内憂外禍
「犬に噛まれただって!?」
喫茶店で待ち合わせていると開口一番にジャックが大声を出しながら物凄い形相で入ってきたものだから、一気に周囲の目線が集まった。
室内での帽子はただでさえ目立つのに、勘弁してほしい。
珈琲でむせそうになったではないか。
「……犬じゃなくて狼です。」
マグカップを置いて咳払いしながら訂正すると、彼の顔がさらに強張るので慌てて人差し指を立てて牽制する。
向こうも意味を理解したようで声を落とした。
「あー、、、それで大丈夫なのかい?」
「出血が酷かったので、かなり焦りましたけど思ったほど傷は深くなくて直ぐに止血できました。骨も折れてないですし、今のところ化膿もしてません。
噛まれたのが腿だったのと血を失いすぎたので今はベッドで安静にさせてます。
けど、歩けないことを除けば本人は元気だと言ってますし、それは時間が経てば治るでしょう。
ただ……」
ただ?、と言葉に詰まったところで空かさずジャックは相槌を入れてきた。
彼は会話中に相槌をうつことが多い。仕事上の癖なのだろう。
「あの狼がどんな菌を持っていたかわかりませんし、これから膿んでくる可能性もあるので一度ちゃんとした医者に見せたいんです」
「それで?」
「……前はアマンダが内戦時に看護師として働いていたのもあって、その手のことは彼女に任せきりだったので医者にはあまり詳しくなくて………」
話し終える前に彼はぽんと手を叩いて遮る。
商売で名をあげてるだけあって、こういうところの察しはいいようだ。
「つまり僕に紹介してほしい、ということか。
わかった、任せてよ。僕も残念ながら医療はからっきしだけど、ここ一週間で町長とはすっかり仲良くなったからね。街一の腕利きを紹介してもらうよ。手筈が整い次第すぐにでも向かわせるさ」
「本当に、ありがとうございます」
最重要の案件が早々に解決し、ほっと息を吐く。
ジャックを頼って正解だった。やはり顔の広い彼はこの手のことに融通が利くようだ。
「あと、一度でいいので近いうちに見舞いに来ていただけませんか?
本人は元気そうにしてますけど、やはり盲の身で襲われたというのは途轍もない恐怖だったと思うんです。
貴方が来てくれればそれだけで良い薬になるはずです」
——そう、こういうときに彼の力になれるのはジャックだ。私ではジャックのような談笑で彼の心を晴らすことはできない。
自覚して心は少し沈むけれど、ジェームズのことを思えば私の気持ちなど取るに足りないことだった。
「うーん…………」
だというのにジャックは先程までとうって変わってバツが悪そうに頭を掻いている。
黙りこくったままの彼に少しムッとして私は話を急かす。
「何か問題でも?」
「……実は、仕事の都合で一度首都に戻ることになってね。今日中に発たないといけないんだ」
……無性に腹が立った。共に故郷を出た家族同然の旧友と仕事、どっちが大事なのだろうか、この人は。一発ビンタでもかましてやりたい。
代わりにぐいと珈琲を飲み干し、苦味と一緒に降って湧いた衝動も飲み込む。
「そうですか。仕事なら仕方ありませんね」
「うん、すまないね。首都と言っても簡単な書類の手続きをするだけだから一週間もすればこっちに戻るさ。
そしたらすぐに見舞いに行くから」
皮肉と全く気づかないらしく、そう言って彼は急ぐように席を立った。
相変わらず察しが良いのか悪いのかよくわからない人だ。
泣いた人狼 内憂外禍
午下、往来の多い通りは雨後の晴れ続きということもあってか生き生きとしている。
荷馬車から子供達まで行き交う街の中心部は、普段は行かないこともあってか始めは少し煩すぎるような気もしたが、この喧騒も慣れてくれば市場の盛況と変わらぬ心地良さを覚えられた。
ジャックは本当に時間がないらしく、今から直接役所に行って頼み込んでくるとのことで、時間が決まり次第伝えに行くから喫茶店で待つようにと言ってすぐに出て行ってしまったが手間を取らせぬように役所前で待つことにした。
仰向くと近代風の建物がそびえ立っている。
五階建ての茶色く塗られたそれは三角屋根がない上に四角いフォルムなものだから巨大な煉瓦のブロックに見えないこともない。
それにしても遅い。もう店を出て二時間近く経つ。
早く戻ってジェームズの介護をしないといけないのに。
もしかするとすれ違ってしまったのかもしれない。一度、喫茶店に戻ったほうがいいかもしれない。
「もし、白い髪のお嬢さん」
不意に呼び止められた。明らかに彼ではないが、もしかすると使いの方だろうか。
振り向くと見知らぬ男がいた。不安から少し身構えたが、紺色の制服が身分を証明していたので警戒はすぐに解けた。
「保安官さん、どうかしましたか?」
「もしかするとヒル氏を待っているのかなーと」
「ええ、そうなんです。ジャックは役所にいますか?」
「彼でしたら、ちょうど貴方が来る前に町長と足早に出て行かれましたよ。病院に予約を取りに行く、とかなんとか」
——ああ、完全にやってしまった。なんて馬鹿なんだろう。役所に医者が居るわけないではないか。
ジャックは今頃、街中を探し回っているに違いない。
申し訳なさと恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
急いで喫茶店に戻らないと。
「親切な保安官さん、教えてくださって本当にありがとうございます」
礼を言って正面から男の顔を見た。
よく見ると随分と若い。私と然程変わらない、二十歳にとどいているかどうかといった青年で、子供のような笑みが特徴的だった。
「いえいえ、このくらい当然ですよ」
「本当に助かりました。この御礼は後日必ずしますので」
ケーキでも作ってオフィスに差し入れしようかなどと思案しながら、急いで立ち去ろうとしたところで待ったをかけられた。
「あー、礼でしたら今ここでちょっとした捜査に御協力お願いできますか?
すぐ終わることなので」
「本当にすぐ終わるのでしたら、喜んで」
「ああ、よかった。では帽子を脱いでいただけませんか?」
……………………………え?
この男は今なんて言った?……帽子を?
「帽子……ですか?」
「ええ、そうなんです。実は近頃、獣人による事件が多発していましてね。そいつは何でも帽子をかぶって獣の耳を隠し、人に紛れているとのことで念のために帽子を着用したかたには確認させてもらっているんですよ」
「………そう、ですか……」
——どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、断れる状況じゃない。逃げてしまおうか。いや、そんなことしたら逮捕されるだけだ。かと言って正体を明かそうものなら、どうなることか。
ジャックの言う通りに喫茶店で待っていればよかった。彼から忠告もされていたというのに私は本当の本当に大馬鹿者だ。
どうすれば、どうすれば、どうすれば、、、そう、そうだ、これだけ人の良い青年だ。ちゃんと訳を話して私が犯人ではないということを伝えれば、きっとわかってくれる。そうに違いない。それしか方法はない——
そうやって、縋るように、祈るように彼を見たとき。
彼の顔を覗き込んだとき。
確かに見た。
子供のような満面の笑みの中でうっすらと開かれた瞼。
そこに映る黒い黒い、闇よりも黒い純黒の瞳。
その瞳だけが全く笑っていないのを。
「ミラちゃーん!……ぜぇ……ぜぇ…………ようやく見つけた」
唐突の外部からの声を受けて静寂から現実に帰る。時間にして僅か数秒の、しかし永遠にも思えた沈黙に、全身から冷や汗が吹き出し、勝手に呼吸は荒くなる。なんとか落ち着かせて見れば、ジャックが向かいの通りから駆けてきていた。
「ぜぇ……ぜぇ………店で待っててって言ったでしょ………あれ、どちら様?」
ジャックの視線は私と向かい合わせに立っている青年に向けられる。
「あはは、捜査に御協力してもらっていたんですけど、ヒル氏のご友人を疑うなど失礼にもほどがありましたね。やっぱりさっきのはなかったことで」
彼は屈託のない笑顔でそう言った。
「…….何かあったのかい?」
青年に聞こえないように小さな声でジャックは話しかけてきた。身を案じてくれたこと、図らずとも助けてくれたことを心の中で感謝する。
「いえ………なにも……」
けれど答えることは出来なかった。きっと彼はこのことを知れば今すぐにでも移住させようとするだろう。
そんなわけにはいかない。こんなことで七年過ごした土地を離れるわけにはいかないし、何よりジェームズは怪我をしている。彼に肉体面でも金銭面でも、これ以上の負担は掛けたくなかった。
「そうか……ならいいんだ。僕は今すぐ宿で荷物を纏めないといけないから、医者の予定は歩きながら話そう。ついでに興味深い話もあるからね」
そう言って彼はすたすたと歩き出す。彼のこういうところに感謝したことなんて初めてかもしれない。
「ミラさん、ですか良い名前ですね」
青年に一礼して逃げるように立ち去ろうとしたところで再び呼び止められた。
恐る恐る振り返ると青年は私と同じように一礼した。
「エバン・ホリンズです。新任の若輩者ですがどうぞお見知り置きを」
やはり、どうしようもなく子供のように。しかし、一つのシワのズレすらない先程から寸分違わぬ、機械じみた笑顔だった。