辺境の一幕(後)
「そうそう、さっきの話の続きなんだけどね」
食事を終えた頃には昼も下がりどきで、春らしい陽気が包み込むように体を暖めてくれる。ミラが淹れてくれた少しばかり熱すぎる珈琲を冷ましながら飲んで一息つくと、ジャックは思い出したとばかりに切り出した。
「国が獣人の公民権法を成立させたよ。これで獣人は公的な場での平等な権利が認められ、法的義務からの除外を禁じられるようになる。
法律上では、人と獣人の間には何の格差もなくなったというわけさ」
「本当か!?」
思わぬ知らせに声が少しうわずってしまう
「けど、やはり劇的な変化は見られないだろうね。今までも彼らを守る法は制定されてきたけど、どれも根本の差別そのものには何の役にも立たなかった。獣人相手への犯罪行為は減ってるから効果自体はちゃんとあるんだけど」
「それでもたいしたものだろ。大体、国民全ての思想を変えるなんて神様でもなけりゃできはしないんだ。お国はよくやってくれてるさ」
そうなんだけどね、と話を切り上げるとジャックはわかりやすく音を立ててカップを机に置いた。もう飲み干したらしい。
「さてと、僕はこれでお暇させてもらうよ。伝えるべきことは伝えたしね」
「なんだよもう行くのか。せっかちなやつだな、泊まっていってもいいんだぞ」
「気持ちだけ受け取っておくよ。実はこっちに来たのは仕事の都合でね。明日は朝から会議だから、早めに戻らないと。暫くはまた忙しくなるけど一ヶ月もすれば終わる予定だから、そしたらまた訪ねさせてもらうよ」
「………それなら仕方ないか」
「あと、この時間ならアマンダに会いに行く余裕もあるしね」
そいつはいい、あの人も喜ぶことだろう。
泣いた人狼 辺境の一幕(後)
馬に乗って路を行く。山麓に申し訳程度に整備された曲がりくねった路は、なんとなく蛇に似ている。
一面に広がる野原に疎らに覆いかぶさった残雪を横目に暫く進むと細い小川があって、馬なら充分にまたぎ越えられるそれの向こうには、同じような路が見える。
それを無視して小川を辿るように草原の中へ。
水筋に沿って道無き道を行くと、上流に続いているらしい山岳の右手に小山があって、その下で馬を止めた。
「わざわざ案内してもらって悪いね。ミラちゃん」
「いえ、ジェームズの頼みなので」
億劫な返事も意に介さないようで、あははとジャックは笑って受け流す。
ジェームズは腰痛で馬に乗れないので留守番している。
カイネとリドハルドを手頃な木に繋ぐと、山道を登る。
「反対側は崖になってるので気をつけてくださいね」
先を行くジャックに忠告すると、彼は途中にちらほらとなっているブルーベリーを口にほうりながら、手をひらひらとふって了承の意を示した。
五分程歩くと開けた場所に出た。そこから麓の景色が一望できる。
既に夕暮れ時、落陽が茜色に山麓を染め上げていた。
その眺めに少し浸ってから足下を見れば、この自然の中に不似合いな人工の大きな石が立ててある。
其処に彼女はいた。
「暫くぶりだね、アマンダ」
物言わぬ墓石に、愉しげな声で話しかけるジャック。
けれど、その顔はどこか哀しげで。
それはまるで真冬の一面の雪の中、無理矢理に顔を出した青葉のように歪だった。
◇
アマンダ・ミラーは言うなれば私の先輩にあたる女性だった。内戦時に夫と子供を亡くし、路頭に迷っていたところをジェームズに雇われたという。三年前に老衰で亡くなるまで使用人として働き続けた。
ジェームズやジャックと同じ、差別意識を持たない珍しい人間で、拾われて直後の死にかけだった私を看病してくれた命の恩人だ。使用人に必要な家事のスキルや、生きるのに大事な読み書きなどの知識を教えてくれた先生でもある。
だというのに出会った当初の私の彼女への印象はあまり良くなかった。
なにしろ真面目で、どこまでも厳しい人だった。体力が回復してすぐにスパルタ教育が始まると、あるときは徹夜で勉強させられ、あるときは合格点を貰えるまで永遠に料理を作らせられ、あるときは練習用の食費が勿体ないと食材調達のために森に放り込まれたこともあった。
ジェームズが家を買い、ジャックと別れ旅が終わると遠慮する必要がなくなったと教育は更に凄味を増した。あんまりに厳しいので白髪の混じったしわくちゃのしかめっ面を見るのも嫌になって、ジェームズの元に逃げることも少なくなかった。今思うと飴と鞭の役割を上手く分担していたのだと思う。不満はあったがおかげでここまで成長できた。
アマンダはブルーベリーパイが得意料理で、この小山によく一緒に取りに行った。見晴らしのいいこの場所に来ると、普段はしかめっ面の彼女が景色を見つめて嫋やかに、優しく微笑むのがとても印象的だった。
年月が経つのは早いもので、いつからか彼女は白髪が増えた。起きるのが遅くなり、ついには寝たきりになった。日に日に弱っていくアマンダを見るのは本当に辛くて、けれど当の本人はどこか満足気だった。
ジェームズはアマンダに亡くなった後、旦那と息子が眠る南部の地に墓を建てようと提案したが、彼女は断った。代わりに彼女が埋めてほしいと願ったのが、この小山だ。
「今更南部に戻ったところで、戦争で遺体すら戻らなかった二人を見つけることはできないでしょう。
でも……あれだけ美しい眺めですもの。あそこで待っていれば、いつか二人が訪ねてきてくれる。そんな気がするんです」
そう言った彼女は、いつかのように優しく微笑んでいた。
◇
「アマンダは二人に会えたんでしょうか」
ふと浮かんだ疑問を口に出す。
独り言のつもりが思ったより大きな声を出してしまったらしい。墓参を終えたジャックが、どうだろうねと呟いた。
「僕は死んだことがないからわからないけど、多分会えたんじゃないかな。だってこんなに遠くまで見えるんだから、たとえ二人がわからなくてもアマンダは直ぐに見つけてしまうだろうさ」
その問いに答えは出ず、けれど温かい言葉に口元は緩む。そうだといいなと心の底からそう思った。
◇
―――彼女の死は、いつか来る終わりを教えてくれた。それは怖くて、怖くて、いつか味わった死の感覚など茶番に思えるほどに暗く、深い。初めて知る恐怖はとても冷たく、耐え切れずに身体は震える。
親鳥を失った雛鳥は巣の中で孤独に死に絶えるのか、それとも生きようと空へ羽ばたくのか。
ジェームズを失ったとき、私は一体どうなってしまうのだろうか―――
◇
来た道を戻って路に戻る頃には、あたりは暗くなり始めていた。
「じゃあ、僕はこれで失礼するけど最後に忠告しておくよ」
「忠告?」
「そう、心配性のジェームズには言わなかったけど下の街はどうも少し様子がおかしい。獣人排除の動きが活発になってるように思える。多分、人優越主義者の連中の仕業だろう。次来るまでには調べておくから、街へ降りるときは最新の注意を払って——」
「帽子を忘れずに、でしょう?わかってますよ。それくらい」
間髪入れずにジャックの言葉を口に出したところで違和感を感じて顔をしかめた。
今気づいたが私は彼と二人きりなら、こんなにも普通に喋れるものなのか。そういえば、彼の方もいつもの様な茶々は入れてこない。きっと、私の空気が変わったのに気づいていたんだろう。
思わぬ発見に主人への想いを再確認させられ、思わず顔は赤面する。
幸いにも、この暗がりのおかげで顔の微妙な変化には気づかなかったようで、ジャックはならいいんだとだけ返すと手を振って小川を越えて去って行った。
此方も帰路につこう。家に着くまでには、この顔の熱も収まっている筈だ。
次から本題に入ります