はなさないから!
平日の学校。校長の朝礼…6時限の授業…掃除と変わり映えのしない時間は淡々と流れていた。
あれから1週間、手の傷は先生の言った通り、やや痛みは残るが生活には些かの支障もない。
放課後、俺は日直から配られたプリントにぼんやりと目を通している。
そこには今月末開催の体育祭、球技大会について記されていた。
・普通の球技大会では運動部の所属スポーツ参戦で、大半がやる前から勝敗が決まってしまい冷める。
・中間テストの後なんだし、楽しみたい。
・受験シーズン前の息抜きにも、もっと士気が上がるような思い出の行事にしてほしい。
・文化祭で出来た彼氏彼女でイベントやりたい。
…といった意見が生徒会に多数寄せられ、各運動部や先生達が協議の末、今年は男女混合イベントになった。最後に意見出したリア充自重しろ。
単に1チーム内に男女を混ぜるだけではなく、各チームができるだけ公平な力になるように編成には特別なルールが設けられているようだ。
これまで体育祭は全て欠席していたが、一度くらい全力でやってみたいと思ったことはある。スポーツも好きだ。
けど今回も、学校には申し訳ないけど今の俺のテンションゲージは一ミリも動かないんだよな。
組みたいやつと組めるやつは良いんだろうけど、さ…。
俺の場合、誘いたい相手は学校に来てすらいないんだ。
楓は、学校を休んでいた。
***
担任は風邪で欠席だと言っていたが、俺は楓が休んだ本当の理由を知っている。ちょっと後ろめたい気持ちになった。
誰かの秘密を保持するというのはある意味、自分のこと以上に気を遣うことなのかもしれない。
俺が明かした秘密も、楓は重荷に感じてはいないだろうか…。
悶々としたまま校内を歩いて、再び保健室の前に来ていた。
楓の保護者にして守護者の和田先生なら近況を知っている可能性がある。
「あ、翔ちゃん。先生なら今はお留守だよ」
保健室に入ると同時にボブ髪の女子が話しかけてきた。
俺を待ち構えるかのように和田先生の机に一人居座っている。
その格好は……
「お前…なにしてんの?」
「お留守番だよ~。先生、茶道部の顧問で今日は直接指導の日なんだって」
「なぜ先生の白衣と聴診器を装備している」
「えへへへ~。似合う?」
俺を翔ちゃんと呼び質問に答える気のないこいつは米倉杏。保育園、小学校、そして中3の現在に至るまで悉く同じクラスという腐れ縁。幼馴染みだ。
「男の子はドクター+みたいな女医さんに弱い」
「は?」
「だから翔ちゃん元気になるかなって……ムラムラしたでしょ?ギラギラ?」
「ムリムリ」
うん。キミのは女医じゃなくて毒医者って感じ。元より俺にそんな趣味はない。
「えー。せっかくだから胸の音とか聞かせてよ~。クレープあげるからさー」
「えーじゃないよ。おバカ。クレープってそれ傷んでないか?」
杏の家は駅近くの人気のクレープ屋さんである。
「そこは大丈夫。ジャーン!冷蔵庫で鮮度をキープ」
「保健室の冷蔵庫を私物化スンナッ!」
と、こんな会話は日常茶飯事だ。
何処か幼い杏が背伸びしておちょくって、俺がつっこんで…。
でも今日は、本当に俺を元気づけてくれようとしてるのかもしれない。
杏は――
すでに楓のことを、あの日のことを知っている。
***
俺はソファーに腰を下ろした。年代物だが教室の椅子よりも広々として弾力もありなかなかの座り心地。
「それにしても驚いたよ。お前と楓が又従兄弟だったなんてなぁ…」
「え?他にもっと驚くことない?」
杏の言わんとしてることはわかる。
半陰陽のことだ。しかし迂闊にその秘密が漏れるようなことがあれば再び楓が傷つくことは判りきっていた。
「…ここで言えるわけないだろ」
「ごめん…」
「わかってるならいい。むしろ…その……ありがとな。ずっと楓の力になってくれてて」
俺が楓に会えたことも半分くらいは杏と先生のおかげだ。そこは一度ちゃんとお礼を言いたかった。
「うーん、やっぱり…カエちゃんの言ってたとおりだね」
カエちゃん?ああ、楓のことか。
「やっぱりって、何か聞いたのか?」
「呼び方、変わったね」
「呼び方?」
「この前までは橋本って呼んでたのに、今は楓って名前で呼んでる」
はぅ!
「いや、これはいろいろあって、途中から流れで名前で呼んでた経緯があってだな…」
「うん。知ってるよ。カエちゃんもそう言ってた」
おーい知ってたんかーい。どこまでこいつに話したんだろう。
じつは俺もあのあと一回だけメールで…
『制服、汚しちゃってごめんな。あと『楓』って名前で呼んじゃってた、すまん』
→『制服は大丈夫。名前もNGじゃないよ! そっちのほうがボクも嬉しいです』
→『ありがとう!ホッとしたw』
というやり取りを交わしていた。
本人の許しを得ているのだから恥じることはないが、第3者からの視点までは想定してなかった。
「私は良いと思うよ。カエちゃんも嬉しそうだったし、大事なのは気持ち。でしょ?」
「うん…。つーか俺が言ったやつだよなそれ」
たしかに俺が下手に恥ずかしがると楓にも変な気苦労や心配をかける。
「あいつは周りの顔色を伺って必要以上に気を遣うところがあるからな」
「だから放っておけない?」
「うん?まあ…そうだな。あと、素直で律儀なところとかな」
「そしてそんなところが好きになった…と」
それなー……
って
「おい!」
「したんでしょ。告白。帰りの車の中で」
「うっ、いや……あれは……」
今後の学校生活をするにあたり、俺の好きな子の恥ずかしい所を見てしまうかもしれないとを懸念していた楓に、俺は自分の好きな子は楓だから心配するなと言った。
「だからつまり、気にしてほしくなかったっていうか…一緒に卒業したいし…」
「ええー!じゃあ本気じゃなかったの? 弄ぶきなのね? ひどーい!」
「本気だよ!好きに決まってんだろ。うるせー」
ただ、楓は自分が本当は男の子なのか女の子なのかを悩んでる。それに、世間一般で恋愛は異性とするものが常識という概念だって普通に持ってたはず。
だから俺の都合で『お前、身体が女なんだから女子とみなす、俺と付き合え』なんて言うのは身勝手に思えた。
「ただ、はずみでも好きって言っちゃったことで余計に悩ませちゃったんじゃないかって……」
「翔ちゃん……」
気がつくと杏は静かに俺の横に座り、自分の両手を俺の左手に添えている。顔も近い。
そして――
「たぁっ」
「いでででで!」
思いっきり握りやがった。
オス!オラ傷口。ジンジンすっぞ。
「何すんだよ!」
「こっちの台詞。何で後悔してるの?好きだから、こんな傷まで作って守ろうとしたんでしょ?」
「それはそうだけど……」
「誰かが自分のことを大切に思ってくれてる。それで悩んだり考えたりするのは男の子も女の子も同じだよ。仮に私が翔ちゃんのこと好き!って言ったら少しは考えるでしょ」
……。
うーむ……。
「仮想してみてよ」
「まあ……多少は……」
「多少なんだ……」
まあ……嬉しいだろうな。
楓が俺を信頼してくれてた気持ち。それが男の子としてのものだったら、女の子として好きって言ったのは裏切りみたいになる気がして、そんな不安があったのか…。
でも今、異性としては全然意識してない杏から好きって言われた場合でも多少はビビるし、それに…悪い気はしない。
「翔ちゃん。一人の女性として認めてくれた人の気持ちを、悪く考えたりする子なんていないよ。私も最初は戸惑ったり考えたりもしたけど、今はカエちゃんだって、女の子として生きていけるって信じてる」
「信じてる……か」
「だから翔ちゃんも、本気で好きなら自信持って。信じてくれる誰かがいれば、カエちゃんは絶対に逃げたりしない」
なんか…意外だった。
杏と楓は又従兄弟で古くから付き合いがある。
そう聞いていたから、てっきり怒られるんじゃないかと懸念して、教室では対面するのを避けてしまっていた。
でも逆に杏は俺の心境を伺ってくれて励ましてくれて・・・
「ありがとな。なんか俺、ガキみたいだったな。一人で悩んだりビビったりして……」
「気遣いは無用!翔ちゃんより私の方が9ヶ月も早く生まれたお姉さんなんだから。先生と呼んでいいのよ」
「前言撤回します。あ、左手また痛んできたので、処置ノートに書いておくね。『3Aの米倉杏にやられました』……と。」
昔からちょっと褒めるとすぐ頭に乗る。しかも年々悪化してる気がする。
楓をこいつに任せて大丈夫か?という新たな不安も生じつつあり、俺が守ってやらなきゃな と思えてきた。
「そんなに足蹴にしなくてもいいじゃん。反抗期~? は~ぁ、小3くらいまでは一緒にお風呂入ってたりもしてたのになー」
「おい待て!そのエピソード今関係ないぞ」
こいつまさか別の黒歴史を語り出す気か。
阻止だ。断固阻止だ。
「あの頃はさー、二人で温泉の男湯と女湯交互に入って探検したりして、自由で楽しかったよね」
「あのな、一応県の条例で9歳までのお子さまは男湯女湯を自由に入れるから違反ではない。でもそれは基本的に保護者同伴の場合であって、子供だけであちこち出入りするのはやっぱりアウトなんだぞ。女湯でうちの姉ちゃんに怒られただろ」
「そうだっけ?あ、そういえばお姉さん以外、誰も翔ちゃんが男の子だって気付いてなかったよね。女の子みたいに可愛いし、おちんちんも子ブタさんの尻尾みたいにちいちゃかったし、体もぷりぷりしてて」
や、やめろー~~ッ!
そういう問題ぢゃねぇよっっ!今思い返すだけでも恥ずかしくて39度の高熱がでるわ。
だいたい、お前は恥ずかしくないのかよ…。
「男湯はお前が女の子だってバレてたぞ。誰も言わなかっただけで。かなりの人に裸見られたし、そこは大丈夫なのか?今までに同じクラスになったやつもいたかもしれないぞ」
「やーん♪翔ちゃんエッチー♪」
「お前が話し始めたんだろっ!」
「セーフセーフ。あの頃は胸もないし、男の子みたいだったもん。低学年は体育とかも男女一緒の教室で着替えてたでしょ」
う、うーん…?…それは……まあ、そうだが……。
着替えの最中にうっかり知人の秘部が見えてしまったなんて話も聞いたことはある。
自分と異性の性別を認識する感覚っていつ頃から始まったんだろか…明確な線が引かれる時期がよくわからない。杏の意識は明らかに遅かったと思うけど。
「きっと男の子が男らしく頼りになる所を、女の子が女らしく可愛くてか弱い所をそれぞれ出していって、それでお互いを理解していくんじゃない?」
「うーん…。そんなもんかぁ?」
「そんなもんだよ。翔ちゃんの男らしい所、きっとカエちゃんも頼りにしてると思うよ」
その時だった。
誰かがドアをノックした。
先生かな?と思って俺と杏が駆け寄りドアを開ける。
そこには、白のシャツに短めのGジャンそれに茶色のロングスカートに身を包んだ女の子が黒の帽子を被って立っていた。
***
「あ……あの……。た……ただいまっ!」
声量もだがやや震え裏返ったその声と台詞に俺は思わずたじろぐ。
けっして思いがけない言葉ではないのだけれど。
「カエちゃん……カエちゃ~ん……!」
すでに目の前で熱い包容とともにと繰り返す杏の言葉を聞くまでもなく、この女の子は楓。橋本楓だ。
数年前まで自分の性を知らず知らず男子として育ち、今は女子で、本人はそのために色んな過去があって…。
俺を信用してくれて、秘密を明かし合って、微笑むととても可愛いくて、ずっと一緒に居たくて、好きだって伝えて…。
学校に、俺が指定した保健室に来た。制服じゃなく私服で…。
次々と思考が脳裏を駆けめぐり、緊張と恥ずかしさで顔が熱くなってくる。
言葉が出てこないのだ。
そんな俺の心中を察してなのか、杏はこちらに向き直り、俺の胸を手のひらでポンポンと叩く。
「ガンバレ……男の子」
「おぅ」
そうだ。もうあれこれ考えるな。楓がここまで来るのだってどれ程の勇気を伴ったのかわからない。
それでも逃げなかった。信じてくれた。
だから今は…もう一度、一緒にいられるこの嬉しい気持ちを大切にしよう。
「おかえり」
「うん」
好きと伝えたことが、どう思われているかなんて、今はいい。
ありのままの俺をどう思うかは楓が決めることなんだ。なるようになる、だ。
「それより、か……髪、ヘンじゃない?」
楓は帽子を取って、先生紹介の美容室で整えてもらった髪を俺たちに見せてくれた。
その新たな姿に、思わず息を呑んだ。
「お……おおぉ……」
先ず、ぱっちりと見開いた大きな瞳や柔らかそうな耳など顔全体がよく見えて明るい印象。プラス、ややソワソワとしている楓の表情が前のセミロングの時よりも色っぽくて、切ってなお艶やかな髪以外にも本人全体から<女の子>って感じが数段ハッキリと感じる。
単純に髪を短くしたら男の子っぽくなってしまうのかなと考えていた俺の予想を見事に覆してくれた。
ボーイッシュ…というより、男の子時代から元々あると考えられる瑞々しいまでの楓の魅力が現在のステータスに相乗しているのかも。
総評。焦るほどに、可愛い。
「全然ヘンじゃないよ。ふつうに可愛い!いや、別人かと思うレベルっていうか、楓ってこんな綺麗な顔してたんだなぁって……」
「わぁぁっ!そっ…そんなにじっくり見ないでーっ」
わっぷ!赤面ゲージをMAXにした楓に視界を帽子で塞がれてしまった。あっ…帽子も良い匂ひ…。
「ほんとに可愛いよ。カエちゃん、アイドルみたい!」
「あ、杏ちゃんまでっ…!あれ?何で先生の白衣と聴診器着けてるの?」
「説明しよう。私、米倉杏は人の思い入れのあるアイテムを身に付けてる間、その人の感性を吸収する能力.継承図画の使い手なのだっ!今は先生の癒しお姉さんモードを継承中、さあ私の胸に飛び込んできなさいっ」
「え…えええっ!?」
何その能力!?自分で説明しちゃったよこの女。
ふつうに痛いコスプレぢゃねーか。継承してねーし。
「あら~楽しそう」
「!?」
俺たちが賑わっていると楓の後ろの廊下を和田先生が歩いてきた。でも何か様子が変だ。
「こんにちは楓ちゃん。大丈夫だった?その髪、似合ってるわね」
「は、はい。ありがとうございます。先生、声どうかされたんですか?」
楓の言うとおり先生の声、正確には喋りが少しおかしい。
「いま茶道部でお作法の復習をやってきたんだけど、お茶を飲みすぎて口の中が……」
「それは大変!このドクター杏が治しますよ。私ぃ、失敗しないので」
おめーはもう帰れっドクター毒印
「あの…先生。小椋くん杏ちゃん」
「楓ちゃん?」
楓は畏まって皆に一礼する。
「ご心配をおかけしてすみませんでした。ボク、明日からまた学校に来ます!」
「そう。よく決心したわね。えらいわ楓ちゃん」
「「おおおー!!!」」
っしゃぁぁぁぁぁ!!!正直何が決め手になったのか分からないけれど。とにかく、やった!やったよぉぉぉぉ!!
俺は杏とハイタッチして、先生は楓を優しく抱きしめた。
ようやく本当の、学校生活が戻ってくるんだ。
***
数分後、俺たち3人は帰路に就こうと昇降口を出ていた。先生は杏の持ってきたクレープを涙を浮かべて食し、冷蔵庫を私物化した件は不問に処した。
人生どこで何が役に立つかわからん。
「あっ!保健室に鞄忘れて来ちゃった」
「大丈夫だよ。ボク達ここで待ってるから」
「ううっ…カエちゃんありがとぉ…。良い子だからこのヘアピンあげる!んしょ…っと、二人とも待っててね!絶対だからねーっ!」
「先生の装備返したら一気にポンコツモードになったな…」
一方、楓は杏からビーズの飾りがあしらわれたヘアピンを装着され、少しかき分けた髪を耳上のあたりで留めていた。
やはり可愛い。どこまで進化するんだろうこの天使。
二人になると、楓から1つの袋を手渡された。
中には洗い終え綺麗に折り畳まれた俺のパーカーとハンカチが入っている。
さっきの照れ具合からして保健室で返すタイミングを見失ったのかもしれない。
「ごめんね。返すの…遅れて」
「全然。まだ1週間しか経ってないだろ」
「そうじゃなくて、本当はボク20分位前から保健室の前にいたんだよ。小椋くんと杏ちゃんの声が聴こえて、もっと早く会いたかったんだけど お邪魔したら悪いかなって…」
「20分くらい前……?」
俺が部屋に入って直ぐ後あたりか…?
待て…。
色々とんでもない部分を聞かれてしまったのでは…?
『好きに決まってんだろ』の部分と、杏と一緒に男湯女湯を探検のくだりは一番アカンような…。
「お、怒ってない?杏ちゃんに話しちゃったこと……」
俺が自己釈明の言葉を考えていると、楓が先に謝ってきた。
そんなところもこいつらしいなと思った。
「怒ってないよ。俺も杏と話したし、お互い様だろ」
「で……でも……」
「先生や杏と話して思ったよ。人の秘密を守っていくことってすごく尊い気持ちになれる反面、重さもあって、楓も俺の過去を知ってそんな感じになってないかなって。誰かに話せたらその方がラク……だろ?」
「そ……それは……」
保健室前でのやりとり以降、楓は帽子を取ったままだ。
まだ生徒も残っている校舎で、この可愛らしいショートの髪を人目にさらしていることは、再び学校生活を送りたいという強い意志の現れ。
俺はそれを支えてあげたい。
「だから俺のことも、杏に話して良いよ。杏に限らず、お母さんは…今ちょっと無理かもしれないけど、お父さんやゆかりさん?とかにもさ。その方が、俺もラク」
「小椋くん……」
「あ、もちろん俺は楓の秘密は杏や先生以外には話さないし、そこは信用してほしい。話す内容や場所も慎重に選ぶし」
「うん。ありがと……。ボクも、気を付けるね。さっき二人の話を聞いてるうちに……ボク、一人で悩みすぎてたのかも…って思った。家を出る時ちょっと迷ったけど、やっぱり来てよかったよ」
こういうとき奔放でひたすら明るい杏の性格が少し羨ましくなる。
温泉の話も結果的には楓の悩みを幾らか軽減できたのかもしれない。
目の前で、素直に嬉しい気持ちを顔に出して笑みを浮かべる楓を見ながら、やっぱり俺はこいつが好きなんだな…と実感した。
「あ、でも……あの事はまだ誰にも話してないよ」
「あの事?」
楓の小さい両手が俺の耳に触れる。
「小椋…くんの………心臓マッサージの……」
「あ、ああ。そのことか」
周りに聴かれないように、或いは聞かれた時に備えてか耳打ちする楓。
その気遣いも嬉しいけど、直に耳に当たる吐息と声に心拍数と血圧が急上昇してしまった。
「その件も気にすんなよ。楓は人を見る目は確かだと思うし、誰かに話したくなったら話していいぞ」
「だっダメだよ!そのことだけは……、ボク、誰にも話さないからね」
楓の言葉に強い感情がこもる。
俺の上着の裾を掴み、再び言った。
「絶対に話さない!話さないから!」
「わ、わかったよ」
「話さないったら話さないんだからね!」
「わーお~。アツアツだね」
アツアツ?
背後の声に振り返ると杏が忘れ物の鞄を手に戻ってきた。
「『絶対に離さない!』なんて、月9のワンシーンみたいだねぇ♪」
「はぁぁ!?」
「ちちちちち違うよっ!杏ちゃんっ!はっはなさはなはな」
「お、落ち着け楓。離せばわかる」
かなり慌てたのか裾を掴んだままブンブンと手を上下させる楓。
ひ、引っ張られる。
「ん。ほら、周りで部活やってる人も手を止めて見入っちゃってます」
それに気付いてぱっと間合いをとるも時すでに遅し。
杏が指さす3~4方向には唖然とした顔でこちらを見る運動部やら生徒の姿。
辺りはシンと静まって、ヤバーっという羞恥心の叫びが聞こえたような気がした。実際はそんなにヤバくもないのだがここは杏の煽りかたが上手かった。
「駅まで逃げるぞっ!楓っ!」
「うっ、うん!」
利き手の右でその小さな左手を握って走り出す。
「ああっ!待ってよー!私を置いて行かないでー~~!」
ますます他所に誤解を招きそうな背後の叫びにつっこみたくなる。
でも、今は俺の右手を握り返してくれる天使の笑みと温もりに水を差すのはやめよう。
この手を繋いでいれば、何も恐くない。そう思えたから。