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狂った獣

 気づけば、眼前に()()は在った。体は竦み、視線はピタリと固定され、脳は全力で警告を発する。


 ——逃げろ、逃げろ、まだ此方に気づいていない。今ならまだ間に合う。体を動かせ。背を向けて走れ。さもないと其れはお前(わたし)を破滅させるぞ。走れ、走れ、走れ、走れ、走れ!


 でもそんなことしたって無意味だ。例え、ここで逃げきれたところで何になるというんだ。とっくの昔に既に手遅れだったというのに。

 其れは気配に気づいたようで、俊敏な動きで此方を向いた。

 恐怖で足は震え、だというのに何故か、綺麗だと思った。それほどまでに其れは———




 ◇




 ……まだ夜中なのだろうか。雨が降っているらしく、煩わしい雑音が聴こえてくる。空気が冷たく、なのに正反対に体は汗で火照って、ぐっしょりとしている。

 何か夢を見ていたような気がするが、忘れてしまった。とても大切なことだったような気がするのだが。


 何故か体は震え、理由もわからず溢れた嗚咽は雨音に打ち消された。

 今眠るのは、少しだけ怖いから、このまま朝を待つことにしよう。






 泣いた人狼 狂った獣






 二日程続いた大雨が止んだので、街に買いに出ることにした。食料はまだあったが、またいつ降ってくるかもわからない。何事もやれるうちにやっておくべきだろう。

 支度を整えて、忘れずに帽子を深くかぶる。

 帽子は、獣人が北部の街で暮らすためには必要不可欠なものだ。

 人は獣人と聞けば、二本足で立つ毛むくじゃらの怪物を思い浮かべるらしいが、そんな奴は実際には全体の一割程度だ。殆どの獣人は獣特有の耳と尻尾を除けば人と大して変わらない。

 だから、それを隠してしまえば獣人が少ない北部ならバレることはまずない。というのがジェームズの言葉。

 普通に暮らすだけなのに何故、脱獄囚みたいな真似をしなくてはならないのかと文句を言ったこともあったが、ジェームズに一喝された。

 北部の人々の獣人への差別意識は寧ろ南部より高く、正体がバレればどうなるか分かったものではないらしい。

 彼らが内戦勝利時に獣人を解放させたのは同情からではなく、奴隷制という前時代的な制度が他国との付き合いで邪魔になったのと、戦争する上での「正義の北」というイメージ作りに利用されただけだという。

 正直そんなことはどうでもよかったのだけど、ジェームズを怒らせるのは気が引けたので帽子だけは絶対に忘れまいと心に誓った。2M近い大男が怒るのは物凄い迫力で怖かったというのも少なからずあったけれど。




 ◇




 街は馬で二時間程行った所にある。出来てから然程年月の経っていない新興の街にしては大きく、近いうちに線路が開通するだけのことはある。市場は二日ぶりの晴天ということもあってか活気に満ちていた。


「ミラ嬢ちゃんは今日も美人さんだな。おじさん一個おまけしとくよ」

「いつもありがとうございます」


 果物屋のおじさんはいつも気前がいい。日に焼け、良い具合に皺の入った笑顔は彼の人柄をよく表していている。

 この街に来たばかりの頃、使いに出され、迷っていた私に市場を案内してくれたのも彼だった。以来買いに出るたびに必ず、ここに寄っている。彼の働きぶりは此方にも元気を分けてくれるような、そんな気がする。


「あら、ミラちゃん。今日もシモンズさん来てないの?」

「もう痛みは無いらしいんですけど、今馬に乗ったら間違いなく再発する。だそうです」

「あらあら可哀想に。ちょっとおまけしてあげるから、元気が出るの作ってあげなさいよ」

「わざわざすみません」


 八百屋のお姉さんは最近、代変わりして店主になったばかりの新米だが美人で気配りのできる人ということであっという間に市場の人気者になった。

 スラリとした長身と大人っぽい微笑は同じ女でもどきりとしてしまうほどだ。


 そんな具合に市を回って買い物をすませると、袋は今にも落としそうなくらいに一杯で、素早く馬の元に戻る。

 ジャックは街で一番大きい宿に泊まっているらしいが、訪ねるのは面倒なのでやめておいた。

 そういえば、忠告した割にはいつも通りだったではないか。当てにならない人だ。

 まだ空は青く晴れ渡っていて、暖かい風が優しく頬を撫でた。

 今日は陽が落ちるより先に帰れそうだ。なんとも気分が良く、鼻歌交じりに街を後にした。




 ◇




 山麓に戻ると丁度夕刻で、遠くにぽつんと橙色に照らされた我が家が見えた。

 ジェームズが買い取って修理させた少し古めの屋敷は、玄関の隣がバルコニーになっている。暖かくなると椅子に腰掛けて風を感じながら私の帰りを待ってくれる彼の特等席だった。

 今日も待ってくれているのだろうかと上機嫌のままでいると、鋭敏な耳が遠くからくぐもった声を聞き取った。微かな音にもう一度耳をすませる。

 これは……悲鳴?


「ジェームズ?」


 呟くと同時にカイネを全力で疾駆させた。近づくにつれ、はっきりと聞こえてくる。明らかにジェームズの声だ。なにか叫んでいる。


「疾く!疾く!」


 カイネも主人の悲鳴を聞き取ったのか、声に合わせて更に加速する。

 ようやく目視できる距離になったとき、思わず悲鳴をあげた。

 木製のバルコニーは無残に破壊され、ジェームズはその下の地面に転がって灰色の何かに襲われている。

 あれは、、、狼だ!

 かなり大きい、一Mはあるだろうか。

 巨大な爪でジェームズの服を引き裂こうとしている。


「ジェームズ!」


 そこにカイネに乗って割り込む。ジェームズが下にうずくまっていたが、カイネなら主人を避けて狼を攻撃してくれると確信していた。

 その通りにカイネは主人を守るように狼の前に立ちはだかり、狼は驚いた様子で距離を取った。


「ジェームズ!大丈夫ですかジェームズ!」


 急いで馬を降りて、主人を抱きかかえる。


「酷い…」


 服はボロボロになっていて顔も引っ掻かれたのか切り傷だらけだ。脚には噛まれた跡があって血塗れになっている。


「……ミラ、か?」


 意識はあるらしく、ほっと息をつくと

 後ろから唸り声が聞こえた。見ればカイネの前で狼が間合いをはかっている。

 怒りがカッと湧いた。ジェームズをこんな目に合わせた狼が憎くて憎くて仕方がない。


「カイネ、貴方のご主人様を守ってあげて」


 そう言って狼の前に立ちはだかる。砕けたバルコニーの木片を拾って槍のように構えた。碌な武器がないのでこれでどうにかするしかない。


 狼と睨み合った所で違和感を覚えた。私は獣人だ、それも狼の。

 犬や狼には人並みの知能や理性はないから人のような会話はできないが、なにを考えているかの意思疎通くらいはできる。なのに目の前の狼は狂ったように唸るばかり、瞳孔は開きっぱなしで牙をむき出しにして、ポタポタと涎を垂らしている。


 ———と瞬間、勢いよく狼が飛びかかってきた。すかさず木片で牙をガードするが重みに耐えきれず、仰向けに倒れてしまう。馬乗りされるような格好になると、狼はその牙で私の首元を噛み切ろうと襲いかかってきた。

 それを木片を咥えさせる形でなんとか防ぐと、狼は噛み付いたままギロリと此方を睨み爪で身体中を引っ掻き始めた。

 肌はドレスごと爪に切り裂かれて、堪えきれずに悲鳴が漏れる。けれど抵抗はできない。少しでも動けば牙の餌食にされてしまう。

 じっと耐えていると爪は止まり、代わりに木片がミシリと嫌な音を立て始めた。狼が噛み砕こうとしているのだ。狼の涎が木片を伝ってポタポタと顔に垂れてくる。もういつ折れてもおかしくない。


「———ッ!!!」


 木片が砕けると同時に思い切り脚をあげ狼を蹴り上げた。視覚外からの攻撃をモロに食らった狼はバランスを崩して転がり落ちる。

 その好機を逃さず起き上がり、素早く狼の首元を掴む。絞め殺そうとするが私の手には狼の首は大きすぎて、噛みつかれないように押さえておくので精一杯だ。

 狼は抜け出そうと暴れまわり、抑えている腕が爪に裂かれる。灼けるような痛みを懸命に堪え、散らばっている木片を適当に手に取ると、先程狼に噛み砕かれたそれはうまい具合に先が尖っていた。


「あぁぁぁぁぁぁ!!!!!」


 それを思い切り狼の首に突き立てる。一度では抵抗はおさまらず、何度も何度も何度も何度も、血が吹き出ても尚続け、やがて狼は断末魔の叫びを上げると息耐えた。



 ◇



 糸が切れた人形のように動くなったそれを某と見下ろす。視界の端に映る腰まで伸びた髪は重力に従って垂れ下がり、返り血で朱く染め上がっている。狼の喉元に突き刺さったままの木片は、血を吸って育つ生け花みたいだ。


 ……私が殺した。身体中傷だらけだったけれど、その事実を受け止めるほうが痛かった。気が遠くなりそうだ。

 仕方なかったとわかっていても罪悪感に身震いし、けれど立ち上がる。

 今はジェームズを助けるのが先だ。急いで止血しないと……



 ◇



 血に染まった花畑。その中心に佇む妙齢の女性。盲目の初老の男はその眺めを知ることはなく、彼女も自身のことなど見るべくもない。

 夕焼けに染まった彼女の口元が小さく笑っているのを馬だけが見ていた。

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