三枚のお札。一枚は鬼札。一枚は白札。もう一枚は。
三枚のお札。一枚は鬼札。一枚は白札。もう一枚は。
昔。今は深見と呼ばれる地方に、お寺さんがあったそうな。山の深いところでな。何かあれば、村人たちはそこの和尚さんを頼っておったんじゃ。あんまり山奥じゃったんで、役人もめったには来てくれんかったでな。
そんな和尚さんも、もういい年じゃ。そろそろ次の住職を構えな、村の人も困るじゃろうなあ。そう思いよったぞな。
すると、ある日、旅人が訪ねて来たそうな。細面の優男。とても旅の辛苦に耐えられそうな体には見えんかったが、聞けば和尚さんも聞いたことのないほど遠くから来たらしい。
よくよく聞けば、確かに聞き覚えのないなまりじゃった。和尚さんは徳の高いお人でな。昔、天竺に修行に行ったお坊さんのお話を聞いた人のお話を聞いておったし、弘法大師のお弟子さんのお弟子さんの友人の話も聞いたことがあった。
そんな和尚さんでも、この旅人さんのする話は知らないものが多かった。
湖に住まう大蛇。お姫様と結婚した鬼。お茶屋で昼寝をすると1年が過ぎていた話。
次から次へと途切れぬ話に、和尚さんは、もう少し泊まって行きなされ、もう少し泊まって行きなされ、と引き止め、旅人も急ぎの旅ではないので、それではお言葉に甘えて、とゆっくりしていったそうな。
旅人が来たのは春の暖かな季節。
じゃが、寺の外には、もう雪が積もっておってな。
「こんな中で出立することもあるまい。春まで待ちなされ」
「それではお言葉に甘えて」
とうとう、旅人は、春になっても、寺におったそうな。
そしてお坊さんになったんじゃと。
行くあてもない天涯孤独。和尚さんに誘われて、その優しさにほだされて、寺の坊主になったんじゃと。
坊主になった旅人は、最初は小僧から始めるんよ。誰もがそう。初めは小僧さんからよ。
和尚さんより背の高い小僧さんは、最初は村の人から色々(いろいろ)と言われちょったと。財産狙いじゃないか。いやいや、狐じゃないか。
だってこんな山奥に好き好んで来る物好きなんて。よっぽどの酔狂じゃないと。そう噂されちょったと。
けんど、小僧さんはよう働いた。毎日のお勤めをちゃんとこなして、村を見て回って、修繕の要りそうなもんは、なんでも直して回ったと。そこは元旅人。器用なもんじゃった。
そんでまた春が来て、秋になって。
和尚さんのお寺じゃあ、栗ご飯の良い匂いがしよったと。
「今年は小僧さんのおかげで、畑も大きくなった。食べるもんも、ようけ出来た。みんなあ、あんたのおかげじゃ」
「いえいえ。しかし、タヌキには困ったもんです。大根も芋も掘り返されて」
「山ん中には山姥がおる。タヌキも人里の方がましなんじゃろうなあ」
「山姥がおるがですか」
これには小僧さんも驚いたと。和尚さんと一緒に薪拾いで何度も山に入っておったに。そんな話は一度も聞いたことがなかったけのう。
「おる!・・・らしい」
「和尚さんは、見てないんですね」
「見ちょったら、ここにはおらんよ」
笑いながら、和尚さんは話してくれた。
山姥は、ずっと昔からここいらに住まう妖魔。和尚さんのお師匠さんのお師匠さんの頃には、もうおったと。
その時分は、落ち武者狩りも多かった。今とは違う、戦乱の世の中じゃった。じゃけ、山姥もその落ち武者が伝説化されたもんじゃろう、と和尚さんのお師匠さんも言いよった。中には女人もおったろうし。家族連れて逃げた人もおったろう。辛い時代じゃったんじゃ。
でも和尚さんの代になっても、なお山姥を見たちう声は止まんかった。
もしも何代も何代も落ち武者がおるんやったら、彼らはもっと大きな勢力になっちょらんと、おかしい。それこそ、こんな小さな村ぐらいは簡単に占領出来てしまう、そんな豪族になっちょらんと。
やけえ、和尚さんも思うたがよ。
ひょっとして、山姥は本当におるんじゃなかろうかと。
「なぁるほど」
「本当のところは分からん。けんどまあ、山は山。それだけで危ないところじゃ」
確かに。これまでの旅でも山崩れのあった道を見て来た小僧さんには、よく分かりました。
これで話はおしまい。
何事もなかったように秋は深まり。
小僧さんは、己の身の内に住まうモノに気が付きました。
「和尚さん」
「はいはい」
「私は、山姥に会ってみたいと思います」
「なんと」
和尚さんはたまげました。小僧さんは、考えなしでは決してありません。
けれど、そんな小僧さんの口から出た言葉は、和尚さんをたっぷり驚かせました。
「なんでまたそんな」
「会いたいのです」
小僧さんは、目をキラキラさせて言いました。
そうです。
小僧さんは目的のない旅人ではありませんでした。
目的に会うために来た旅人でした。
「し、しかし。危ないぞな・・・」
「百も承知。和尚さんには大変お世話になりました。せめて、行く前にはお礼を申し上げたかった。よう、ここにおいてくれました。ありがとうございました」
小僧さんは、ちゃんと頭を下げて和尚さんにお礼を言いました。
「そんなこたあ、どうでもええけんど」
言いつつ。和尚さんは、小僧さんの瞳の輝きを認めました。
小僧さんは、完全な本気でした。
「・・・・・はあ」
和尚さんは、諦めました。危険。危地。それでも行くのであれば、仕方ないですね。
「持っていきなされ」
「これは?」
和尚さんが机の中から出したのは、三枚のお札。お守りでしょうか。
「いざという時に使いなされ。お守りじゃて」
「ありがとうございます」
封筒に入れられた三枚のお守りを、小僧さんは大事に懐にしまいました。
「では」
「山姥に会ったなら、迷わず逃げなされ」
「はい」
その返答は嘘。小僧さんは和尚さんを安心させるために嘘をつき、和尚さんもその嘘を受け止めました。
旅装束に着替え、杖を持ち。
深山に分け入りました。
イガグリだ。もし帰れるなら、持ち帰ろう。
そこは人の入らぬ奥山。山にはキノコも栗もなんでもありました。
しかしこれだけあるなら、山姥が里に降りる必要もないような。そんな気もしました。
なにせ山には猿も居ます。もうじき熟す柿を取ろうか取るまいか悩んでいたような顔を振り向かせ、小僧さんを見送っていました。
山の動物が飢えもせず生きている。食べ物が豊富にある。
もし、山姥が、実在したのだとしても。これだけ食べ物があるのなら、ここに居るだけで腹いっぱい食える。
なのに人が取った様子がない。ここいらに、人が足を踏み入れた形跡がない。
やはり山姥など、もう、おりはせんのだろうか。
ケガをせぬようゆっくりと歩き、キジやヤマバトを見ては、鍋も良いなあと考えながら。
いつしか日はとっぷりと暮れておった。
さて。山姥に会うは良いが、その前に死んでは元も子もない。どこかで野宿でもせにゃ。
小僧さんがそう思って、薪になりそうな枝葉を集め始め、ふと顔を上げると、家がありました。
ここはお寺からはるか離れた山奥です。こんなところに家が。
もしや、別の村の人でしょうか。それとも落ち武者の家系でしょうか。
それとも。
・・・なんにせよ、野宿よりは良かろう。
そう思って、小僧さんはその家を訪ねました。
コンコン
「もし。もし」
木戸を叩き、家人を呼びます。怪しげな者が出て来れば、すぐさま逃げ出すつもりで。
「はいはい」
女の声。もし自分が家主なら、確かに女性に戸を開けさせ、男に武器を持たせるでしょう。笑顔を作りながら、まだ警戒心は解きません。
「あれまあ。こんな夜更けに、よう来たのう。姉の使いじゃゆうて、頑張りすぎちゃあせんか?」
「いえ。お姉さんのお使いではありません。旅の者です」
「あれ、知らん人かい。で、どうしたんじゃ。こんな時間に」
迎えてくれたのは、まだ年若い女性でした。とても山姥という年ではありません。
これは本当に、よその里に迷い込んでしまったのでしょう。
「私は旅の者です。今晩、野宿をしようと決めていたのですが、こちらの明かりが見えたものですから。良ければ、一晩おせっかいになろうかと」
「ありゃあ。まあ放っておくわけにもいかん。さあ、火にあたりなされ」
「ありがとうございます」
どうやら小僧さん、屋根の下で寝られるようです。
家はあばら家と言っても良い風情で、あちらこちらにガタが来ていました。昔は障子を張っていたであろう縁側との境の戸も、穴だらけです。
しかし。小僧さんは草履を脱ぎながら、ある違和感を感じていました。
広い。
仮に娘っ子の家族が居たとしても、やたら広い。草履が10は軽く横に並ぶほど。
台所は普通。お寺さんとも変わらない、2つのかまど。米と汁を炊くかまどです。ここが豪族の家なら、もう少しかまどが必要な気がします。
土間にはわらじが1つ。水を飲ませてもらったさいに見た茶碗も1つ。どうも今は、この娘さん1人のようです。
こうなると、少し申し訳ない旅人さんです。山姥見物にいざ!と気勢を上げたは良いものの、一人暮らしの女性にご厄介になるとは。せめて明日の朝、キノコや栗でも持って来て、恩返しとしましょう。
ぴゅうぴゅう吹きすさぶ寒風にあたっていたので、囲炉裏のそばは天国かと思えるほどに温かった。足をもみほぐし、一日の疲れをいやしていると、娘さんが晩飯の支度をしてくれたと。
「ごちそうもないけんど、許してよ」
「めっそうもない。こちらこそ手土産も用意せんで。こうして火にあたれるだけで、幸せですよ」
「火ぃなんぞいくらでもあたったらええ。ささ、食いなせ」
そう言って、娘さんが差し出してくれたのは、なんと魚でした。もちろん、干し魚。ですが、干し魚であってもここいらでは貴重なものなのです。
小僧さんは今までの旅の途中、浜の村にも立ち寄ったことがあります。しかしこんなに立派な魚は、見たこともありません。
もしや。この山を越えると海に出るのでしょうか?そんな話は和尚さんからは聞いておりませんが。
魚の焼ける良い匂いをかぎながら、娘さんのよそってくれた白飯を食べます。これも美味しい。
「あんたはいける口かね?」
お酒も出て来ました。おちょこはなく、ひょうたんごと渡されましたが。
小僧さんは、五分五分と見ました。
彼女が山姥であるかどうか。
自分を襲うつもりであっても、酒や白飯まで出すのは、いくらなんでももったいない。そこまでせず、とっとと襲えば良いものを。
これなら、常識のない、人好きな金持ちの方がよっぽどありそうです。
「ささ。出来たぞな」
「こりゃどうも」
良い気持ちで、娘さんがほぐしてくれた魚を食べます。一尾を仲良くはんぶんこです。
「美味い!」
「そうかい」
小僧さんの上げた声に、娘さんもにっこり笑って、美味しそうに魚を食べておりました。
娘さんのすすめてくれるひょうたんを、2人で2つも開けた頃。小僧さんは酔ったふりをしながら、聞いてみました。
「あんたは、なんでこんな寂しいところに住んでおるのかね。山を降りれば、友達も出来ように」
そうです。家族も居ない一人暮らしでは、話し相手もおりません。夜は寝るだけです。何が楽しくてこんな場所に。
相手を山姥と疑っているとは、つゆほども感じさせず、小僧さんは問うてみました。
「そうじゃのう。わしゃあ、生まれは海の方よ。やけえ、海で育って、魚や貝を食べて生きておった。けんどいつしか山に追われての。家族とも離れ離れよ。けんど、お姉らが牛やら魚やら持って来てくれる。やけえ、わしは何もせんでも生きていけるがよ。いつか、皆で一緒に暮らしたいとは思うちょるが」
「ほほう。いつかそうなったら良いのう」
「うむ」
小僧さんは、娘さんがひょうたんを一息に飲み干すのを見て、これはただの娘さんではないぞ、と感じました。
あるいは、家族の誰かが山姥でしょうか。娘さんはそれを知らぬだけ、とか。
あとは寝るだけ、となった時、小僧さんは布団を貸してもらいました。お姉さんの使っているものだそうです。
手足が全く出ない。大きなお布団。大柄なお人じゃ。
これは。本当の本当に。
小僧さんは背筋をゾクリとさせながら。
笑んでおった。
囲炉裏の火も燃え尽き、フクロウとオオカミの鳴き声を聞くだけの夜。
もう2人ほど、声が増えました。
「帰ったぞ。帰ったぞ。牛飼い美味かろ、牛美味かろ。牛飼い美味かろ、牛美味かろ」
「帰ったぞ。帰ったぞ。漁師美味かろ、魚美味かろ。漁師美味かろ、魚美味かろ」
ずっと遠くの方から聞こえて来た陽気な歌声が、小僧さんを否応なく目覚めさせます。
小僧さんの虫の知らせは最大限に鳴り響き、死の危険を最高に感じました。
慌てず布団を綺麗にたたみ、窓口に張り付きます。間合いが命です。表戸が開く瞬間を見計らって、窓を乗り越えねばなりません。幸い、窓は大きく、明かりや風が入り込みやすくなっています。小僧さんの男性らしい体格でも、簡単に出られます。
グシャリ、グシャリ
家の中からでも、落ち葉がきいきい悲鳴を上げているのが聞こえます。とてつもなく大きな、とんでもなく重い生き物が歩いているのが、分かります。
ドガンッ!
無茶な音を立てて戸口が開きます。そしてその瞬間。
キイ
小さな音を立てて窓を開き、小僧さんは外に出ました。
「帰ったぞ!寝ておるんか?」
「寝ておる寝ておる。可愛いややは寝ておる」
小僧さんは身をかがめ、己を闇に溶け込ませました。囲炉裏を囲むであろうあちらは光の中。こちらは見えにくくなるはずです。
そして小僧さんは、家のあちこちにある破れ目のうち、居間を見やすい場所を陣取りました。外は寒くて、温いお布団から抜け出たのでなおさら、肌を突き刺すように冷たいものでした。
ですが、この機会は逃せません。
さあ、山姥。
どんな顔してなさる。
囲炉裏の灰を手でかき回し、火をおこす。帰る最中に拾ったのか、木の小枝をくべ、そして大きな枝を乗せる。
その腕の太いこと。小僧さんの胴回りよりなお大きく見えます。
「ややは魚ぁ、焼いて食べたな。ちゃんとあぶれたろうか」
「ちゃんとあぶれたとも。ややは賢い子じゃけえ」
魚のことを気にしているのが、よく日に焼けた赤銅色の女性。頭髪はざんばらに流しておるが、潮風で固まっているのか、岩にも見える。小僧さんが昔見かけた、相撲取りを二回り大きく強くしたら、こうなるか。
その日焼け女をなだめている、落ち着いた女は、肌の色が白かった。夜闇の中では、さぞ目立つだろう。まるで雪女のようだ。が、その腕も顔つきも硬そう。大きさでは比べ物にならぬはずの日焼け女を御しているのも、気にかかる。
「ごちそうは、ややが起きてからじゃな。わしらは芋でも焼いて食おう」
「おう。わしは縄を結いよるわい」
1人が芋を焼き、もう1人が縄を編み始めました。
あぶられる芋の美味そうな匂いよりなにより、小僧さんにとってはその温もりが羨ましかったものです。
それより、白い方の山姥の縄結いの速度が、小僧さんの目を奪いました。
速い。指先が見えない。まるでわらをこするようにして編み込まれる縄はものの数秒で1つ、完成していく。
体が寒さが固まっていても、その指の動きだけは、熱く見つめていました。
大きい方が水を飲みに台所に向かい、囲炉裏のそばは白い方だけになりました。
寒いな、と思いつつ、小僧さんは山姥たちの寝るのを待っています。流石に、今動く勇気はありません。
「のう」
「なんじゃ」
台所の方から、つまり玄関の方から白い方へ声がかかります。
「ややに新しい草履をあげたんか?」
「いんや?」
「草履が3つあるんじゃが」
・・・・!!
「そりゃあ3つあるじゃろ。わしとお前とやや。ちょうど3つじゃ」
「そうか。確かにの」
この会話に、しかし小僧さんは全く安堵していませんでした。
見付かるは、時間の問題。
こっそりと。足音を立てずにその場を去ります。幸いな事に月明かりも無い夜。こちらはずっと暗闇の中に居て、多少の夜目が利きます。
和尚さんに言われた通り、山姥を見たのでとっとと帰りましょう。
「のう」
「なんじゃ」
小僧さんが去った後も、2人の会話は続いておりました。
「ややの洗った茶碗が、2つあるんじゃが」
「・・・2つ。か」
「栗でもむいたんじゃろか」
「ややは栗の皮を集めたりはせん。囲炉裏に放れば良いんじゃ」
「なら・・・客かのう」
「そうじゃのう・・・。草履を、見ようか」
裸足で駆ける山は、決して冷たいものではありませんでした。
痛みで、むしろ熱いくらいです。
しかし。真っ暗闇の中ではおよその方向しか分かりません。お寺のある山は見えています。向かいの山です。
問題は、そこへ行く道がどこにあるのか。山姥の家まで来た道を、そのままたどれれば簡単に帰り付けるのですが。
イガグリを踏まぬことだけを祈りつつ、小僧さんは息を切らして走ります。山を転がり落ちるのではないか、という勢いで足を動かし、腕を振ります。
「どこじゃあああああ!!!」
小僧さんは、突如山間を引き裂くようにして発せられた大声にも立ち止まらず、ひた走りました。
「・・・向こうじゃ!」
こちらの冷たい方の声は小僧さんには届きませんでした。ですが、発した方の白い女は、遠く姿形も見えないはずの小僧さんの位置を正確に把握しているようです。
それが証拠に、2人はぐんぐんと小僧さんの居る方へと走り来るではありませんか。
「待てえええええい!!」
「待てええええええ!!」
速い!山姥の走る速さは、男性の小僧さんを遥かに超えていました。一足飛びに林を突き抜けるような、ものすごい勢いです。
こりゃあ捕まったら、ただでは済まんのう。小僧さんはこの世のものとは思えぬ現実に、嬉々(きき)としながら、走り続けます。
もはや痛みを感じていない足裏。両腕も感覚がなくなるまで振っています。肺腑に染み渡る空気の冷たさだけが、小僧さんの正気をつなぎとめているものでした。
楽しい。山姥との鬼ごっこは、ほんまに楽しい。
生きていた甲斐があった。
目を笑みに細めながら。
小僧さんは夜の追いかけっこを楽しんでおりました。
バキイ!
小僧さんのすぐ後ろで、木の倒れる音が聞こえました。それも聞き覚えのない倒れ方で。
来た!
「さて!」
和尚さんからもらった三枚のお札。使うべき時があるのなら、それは今!
さあ、どれを使う!?
「暴れるなよお!汚したら不味うなる!」
じゃあお言葉に甘えよう!
「白札さん!お願いします!」
小僧さんは懐の3枚のお札から、真っ白な、何も書かれてない札を取り出し、山姥に投げ付けました。
「なんじゃあ!?」
モチか何かと思い、日焼けした山姥は飛び来る一枚の紙片を、その太い指先で器用につまみ取りました。
カ ア
小僧さんが踵を返して逃げようとしていたら、その後ろから満月のような光が差して来ました。
白いお札とは、光のことじゃったか。そう納得した小僧さんは、とっとと逃げ出しました。
しかし。山姥はまだ動き出せませんでした。小僧さんを追おうにも、目の前には白い闇が広がるばかり。
「姉者。わしらあ、霧の中に迷い込んだがか?」
大きい山姥はそう言い、周囲の霧を引き裂こうと腕を振り回しますが、周囲はどうやっても見渡せません。
「坊主の札じゃ。小賢しい」
白い方の山姥は目を閉じ、両手を開き、周囲に意識を展開しました。
札。霧の中、水気の中にあって不動なる物。どこじゃ。
木々(きぎ)、岩石、枝葉、周囲全てを知覚の中に収めた白い山姥は、ついに見付けました。
「めい子。お前の左っかわをぶん殴れ」
「おう」
日に焼けた山姥、めい子は姉に言われるまま、己の左側へ向けて、思いっきり拳を叩き付けました。
バシィ!!
すると、霧があっという間に消えてしまいました。
「おお・・。すごいもんじゃなあ。坊主の呪いは」
「ああ。作ったのは、さぞかし徳のある坊主に違いねえ。だから逃しちゃ不味い」
「おう!!」
言うまでもなく、山姥の家に来た者を生かして帰しては、こちらが狩られる。
流石に軍勢には勝てぬ。ここで始末するより他ない。
山姥たちは、更に急いで小僧さんを追いかけました。
「はあっ・・はあっ・・」
小僧さんはついに谷を越え、お寺さんのある山に着きました。ですが、既に息は上がりきっていて、足ももつれ始めていました。
もうすぐ。もうすぐでお寺です。山姥の真価はまだ知っておりませんが、あのお札を作った和尚さんの居る場所なら、なんとかなるのではないか。そういう希望がありました。
「待てえええええい!」
またしても、山姥の声がすぐ後ろから聞こえます。お札は確かに効力を発揮してくれましたが、山姥の健脚の方が上だったようです。
こうなれば、切り札を使うしかありません。おそらくはこれで止まってくれる。・・・止まらなければ、これで終わる。
鬼札を使います。
「鬼札さんお願いします!」
真後ろに迫る、夜より冷たい気配に向けて、2枚目のお札を投げ付けました。
白い山姥はそれに取り合わず、躱し、小僧さんを捕まえようとしました。先の濃い霧もそうでしたが、術にかかると時間を食います。
その前に小僧をとっ捕まえてしまえば、何も問題ないのです。
そして山姥の指先が、小僧さんの襟首に触れようとしたその時。
山姥の腕を掴む者がありました。
「・・・行かせるわけには、いかんのう」
「・・・ほう」
白い山姥は、己の腕を捉えた鬼を見、感嘆の吐息をもらしました。
「鬼子母神殿か」
「いかにも」
仏教における神様の1人、鬼子母神がそこに現れていました。
主に子供を守る、守護神です。
「・・・仏の機嫌取りも、飽いたか?」
「さあ。な」
ギ
気付けば飛び来る、白い山姥の左の突き込みを右腕で防御。鬼子母神は右腕に残る痺れに、若い力を味わいつつ、気を抜けぬ、と意識を改めました。
「めい子。先に行けえ。わしは、このお人を止めちょく」
「姉者。大丈夫なんか。その方は、武神のお一人では」
「心配ないけ。所詮は、仮初の依代じゃ。ほんまもんは神様じゃぞ。わしの腕を握っただけでへし折るに違いない。こんな偽物に道を譲っては、山姥は生きていけんのじゃ。行けい!」
「おう!」
肌の黒い、日焼けした方の山姥の先行を、しかし鬼子母神は見逃しました。
これは白い山姥にも意外な展開です。てっきり、一歩踏み出す隙も与えられえないかと思っておりました。
ヒュ
風切り音が耳に届く前に、山姥の右足先蹴りが鬼子母神の顔面に突き抜け、額から後頭部まで甚大な衝撃を与えました。
「ほ、お。流石は神様。避けもせんか」
「恥ずかしながら。避けられんかったわ」
「嘘じゃろ」
「まことじゃ」
坊主・・・役小角の遠縁の親戚の隣近所の子孫・・・の力量では、鬼神を召喚した際の力は元の1割。呼び出せるだけでも尋常な力量ではないのだが。
目の前の山姥に及ぶ力では、なかった。
ところで、山姥の方は一切油断せず、右足先蹴りを躱された後の左後ろ回し蹴りを意識していました。しかし一撃目が的中してしまったため、相手の狙いを絞りきれず(山姥としては、鬼子母神の交差法を警戒しておりました)追撃を断念。敵の傷害のほどを推し量っておりました。
ですが、分かりません。相手は本体ではなく、分身。もしかすると痛みを感じていないのかも知れません。
分からぬ以上、しようがありません。
突破あるのみです。
コ オ
秋の山。朱の肌が、白く移り、凍ります。
ピキイ
鬼子母神を中心とした一角が完全に冬支度を済ませ、雪化粧に身を包んでいます。
そして。
「ではまた・・・」
「また、いずれ」
消えんとする鬼子母神の挨拶に、山姥も答えました。
山姥の目の前で、鬼子母神の姿は消え失せ、元のお札のみが残りました。そしてその札が地面に落ちると。
ボウッ
1個のイガグリに火がつき、美味しい匂いが漂い始めました。
「なんでじゃ?」
山姥はとりあえず栗をむいて食べてみました。
とても甘くて美味しい栗でした。こんなものは、山にいくらでも転がっているのですが。できたてだからでしょうか。
さて。鬼子母神が時間稼ぎを終わらせた頃。小僧さんは、ついにお寺に着いておりました。
最後の札を懐に忍ばせたまま、和尚さんに再会していました。
和尚さんはまだ寝ておらず、囲炉裏でモチを焼いて食べておりました。
「ど、どうしたんじゃ。そんなになって」
和尚さんはモチを焼いているのも忘れて、足をボロボロにした小僧さんの姿に驚いていました。そしてすぐに我を取り戻した和尚さん、急いで薬箱を取り出し、小僧さんの治療にかかります。
「や・・・」
口を動かすのもおっくうなほど、疲れきった小僧さんは、それでもなんとか説明しようとしました。
「山姥を、見ました。山姥に、追いかけられて、おります」
途切れ途切れの言葉でも、和尚さんには伝わりました。
「なんとまあ・・・」
本当におったんかい。たまげた和尚さんです。
びゅううう
すると、風が吹きました。強い、強い風です。まるで、山姥が走るような。
「ここかあああ!!」
バタン!!
縁側の戸が大きな音を立てて開き、巨大な影が、囲炉裏の火をかき消しました。真っ暗になった室内で、小僧さんはとりあえず和尚さんの服を引っ張って、外に出ようとします。和尚さんもその動きについて行こうとしました。
ですが、その必要はありませんでした。
「こんばんわあ」
優しい声がしました。小僧さんには聞き覚えのある声です。
ズ ウン
その声に続いて、何かとてつもなく大きなものが倒れる音がしました。
「姉やはそそっかしいんじゃ。許してくれい」
「い・・・いえ」
小僧さんは逃げようとしていた足を止めて、山姥の家の女性に答えました。和尚さんの服からも手を離して。
「ん?まだ火も暖かいの。つけようか?」
「そうじゃのう」
今度答えたのは和尚さんです。
3人は仲良く囲炉裏を囲み、火をおこし、楽しくお話しました。
外にぶっ倒れている山姥が風邪を引くのではないか?とちらりと思ったのは小僧さんだけだったそうです。
「ささ、モチ食いなせ」
「ありがとうな、和尚さん」
モチを食べる手つきも、先ほど山姥の家で見たものと同じ。小僧さんには、とても山姥の血縁とは思えませんでした。
「あなたは、ここに居てもよろしいのですか?私達を食べようとは、思わないのですか」
素直にまっすぐ聞いてみました。気になった以上、置いておくのも健康に悪いですしね。
「もぐもぐ・・・。わしゃあ、人は食わんけの。あんたもわしに銃を向けたわけじゃなし。わしのお客さんじゃけえ、姉やにも食わしとうなかったんじゃ」
「そりゃあ、見上げた娘さんじゃて」
和尚さんはご機嫌で、娘さんを褒めました。
「あの」
「なんじゃ?」
小僧さんは、熱っぽい目をして言いました。
和尚さん、実はこの時点で、次の流れを予感していました。
何度も何度も見て来た光景です。
何度見ても、良い光景です。
「私と、夫婦になってほしい」
「わしで良いんか?」
「あんたほど気立ての良い娘は、見たことがない!」
もっと言うと、こんなに心惹かれたこともありません。
ですので、とりあえず結婚を申し入れました。
「そうか。じゃあ、よろしく」
「はい!」
「これはめでたい!」
あっさりと受け入れてくれた娘さん。歓喜の声を上げる小僧さん。大喜びしながら、周囲の冷気を意識する和尚さん。
結婚したらどこで暮らそうか。そんな話をしている居間はとても暖かで、外の寒さなど気になりませんでした。
「・・・姉者?」
「帰るぞ」
大きい山姥を背負った白い山姥は、打ち壊すはずだったお寺から離れ、静かに帰って行きました。
「ややがお前を倒した。・・・いつの間にか、大きゅうなったな」
「そうかあ。強うなったなあ」
姉妹2人。山姥たちはそうっと帰って行きました。
明けて翌年。
漁師になった小僧さんは、月に1回、和尚さんへと魚を届け、奥さんとも仲良く暮らしていました。
結局、今まで通り、山姥の家に住むことに。なんだかんだ言って、あそこが奥さんが一番暮らしやすい場所でした。
そして。
「婿どの。たまには肉が食いたいと思わんか」
「そうですね。イノシシの肉を氷室から出して来ましょう」
メシをもりもり食べる大きな姉に、漁師さんが答えました。
「婿どの。たまにはクジラが食いたいと思わんか」
「そうですね。今度、大きな漁に参加しましょう」
流石にクジラは、一隻では大変です。漁師さんは白い方の姉にそう答えました。
「あんた。漁に出るんなら干し柿持ってけ。干し芋持ってけ」
「おう。お前の作ったもんは、美味いからな」
漁師さんは奥さんにそう答え、笑い合いました。
それから、とんと山姥の話は伝わらなかったそうな。山姥はどこに消えたんじゃろ。と、みんな不思議がりました。
山姥は確かに居なくなりました。
でも、皆さんは知っていますよね。
山姥は、きっと今もどこかで、美味しくご飯を食べているってことを。
三枚のお札。一枚は鬼札。一枚は白札。
もう一枚は、どこかのお家に、今も飾られているそうですよ。
「家内安全」
そう書かれ、大事にされているそうです。
めでたしめでたし。