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きっと簡単なこと

作者: 浩

 背が高くなるために、毎朝かかさずコップ一杯の牛乳を飲んでいた。16歳になって、周りから頭一つ抜けてしまった僕は、望んでもないのに人を見下ろして、見上げる友人にいいご身分だなと冗談混じりに言われたのがいやで、牛乳を飲むのをやめた。

 周りのみんなはどこかの誰かにあこがれて、それを目指して勝手に勝手な努力をして、つまづきつまづきうまくいっていない。僕はと言えば牛乳を飲まなくてよくなったから、代わりに朝のラジオで英語の勉強を始めていた。

 ある日、母さんがペーパーバックの洋書を一冊買ってきて言った。

「英語もいいけど、日本語も大切にしなさいよ」

ほかにもいろいろ言っていたけれど、そればかりが印象に残り、2、3日はそのことばかり考えてしまった。ペーパーバックのその本は本棚の一番端を占領して、しばらく動くことはなかった。

 高校2年の秋になって、彼女ができた。二年から同じクラスになった子だった。告白は向こうからだった。僕はスポーツをしないし、そもそも身長のわりにどんくさい。なぜと思って訊ねたら、彼女は僕が美術の時間に描いた絵を見て、僕のことを意識したと言っていた。それから何度か見る内に、だんだん好きになったのだという。そのときの顔は、僕が今まで見た中で一番可愛いと思えた。わからないけれど、きっと僕も同じように、そのうち好きになれると思った。彼女は帰国子女で、英語が得意だった。それは確かに、後で思えば魅力的なことだった。

 彼女と話す内に、自分がどれだけ子供らしい生き方をしているかわかってきた。買い物に行くと彼女は早足で、欲しいものをあらかじめ知っていて、僕は少し置いて行かれそうになりながら後を追う。それに、言葉の選び方が素直だ。たとえば姿見を姿見といい、大きな鏡とは決して言わない。いうとしたなら、無駄に大きな鏡だとか、高そうな鏡だとか、名前がないなりに文句がある。そうした言葉がすっと出てくる。まるで商品の値札を読み上げるように、全く淀みがない。不思議だと思いながら、彼女を眺めていると、彼女は少しはにかんだ。僕は気まずくなりながら、どうして気まずくなってしまったのだろうと考え出してしまわないように気をつけていた。

 何度かデートを繰り返しながら、すれ違うカップルがしゃべるのを聞いた。

「かわいいなー、こいつぅ」

僕は可愛いとは言ったことがなかったということにそこでようやく気がついた。可愛いと言うべきだったんだと思った。次の機会で素直にそう告げると、彼女は難しい顔をした。その日から、だんだんおかしくなって、3ヶ月後に彼女から別れた。何がおかしかったのかは今でもわからない。ただ、彼女が好きだったものではなくなっていた自分がいたのは、わかっていた。

 彼女と別れた後、ほんの2ヶ月後にまた彼女ができた。僕からつきあってもらえるように頼んで、OKしてもらえた。今度の子も帰国子女だった。僕は彼女と話すときになるべく英語を使うことにした。だんだん冗談を言えるようになる僕に、彼女は笑って心を開いてくれた。冬にチョコレートをあげると、すごく喜んでくれた。彼女はなにも用意しなかった。ただ、その日は彼女との初めての日になった。

 しばらくなにもなかった。はまろうと思っていたゲームがおもしろくなかったり、彼女が応募したライブのチケットがとれなかったり、そういうことはあったけれど。下手な鉄砲を撃ったつもりもなかったし、なんだかもどかしくなって、そういうときに彼女を抱いた。気まぐれにそういう話を友人にし、家が遠いなら、と薦められて原付を買った。それからは彼女の家に遊びに行くことが多くなり、夕飯までごちそうになって、試験前は遅くまで勉強した。なんにもなかったけれど、勉強はしていた。それがよかったのか、成績は少しずつあがっていて、通える範囲の大学には行きたくなるものはなくなっていた。

 彼女は英語を活かせる大学に入りたいと言った。具体的には東京の大学に。僕はすなおに頷いた。僕もそうできたらいいと思っていた。お互いに新しいものを求める時期がきていたのかもしれない。受験期になって、塾に通うようになり、彼女と話す時間は減った。彼女と話していたおかげで、受験レベルの英語を勉強する必要はほとんどなかった。分野に特別な単語をいくらか覚えるだけでいい。数学の公式にも十分慣れていた。しかし国語だけは、どうにも得意にはなれなかった。担当教師に「工学系に進むのがいいね」と薦められた。彼女に話すと、すぐにいくつかの大学をリストアップしてくれた。東京では難しいものが多い。それはしかし、やりがいもあった。

 久しぶりに前の彼女と話をした。「工業系の大学に進もうと思う」と言ったら、少し苦い顔をした。「それが好きなの?」と聞かれた。思ってもみないことだったから、驚いてしまった。「そうでもない」そう言ったら、「やめといたら?」とすぐに返事があった。そんなに、当たり前のことだったのか。言葉もない僕に「10年後に何がしたいと思う?」と目の前の女の子が訊ねた。それを聴いたとたんに、なにもかもがおかしくなったように思えた。

 なぜ今日まで、考えてこなかったのだろう。なにも、考えていなかった。なんとか言葉をひねりだそうとして、なんとかしようとして、「でも、他に行きたい人が居て、それを俺ができるんだから、いいじゃないか」言ってから、なにを言ってしまったんだろうと考えた。「もうすこし、人生に余裕持った方がいいんじゃないかな」そう言われてしまった。なにもかもを見透かされた気がした。自分がそんなに頭のいい方ではないと、わりきっているつもりだったのに。なにがなんだか、わからなくなった。

 「できる人にしか、できないんだよ」

僕にはできないと言われているようだった。僕が何も言えずにいると、また口を開いた。

 「彼女さんとはうまくいってるの?」

何も答えられない。うまくいっていると思うのに、それがわからない。

 「わたしともう一回つきあわない?」

すがるようにキスをして、少しだけ涙が流れた。今の彼女とわかれたくはなかったが、それ以上に、この人を自分の味方にしないといけないと、強く感じていた。

 本当にばかばかしいことだけれど、国語の成績があがった。担任は工学系を薦めなくなり、付き合ってる彼女は相変わらず、彼女のままだった。3年の秋になっていた。もう、進路を決めなくてはならない。僕の国語の成績が上がった理由が今の彼女にあると、本人は思っていた。彼女自身、そんなにできる方ではなかったから、一緒に本を読んで勉強した。彼女は日本語のまだるっこしい言い回しにやきもきしていた。僕は集中しているつもりで、ふと前の彼女の言ったことを考えていた。そしてそうしながら、彼女が何かに気がついてしまわないようにと思っていた。彼女が考えていることを考えることが、国語の成績があがった理由だと思う。

 彼女は論理的にもしゃべることができたし、感情的にもなった。嘘が嫌いで、素直だった。そのせいもあって、僕も彼女も日本語で冗談を言ったりはしなかった。英語で冗談を言い合うことが二人にとっては特別なことで、それが、他の誰かと比べたなら、絆だった。

 前の彼女と会うことはなかった。こちらから会わないようにしていた。だからといって彼女のことを考えないわけじゃなかった。そのうちに、彼女の考えそうなことも考えるようになっていた。それがどこか狂気じみたものをもっていたことに、そのときは全く気がつかなかった。

 気がついたのは、休日に彼女とデートをしたときだった。久々に息抜きをしようと、昼間だけでかけて、夜は勉強しようと言って、彼女はすごいおめかしをしていたけれど、慣れないヒールで足をひねってしまった。痛がる彼女を見て、僕は可愛いと思ってしまった。タクシーで家まで送ればよかったが、僕は彼女をおぶってネットカフェに入り、ツインルームに連れ込んで愛撫をした。声を出さないように我慢しながら、彼女は今までになく感じていた。

 家に帰ったときには20時を過ぎていた。一度だけキスをして、数学の基礎のところを勉強した。国語はとてもじゃなかった。何かを口に出すのが惜しくて、僕はこの子を一生守ろうと心に誓った。

 次の日の朝になって、昨晩の勉強中に前の彼女のことを全く考えなかったことに気がついた。前の彼女が持っていた狂気じみたものを自分の身の内に入れてしまったことにも気がついた。なんということはないと思ったが、きっととても重要なことが起きていたのだと、そう思ってこれを書くことにした。

 ペーパーバックの本は、今もまだ開かれずにそこにある。


おわり


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