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 残された兄は、言われた言葉をのんびりと脳裏で反芻する。

「……ライラック、本当なのか?」

「何がです?」

「男性のみと決まっているのか? いつから? 誰が決めた?」

「―――はあ……それはですねえ」

 呆れながらも答えようとしたものの、ライラックもそんな問いの答えは知らない。安易に口を開いたことを後悔しながら、必死に言葉を探す。

「……だってあのお綺麗なルシア様が禿げるところなんて誰も見たくないでしょう?」

「僕が禿げるところは誰かが見たいのか? 誰だそれは?」

「………………」

 さらに答えられない質問だった。ライラックは早々に降参して沈黙するしかなかった。

 だが、答えなど元々どうでもいいのか、セイルーンは緊張感なく二度目の大あくびをした。

 たしかに、ここは王都からずいぶん離れているから、セイルーンにとっては気楽でいいだろう。王に媚びて謁見する必要もないし、噂好きな宮廷夫人たちとも無縁で、何かと言えば相手を蹴落とすことしか考えない野心たっぷりの貴族たちの顔色を伺うこともしなくていい。エリシャは年中温暖な過ごしやすい気候で、食べ物も本国とはずいぶん違っていて当分飽きることもなさそうだ。

 だが、悠長に構えてばかりもいられないのが、このエリシャという土地。

「なんでだろうね。ルシアももっと楽しめばいいのに」

 暢気な言葉も、この部屋の中にいて安全だからこそ言えるのかもしれない。

「それは、この赴任が実質的には左遷だからじゃないですか?」

「左遷?」

 セイルーンは、まるで初めて聞いた言葉のように、おうむ返しにただ尋ねた。

「そんなことは任命書にも書いていなかった」

「……そりゃ、貴方は左遷されますなんて書くわけありませんって」

 これがセイルーンでなければふざけているのかと思ってしまうが、彼は素でそんなことを考えるのだ。

(なんでこんなとぼけたのを主に決めちゃったかなあ、おれ。しかもほいほいこんな辺境までついてきちゃうし)

 それでもライラックは彼を主と決めた。

 側にいる間は決して裏切らないと誓いを立てた。

 そして、それを不愉快に思っていないのは、案外同じ穴の狢だからなのだろう。

「もう嫌になった? いつでも僕を見限ってくれていいんだよ」

 能天気なくせにときおり妙に鋭いセイルーンが、ライラックの表情を正確に読み取ったことは意外でもなんでもなく―――。

 こんな些細なことで、すべての苦労が帳消しになってしまうなんて、我ながら単純すぎるのではないかと思うのだが、乗せられてやることにした。

「私を見るたびにおっしゃるのはやめてください。私はまだ貴方に絶望なんてしてませんよ」

 少しだけかしこまった調子で、芝居がかって答えてやる。

 嫌になったらいつでも僕から逃げればいいよ―――昔、彼は本心の見えない穏やかな笑みとともにライラックを拾い、居場所を与えた。

「別に主人が左遷されたって窓際の役立たずの壺扱いされたって全然かまいません。僻地だって敵地だって、おれはついていきますってば」

「うん。でも、左遷だなんておかしいね。こんなにいいところなのに」

 彼は心の底からそう思っているからたちが悪いのである。

 戦が終わったのは三年前。

 もう三年経ったのか、まだ三年しか経っていないのか……ひとの心は曖昧だが、周りを見渡せば、まだその爪痕は色濃く残っているものの、美しい山並みや海や川、そのどれもが戦など忘れたかのように澄み切っている。

 エリシャの人々は未来への絶望に目を背けて生きているように、ライラックにはときおり見える。秩序と規律を重んじる民は、いつまでそのままでいられるのだろう。戦に負けて、王を殺されて、国を喪って……。

「まあ、エリシャは王族が滅んで併合されてからも、大きな反乱はありませんけどねえ。でも三年です。本来ならいつ内乱が怒ってもおかしくありません。そんな危ないところに誰も赴任したがらないのは当然でしょう」

 エリシャをうまく治められればおそらく出世への道は確実に開かれる。そういう純粋な野心を持った貴族がカストゥール内にいなかったわけではないが、やはり命を優先するのは当たり前だ。前任者はセイルーンとは逆の意味で統治を放棄し、エリシャ国内でのカストゥールの印象は悪くなる一方だった。さらに、エリシャは元は同じ国であったとはいえ、今では風習の全く異なる国として知られている。

 成功して出世するなどというのは夢物語だと誰もが思った。

(だから損な役回りをいつのまにか都合よく押し付けられたんだよね。でも……たぶん、ほかのいろんな思惑をわかっていながら引き受けた)

 どのみち彼は中央では疎ましがられているから、ちょうどいい左遷的扱いであったことをライラックは知っている。まだ二十代後半でしかない若い彼の手腕など誰も期待していない。それもよくわかっている。

 だが、たとえお飾りであろうと、戦のあとのエリシャを任されたというのは大役であることに変わりはない。その自覚がセイルーン本人にあるかどうかはともかくとして。

「じゃあ、お偉いさんたちはその内乱で僕が戦死することでも願ってここに寄越したのかな」

 しかも、あっけらかんとした口調で、セイルーンはあながち嘘でもないだろう指摘を口にしてしまう。能天気にしているように見えて、彼は意外にも自分の周りを正確に見極めていたりする……ときもある。

(まぁ、貴族たちが示し合わせてセイルーン様をエリシャの統治者として王に推挙したとしか思えないよなぁ)

 ここでの失策は、状況によっては即失脚ともなりかねない。そうでなくとも、暴動などでエリシャの民が押し寄せてきたら、命を落とすことも十分にありうる。どちらになったとしても、王都の貴族たちは喜ぶのだろう。

「思惑通りにはさせませんよ」

「うん、そうだね。僕もそのほうがいいと思う」

 自分の生命が左右される話だというのに、彼の口調は夕食の献立を決めるときと変わらなかった。

(ま、いいけどね……おれたちがなんとかすればいいわけだから)

 セイルーンを見ていると、ライラックはもうひとつ欲が出てくる。

 エリシャの統治は、失敗する可能性が高いが、大役だ。つまり、無事にこの地を制御できれば、セイルーンの評価は一気に上がる。誰もそんなことはできない、ましてやセイルーンになど不可能だと軽んじられているから、彼は今ここにいる。

 大成功を収めたときの貴族たちの顔を、見てみたい。そんな欲望。

「―――ひとつ報告があります」

 もともとはそのためにこの部屋を訪れたのだ。少しだけ居住まいを正した。

「ラスクエルドが間もなく戻ってきます。一足早く鷹を受け取りました。例の調査報告も受け取ったようですよ」

 ライラックは、手に持っていた四つ折の紙をひらりと風に乗せてセイルーンのほうに投げた。風のない室内だったが、それはゆらゆらと漂いながら開いて向きまで変わり、読める状態になってから正確にセイルーンの手元に落ちた。

 億劫な様子で眺めていた彼の双眸が、さすがに変化する。

「―――あれ? これって」

「やっぱ気づいちゃいます? 偶然っておっそろしいですよねえ」

 しみじみと彼が言ったときには、その報告書はセイルーンの手の中で燃えていた。

「面倒なことになるかな、これから」

「大丈夫です。そこら辺はあの人に任せておけばいいんですよ」

「そうか。じゃあやっぱり、僕の仕事は当分何もないね」

 そう結論付けて、彼はのんびりとテーブルの上のフルーツに手を伸ばした。

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