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夜になる前に近隣の村に行ってもよかったのだが、ヨイゼの村と同じような雰囲気であれば旅人を歓迎しない可能性も高く、第三離宮メルフィの敷地内で一晩を過ごすことにした。
大きな城が目の前にあるにもかかわらず、内部は割れ物などで散乱していて、見る限り寝台などの調度品も壊されているか盗まれているかのどちらかで、彼らはけっきょく雨風をしのげる場所で半野宿をするしかなかった。
「ずっとこんな生活ばかりですみません。疲れていませんか? ユティア」
「ううん。大丈夫」
野宿とはいえ、シオンがいろいろと準備してくれるおかげで、奴隷生活で寝ていた場所よりはよほど快適なのだ。寒さや飢えを我慢しなくてもいいことも大きい。
元は室内だったとはいえ、木でできた床はすでに雑草に覆われてしまっている。シオンは比較的雑草の少ない場所を選んで布を敷き、いつものように簡易の保存食をユティアに手渡す。沈む夕陽に照らされたシオンの横顔に憂いや懸念はなく、ヨイゼの村で聞いた話を気にしている様子は見られなかった。
「……カディは?」
静けさの中に、カディールだけがいない。
「まだ何か見たいところがあるんでしょう。すぐに戻ってきますよ」
「あの……わたしもお城の中をもう一回見てみてもいい?」
カディールが雑草や枝を取り除いたおかげで、道はすでに確保されている。
「遠くには行かないようにしてくださいね。暗いところでは明かりの魔道を使って」
シオンは穏やかな笑顔で頷いた。
衣服の長い裾を持って立ち上がり、ユティアは城の奥へ足を踏み入れた。
どこからか鳥の鳴き声が聞こえる。エヴァン王国でユティアが移動した場所は森や小高い丘ばかりで、こんな山の中にいるのも初めての経験だった。
―――世界は、広いのだ。
エヴァンは平坦な土地が多く、エリシャは山が多いと言われている。隣国でもこれほど顕著に、土地柄が違う。
(あの湖の向こうに……王都がある……わたしの国の、王都)
王族というものがどんなものなのか、ユティアは正確にはわからなかった。
飢えることなく美味しいものを食べ、凍えることなく絹で着飾る生活を送る。そんな派手な暮らしをしているのだろうという漠然とした想像しかできなかった。
生きなければだめだと、カディールは出会ったころユティアに言った。その真意が、ユティアにはまだわからない。生きて……生きて……そしてどうすればいいのだろう。
(……兄さまは、それをあきらめてしまったのに)
戦を終わらせるため、降伏して殺されたとだけ聞いているが、それは生きることを諦めてしまったことに等しいようにユティアには思える。
かなり薄暗くなってしまった城の中を、ユティアはあのころを思い出せないかと視線を動かしながら歩き、けっきょく何一つ心に留まることのないままあのバルコニーまでたどり着いてそこに腰を下ろした。
乳白色だった湖は、夕陽に染められて燃えるような色に変化していた。
この先にあるのだという、王都。そして、王城。それがユティアの生まれた場所。
立てた膝の上に顔を乗せたら、自然と溜息が漏れた。理由もわからないのに。
行きたくない、わけではないのだ、たぶん。けれど、その純粋な好奇心を押しつぶそうとする感情の渦が、小さく生まれていることをユティアは自覚していた。
(そんな我が侭は……言えない……)
ここまできて躊躇しているだなんて、知られたくなかった。
(わたしは、どうしたいと思っているんだろう。どこに向かえばいいんだろう)
上から容赦なく命令してくるひとがいなくなっても、自分自身がどうしたいと思ってるのかすらわからないままだった。だから自分では何もできずに、やっぱり誰かの指示通りにしか動けない。
もう戻りたくない。前に進むしかない。けれど、それにも後ろめたい気持ちが付きまとう。だからといって立ち止まってもいられない。前に一歩進んでもその先が見えない。目的がないから。
ぐるぐると回るだけの思い。
カディールは未来だけを約束してくれた。けれど、ユティアがエリシャ王国にいるという事実は、容赦なく冷たい過去を突きつける。それらを背負って、それでも前に進めという。
(……わたしは、カディみたいに強く、ない)
ユティアは伏せた顔を何気なく持ち上げた。
「っ!」
何の前触れも、ユティアは見出せなかった。気づいたときには、後ろから口を押さえられ、身動きが取れなくなっていた。
(―――っ!)
あまりにも一瞬の出来事で、ユティアは抵抗する力すら出てこなかったし、悲鳴も上がらなかった。
「あんた、誰だ?」
男か女か、よくわからない中性的な声。強い力に引きずられるようにして立ち上がると、後ろからユティアの肩に薄い色素の髪が降りかかった。金のような茶色のようなそれからは、染み付いた草の香りがした。
回された相手の腕をとっさに掴んだが、その手は恐怖で震え、何の力も出てこない。
奴隷だったころのいやな記憶が一瞬でよみがえる。力任せに腕をつかまれたり、押さえつけられたり、殴られたりした日々を……。
(―――あ、あぁ……いや、だ……)
だが、それはそれほど長い時間ではなかった。
その手はすぐに解かれ、突然支えを失ったユティアの身体は前に倒れる。割れた小枝を踏むわずかな音だけが響いた。ユティアが座り込んだまま振り返ると、剣を相手のあごにぴたりと当てたカディールがいた。
たったそれだけで……カディールがそばにいるとわかっただけで、ユティアは止まりそうになっていた息を大きく吐くことができた。
「てめえがそれを知る必要はない」
「―――ユティア、お怪我は」
いつのまに来たのか、彼の後ろからシオンが近づいてきて、ユティアの肩にそっと触れる。震えが少し、それだけで収まった気がする。
あのころとはもう違う。―――けれど、ユティアだけは変わることができないままで。
シオンに柔らかい力で包むように抱きしめられ、ユティアは自分の身体が思ったより震えていたことに気付いた。大丈夫と耳元で言われ、ユティアはもう一度息を吐いた。シオンの袖をつかんだら、少しだけ落ち着いた。
ユティアを襲った者は、カディールに刃を突き付けられ身動きが取れずに立ち尽くしていた。どこにでもあるような長衣を纏って体型を隠し、フードを目深にかぶっていて顔もわからなかった。
ただ、背はそれほど高くなかった。ユティアよりは高いが、カディールと比べるとずいぶん小柄に見えた。
「……盗人が廃墟で何を探していたのだ?」
「墓守のふりかよ? ここが何処かも知らねえくせに」
「なんだとっ?」
長衣が少しだけ身動ぎした。カディールの剣は動かなかったが、触れていたあごがわずかに切れて薄く血が滲む。だが、どちらも交錯する視線はひとかけらも揺らがなかった。
二人の間にまたがる、鋭い殺気。
こうしてカディールは、また、ユティアのために他人の血を流していく。
わかっている。優しさだけではユティアを守れない。彼の剣術があったからこそ、ユティアはここまでたどり着けた。けれど、どうしても普段のカディールと結びつかない鋭さが、本能的に拒否したくなるたぐいのもので……。
「……なぜここを、墓と」
その声は冷静だったが、先ほどまでの覇気がわずかに弱まった。その瞳が、改めてカディールを認識し、カディールの持つ剣に移った。
「―――それ……『凛刃』」
「……っ!」
カディールの顔色が、明らかに変わった気がした。いっそう険しい表情に。
「お前、カディール……か?」
「―――……」
名を、呼んだ。
ゆっくりと手を動かすのを、カディールは少し刃を引いて見守る。
指先がフードを振り払った。肩よりも少し長い髪が零れ落ちる。
「……リティス」
カディールも、認識した。現れた顔立ちは、勇ましい様子ではあったが若い女性のものだった。