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「ふわぁぁ~」
ライラックが半分だけ開いた簾の奥の執務室に声をかけようと口を開きかけたとき、中からやる気の欠片も見られないような声が聞こえた。
が、そこで溜息をついたり諦めて踵を返したりするほど、ライラックもこの状況を予想していなかったわけではなかった。そして、次に続く怒声も。
「兄上っ! そんな緊張感のない顔しないでください! エリシャ領に赴任してもう一月ですよ。それなのに何もしていないなんて嘆かわしいわっ」
「うん、でも眠いんだよ午後は。それにエリシャは南国だから暖かいしね。昼寝にちょうどいい。ルシアも一度やってみるといいよ」
それは限りなく真実のはずだったが、妹のほうの顔がますます険しくなっていっただろうことは想像に難くない。
だが、執務室からの怒声なんて下に示しがつかないし、主を叱っているのが十も歳の離れた実の妹だなんてさらに嘆かわしい。しかたなくライラックは、わざと声もかけずにこっそりとその修羅場に入ることにした。これだってけっこう勇気がいるものだ。
室内に少し違和感を覚えたが、それが何かを認識する前に、二人の視線がそろってこちらを向いた。
輝くばかりの長い金髪と神秘の碧眼が印象的な、麗しい容姿。
この兄妹が似ているのはそれだけだった。
兄はこの執務室に相応しい上質の長衣を纏っている。装飾具も適切だ。それもそのはず、ライラック自ら選択した装いなのだから当たり前である。ただ惜しむべきは、やる気のなさが全身から放たれているせいで、せっかくの美貌も台無し、かつ威厳も何もあったものではない。
一方、妹は慎ましやかで清楚なドレスを……と言いたいところだが、そのドレスは装飾の一切を取り払い、慎ましいというよりも簡素すぎる。裾も膝が見えるほど短い代わりに、膝上までの編み込みブーツをはいている。これで生地が上等でなければ、少し裕福な町娘程度にしか見えないところだ。とはいえ、兄とは違って気品と自信に満ち溢れているせいで、そんな服装でも庶民とは見られないだけの堂々たる風格はある。
「ああ、ちょうどいいところに来たな、ライラック。お前も午後は昼寝をするべきだと思うだろう?」
「何を莫迦なことをおっしゃってるんですか。ライラックは優秀な部下。そんな怠惰なことはしませんっ!」
「―――あ~いや、その……」
ライラックだって只人なのだから、昼寝くらいしたいときもある。だが、あまりにもはっきり断言されてしまうと、昼寝だって悪くないですよと言いかけたものを飲み込むしかなかった。
どちらの味方もするべきではないと常々悟っているライラックは、先ほどの違和感を突き止めるために、相変わらず無駄に広く無駄に豪奢な内装の執務室を見回した。
エリシャ様式の宮殿の中に強引に作り上げたカストルゥール様式の部屋は、かなりの不調和をかもし出しているのだが、美のわからない下級役人の強引な作業の産物なのだからしかたない。
もともと同じ国だったカストゥールとエリシャだが、いまではその文化に共通点はほぼ見られない。長い年月だけでは説明できないその相違の多くは、カストゥールが独立する際、エリシャの風習のすべてをわざと捨て、斬新な国を無理やり作り出したからにほかならない。
エリシャからの決別。それが当時必要だと思われていた。
---そして今、彼らは再びエリシャに戻ってきた。その捨て去った風習をすべて未来へ紡がれないように。
(エリシャの価値観とは合うはずがないんだよな……)
古い慣習をかたくなに守りたがるエリシャ王国と、新しいものにならなんでも飛びつきたがるカストゥール王国。
それにしても、この部屋の異質さは二つの国の様式を無理やりに混ぜ合わせたせいばかりともいえないような気がした。
数日前がどうだったか、その間留守にしていたライラックはすぐには思い出せなかった。しばらくして、留守にする前にはたしかにあったはずの家具のいくつかが消え、代わりに簡素な白木の机と椅子、そして安っぽいソファが無造作に置かれている事に気づいた。それらは壁や柱の装飾に不釣合いで浮いて見えたのだが、少なくともこの執務室の主とその妹はまるで気にしていなかった。
絵画や装飾品の選び方を見る限り、けっして彼らに審美眼がないわけではないのに、この頓着のなさと適当さによってここでは発揮されなかったようだ。
それだけならまだ目をつぶってもよかったが、いちおう彼らよりは常識人を自負しているライラックはついにもう一つの変化に関しては見逃すことができずに口を開いた。
「なんですかこの壁一面の書簡……いつのまにこっち持ってきたんですか。セイルーン様」
こちらへの旅の荷物の中にはこんなものはもちろんこんなものはなかったから、ライラックに内緒で積ませた荷に違いない。
この執務室の主セイルーンは、ゆるくうねる長い黄金色の髪の毛を軽く払いながら、どう言い訳しようか思案しているような顔をした。
ライラックが覚えている限り、大きな絵が飾られていたはずの壁が、どこから持ってきたのかその一面すべてが書簡の棚に変わっていた。棚といっても壁に直接板を打ち付けただけのもので、ライラックがいない間に技工士にやらせたのだろう。
書簡は貴重だ。紙だって安くはないし、識字率も高くないから写す作業が出来る人材も少ない。おまけに手間のかかる面倒な作業であり、祐筆の地位はどの国でもかなり高い。
「僕は書簡がないと生きていけないんだ。知っているだろう」
「それは何度も聞きました。だからって王都から運んでくるなんて」
こんな重い荷物をいつのまに用意していたのか、ライラックはまったく気づいていなかった。不覚である。彼がここまですると想像していなかった自分のほうが、なぜか罪悪感に苛まれるのをどこか不条理に思わないでもないのだが。
「いいじゃないか。昼寝と読み物、大事なことだよ」
大事か否かと問われれば大事である。書簡で知識を蓄えるのは有益だし、睡眠を我慢して仕事に励んでも効率は悪い。だが、世間一般の常識的な正論をいまここで述べても意味がないと気づくのもまた、大事なことである。
「けれど、ルシア様はそうは思っていらっしゃいませんよ」
彼に諭しても無駄なことはわかっていたから、ライラックはあえて明確な返答を避けて妹に丸投げすることに決めた。
「ええ、もちろんだめですっ」
「でも休息は必要だよ」
「兄上は休息しかしておられないではありませんかっ!」
妹ルシアはさらに語気を荒げる。適格すぎる言葉に思わずライラックはうなずきかけた。
「どうして兄上は歴史学にしか興味を示さないの? 学者にでもなるおつもり?」
「学者なんて国のいいなりでつまらないな。学問に対して志も熱意もない者らが、国の望むままに嘘を並べ立てているだけだろう」
何も見ていないようで、さらりと鋭いことを言ったりする。ルシアが少し驚いた表情を浮かべた。それは、セイルーンの言葉を否定するものではなく、自分の心情とむしろ同意見であったことに対する吃驚であったから、ライラックはこの兄妹のそばにいることに飽くことがないのだった。
「ルシア、あんまり怒ると禿げるよ」
「ーーー……なっ!」
唐突な一言に、兄を認めかけていたルシアの表情が一変した。二人の宥め役として定着しているライラックも、これにはさすがに絶句するしかなかった。
(……ああ、そういえばここまでの旅の途中で街人が言っていたな。それを使ってみたかったのか)
庶民の言葉は彼には魅力的に映るかもしれないが、時期も相手も激しく間違っている。引きつった顔のままなんとかそれを伝えようと口を開きかけたが、それより早くルシアがばんっと両手でテーブルを叩いた。
彼女の魔道力が漏れ、並べて置いてあった太い巻物が浮き上がるほどの勢いだった。ライラックは、無意識のうちに一歩下がって静観することに決め込んだ。
「禿げるのは男性のみなんですっ! そう決まってますっ」
結い上げた髪の毛を振り乱す勢いで、ルシアは部屋を飛び出していってしまった。