わらないくらいで、こいつはきっと自分の夢に向かって邁進して人生を謳歌し、この街の狂騒を愉しんでいる。そういう、輝かしい人間とは今一番関わりたくなかった。
彼の手を振りほどいて、俺はまた丘を下りていく。ストリートに出たところでまた重心が傾くが、無理やり歩き続けながら体勢を立て直した。
「なあ、頼むからこれだけ受け取ってくれって! このままだと本当にアンタ死んじまう」
だが、こいつは俺の目の前に割り込んで無理やり先程のりんごを手に握らせる。瑞々しく光る真っ赤なそれは、今の俺には毒だ。りんごを持つ両手が筋違いの怒りに震える。
「楽しいかよ! "見えない人間"に食い物を与えて、キリストごっこをするのが趣味ならいい迷惑だ!」
能天気に笑うその顔も怒りに歪めばいいと思った。けれどそいつは一度目を丸くしてから、カラカラと笑う。本来の俺だったら笑われたことに対してキレる場面なのに、今の俺には怒り直す体力もなかったのか、呆れ顔になっただけだった。
「オレのこと聖者に見えるならアンタ相当疲れてるよ。きちんと栄養のあるもの食って、風呂入ってベッドで寝て元気になれば、そんな間違い二度と起きないぜ」
笑いながら俺の背中を二回叩き、そのまま背中を押されて並んで歩き始めた。
力が強すぎるだろ。背骨が折れちまう。
「とにかくアンタには休息が必要! 何も怪しまなくていいよ、飯食わせて寝かせたらアンタなんかとっとと追い出すから。あ、あと"魂の潤い"が必要だな。ついでに良いモン見せてやるよ。オレに出会ってラッキーだぜ、アンタ」
「……っにすんだ、触んな…!」
「グランピーな坊やだなぁ。オレの弟もよくそんな風にぐずってたよ。それも腹いっぱいになったら治る」
「いいから離せって!」
「あ、りんご食えよ。グラハムの店のだから美味いぜ」
人の話を聞かないにも程がある。見ず知らずの行き倒れにここまで構うことで得することなんてないはずだろう。気がつけば彼のペースのまま大通りを3ブロックも進んでおり、道行く人々はそこそこ身なりの良い男と浮浪者が並んで歩いている様が可笑しいというような、半分にやけた面で俺たちを見ている。覚束ない足で彼のスピードについていくのが精一杯。俺の背中を押す手がなければとっくに歩くことをやめている。普段だってこんなせかせかと歩く方ではないのに。
横でずっと何かを話していた青年は、あ!と突然大きな声を上げて止まった。突拍子もない大声に驚いた俺はよろけた体勢のまま彼を見ると、白い歯をカッと見せて俺に手を差し出した。
「ギャリーだ。アンタは?」
「……は?」
「な・ま・え!」
演技がかったように耳に手を当てて俺の返事を待つ。言うのを躊躇っていると、その演技が胡散臭さを増し、これ以上見ていたくなくて言ってしまった。
「…ウィスダム。」