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「―――よく、生きてたな」
リティスは自分の竹筒から水を一口飲んで、ぽつりとそう言った。
「お前も。血気盛んなとこは変わってないだろ」
寝静まったころ、二人は小声で話し続ける。シオンはどうせ狸寝入りだろうが、彼に聞かれて困るようなことは何一つなかった。
「なんだそれは。カディールに言われるようなことか」
二人で軽く、笑った。
リティスはカディールより少し年上の騎士見習いだったが、それでも一番年齢が近かったからか、気安い相手だった。貴族でなくても王宮騎士になれるが、それはやはり稀で、リティスの場合、田舎の商人というその出自以外に女性というのもあり、騎士を志す者たちの中では珍しい存在だった。
だからなのか、同じく貴族ではないカディールとは気が合った。カディールは騎士としては若すぎ、その媚びない性格も手伝って、貴族出身の騎士らにはあまりいい顔をされなかった。クレイから剣を下賜されたというのも嫉妬の対象にされた。だから、王宮騎士の中でも、カディールの持つ剣の名を知る者は多くなかった。
「その髪……どうしたんだ?」
エリシャでは男も女も上流階級にいれば髪を伸ばしているのが一般的だ。貴族ではなくとも、騎士になった時点で貴族とほぼ同格とみなされる。リティスも昔は、それに備えて薄茶色の軽やかな髪を伸ばしていた。
「……私はもう騎士にはならないから」
「切ったのかよ自分で?」
彼女は何も、答えなかった。
カディールが詰問していい内容ではない。誰がなんといおうと、エリシャ王国はもうないのだし、騎士という身分ももはや意味をなさない。どれほど固執していても、その習慣を守り続けることに価値を見いだせなくなったとしても……どちらであっても事実はひとつでしかない。
「……リディアーナ様が本当に生きていてくださったとは」
返事の代わりのように、リティスは話題をふと変えた。
王のたった一人の妹姫が落ち延びたことは、騎士の間でのみ事実として知られていたが、そののち全土に噂として広まった。騎士見習いだったリティスはこの噂で妹姫の生存の可能性を初めて知ったが、信じてはいなかったのだ。
王族に剣を向けてしまったということで、騎士を志すことをあきらめたとはいえ、リティスは自分の行動にひどく青ざめた。だが、たとえドレスを纏って王宮を歩いていたとしても、離宮に住んでいたユティアの顔を見知っている者は貴族の間ですら稀だった。肖像画も残っていない。
「そんな噂が流れたのかよ」
「だが長くは続かなかったよ。もともと妹姫がいるということを知っている民も多くはなかったから」
「そうだったな」
離宮に住んでいる王女のことは、母親の身分が貴族でなかったこともあって、民にはお披露目されなかった。王宮内ですら話題になることはほとんどなく、それゆえ忘れられている存在だった。兄のクレイだけが、王女を慈しんだ。
だから、カディールがクレイの命を受けて彼女を探していることは誰も知らなかった。王から勅命を受けて、その日のうちに出立したのだ。かろうじて何人かに協力を依頼することができただけだった。
あの戦で騎士や騎士見習いはひとり残らず命を落とした、というのが公式の記録である。ある者は玉砕覚悟で敵陣に体当たりし、ある者は静かに自決した。国と王を失い、彼らは騎士として生き延びることは恥とした。
だが実際には、リティスのように生き延びた者も何人かいる。生きる理由もその逆も、それぞれあって、今にいたる。あの頃の城内の混乱は、一瞬の選択の連続だった。
そんな中、カディールも生死不明のまま、ほかの騎士らとともに速やかに処理されたのだった。
「でも三年もかかった……。その間ユティアは……」
「ユティア?」
「……ああ、あいつはこの名前のほうがいいんだってさ」
「そうか。だが、気安くしすぎだ、カディール。王妹殿下であらせられるのだぞ」
「俺はいいんだ」
なぜか簡単にそう言ってしまえた。これを特権などと思ったことはないのに。
「リティスはなんでここにいるんだ?」
「いや、本当に偶然なんだ。前々からあちこちの離宮跡で強奪があるという話があったから、私は密かに見回りをしていて、たまたまここに立ち寄っただけでな」
「強奪っ?」
エリシャは近隣諸国のどの国と比べても治安がいいことで知られていた。教養ある民と水準の高い生活……それらが整然とした秩序を守り続けてきた国だった。
「最初は調査とかいう名目で来たカストゥールの下級役人だったが、そのうち貧しい民までも加わってな……だがもともと、そんなものは戦が終わってすぐにカストゥールに取られていてもうほとんど残っていないんだが」
「―――そうだったのか」
カディールがエリシャを後にして、数日後に戦は終わった。そのあとどうなったのか、彼は噂でしか知らなかったが、そんな実情もあったことを初めて聞いた。
「カディールはどこへ行くつもりだったんだ?」
「俺たちは王都に行く」
さすがにリティスは瞠目した。
「―――あてがあるのか」
なければそんな危険な場所にユティアを連れてもぐりこまないだろう。リティスもそれがわかっているから尋ねた。カディールは軽く頷く。
「アーシェが、待っているはずだ」
はっとリティスはカディールを凝視した。アーシェの名を、今なお聞くとは思っていなかったのだろう。王都の情報は規制されているらしく、国外ではあいまいな話しか聞けなかったが、カディールは確信していた。どんなことをしてでも生き延びてくれているであろうことを。
「―――本当か?」
「生きているはずだ。国とともに死ぬよりは国のために生き残ろうとするやつだよあいつは」
「そうか……アーシェ様が、生きていてくださったのか……」
昔の誰に会っても、まずそう思うのだろう。
あの状況でいまもなお、生き延びていられるのは奇蹟なのか、強運なのか、それとも罰なのか、それはわからないけれど。
「生きているのが不思議だ……」
そう呟いたリティスと同じことを、カディールも同じように思った。
またこうしてエリシャの大地を踏み、エリシャの空を仰ぐ。
望んでいたというのに、実際にそんな日が訪れているのが、ひどく不思議なことのように感じる。自分の身が夢の中に行ってしまったかのように、現実味が薄い。
何度も考えて、何度も確認する。自分がどこにいるのかを。
ライラスの死を知り、あの美しかったメルフィ城の惨状を知り、一歩一歩現実に近づいているのに、カディールはどこかで期待している。何に期待しているのかわからないまま、このままエリシャが終わるはずはないとどこかで思っている。
まだあの夢の中で生きていたいのかもしれない。クレイとともに。
「お前はあれ以来、フランジアには行っていないのか?」
王都にいけば必ず、アーシェの噂は聞くはずだと思っていた。
「私はもともと田舎育ちだ。王のいない王都に用はないよ」
「……そうか」
国や王が存在しなければ、カディールももう騎士ではない。任命する王がいなければ、リティスももう騎士にはなれない。わかっていたつもりだが、カディールは今でも王クレイの命令を遂行するために動ける、王直属の騎士なのだと思っていたかった。
捨てられないのだ。
それだけが、カディールの存在価値だったから。
「―――だが……アーシェ様か……ではまさか、あの方も?」
「それはない」
何も知らないのに、カディールはそう断言した。
どんな情報であっても、エリシャにいなかったカディールに簡単に入ってくるようでは逆に困るのだ。
「だが、アーシェ様が生きておられるのなら……」
話すのを拒むかのようなカディールの態度に、リティスもこの話題をこれ以上進めるのを避けて言いかけた言葉を飲み込んだ。代わりに、別のことを……リティスにとっては最も重要なことを聞いておくことにした。
「……カディール。お前がフランジアに戻る前に聞いておきたい」
「なんだよ改まって」
「……リディアーナ様は、国を……我らのエリシャを再建なさりたいと思ってくださっているのか?」
思わず笑い飛ばしたくなるような質問だった。だが、実際そうしなかったのは、リティスの視線が今までにないほど真摯で真面目だったからだ。
「……なんでそんなことを聞く? ユティアはずっと、王族だってことすら忘れていたんだ。今さらできるわけがない。そうじゃなくても王宮から遠く離れたこんなとこに住んでたんだぞ」
「それでも! あの方だけがルーフェイザ様の遺志を継げる唯一の王族であらせられるんだ」
ルーフェイザというのが、クレイの王族としての名だ。王族以外では、カディールだけがその私的な名を呼ぶことを許された。それは主従関係のある騎士ではなく、対等な友としての心だった。
「クレイの遺志、だって……?」
水の入った竹筒を握った右手に、無意識に力がこもっていた。土器の杯を持っていたら粉砕されていたかもしれないと思うほど。
だが、リティスはそれすら、気づかないふりをした。カディールのこの思いが、ただの憤りなどではないのを承知の上で。
「お前も? ……お前も国を再建したいとは考えないのか?」
「それは……っ」
「エリシャが何百年続いた国家だと思っている? ぽっと出の小国とは違うのだぞ。それを他国によってこうも易々と滅ぼされるなどあってはならないんだ」
彼女の言い分はわかる。実際カディールも、戦の最中からそういう考えを持った民が多いことに気づいていた。
エリシャ王国は国土こそそれほど広くはないが、カストゥールと同等の古い歴史を持つ長寿国家だ。当然、民はみなそれに対する並々ならぬ自負がある。ゆえに誇りを穢された屈辱感も尋常ならざる激しさだ。
教養に重きを置いた政策で随一の文化水準を持つ国として知られ、識字率も他国と比べて圧倒的に高い。豊富な資源があるわけでもないが、人材を武器に豊かになることに成功した数少ない例でもある。
従来は争いごとを好まない理知的な学者気質のエリシャだが、今回ばかりは命をかけて戦えという声も一部ではあるかもしれないが強かった。その思いを、カディールもわからないわけではなかった。
「俺はただ、ユティアにそんなことを背負わせたくない」
国の再建。
望まないといえば、嘘になる。
クレイが妹姫ユティアの未来とともに最後まで憂えていたことこそ、このエリシャの大地が蹂躙され、穢れていくことだ。
この誇り高い精神を抱く国で、あの頃のように穏やかに生きていたい。そのためにエリシャという国を取り戻したい。
そういう愚かな願いが、カディールの心の奥底にないわけではない。だがそれは、ユティアの意思を無視した、カディールの自己中心的な願いでしかなかった。
「ならば、気をつけろ」
リティスはカディールに賛同したわけではないようだったが、理解を示し、固い表情のまま呟いた。
「フランジアには今なお、王族の生き残りがいるはずだと信じている一派がいるという話もある。彼らはその生き残りを探し出し、旗印に掲げてエリシャの独立を願っている。お前にその気がなくとも、リディアーナ様のことが知られれば飲み込まれるのは時間の問題だぞ」
「―――何っ? 誰だそんな勝手なことっ」
ユティアの意思を無視した行動だ。―――王の意向も。
「クレイは……王はそんなこと望んでなかったんだ」
戦う潔さよりも、民に生きていてほしいと最期に彼は祈った。そう伝えられている。
そしてカディールは、そんな彼の祈りを誰よりも近くで知っていた。自分の身ひとつで多くの民を救うためにした行動が、今再び戦を始めればすべてが無に帰すことになる。
「ただの王宮騎士でしかないお前がいくら声高にそう諭したところで、民は誰も聞かない。むしろ騎士のくせに戦わぬのかと罵られる。―――せめて、あの方が……カザル様がいてくださったらその言葉の重みも違ったのだがな」
はっとカディールは顔を上げた。その表情がみるみる険しくなるのを、自分では止められなかった。
「―――その名前は言うな」
「カディール」
「カザルは、死んだよ」
リティスがゆっくりと息を呑んだ。
(生きているわけないだろ……)
たぶんそれが真実。
カディールは珍しく感情を押し殺すことに成功し、無表情を通した。
そう、生きているはずはないのだ。あの状況で。だから彼の、どんな噂も嘘でなければならなかった。