第三章 困惑のゴールデンウイーク(その一)
「親はどっちも出かけてるから、気楽にしてね」
筒井さんが、弾むように明るくわたしたちを招く。
「失礼いたします」
神代さんが、打ち合わせしてる時の狂態からは程遠い礼儀正しさで。
「こんちはっす」
吉川くんが軽いノリで。
「失礼しまーす」
五十嵐くんが愛想よく。
「お邪魔します」
そしてわたしが無難に、中に入る。
玄関へ足を踏み入れると、他の家の持つ独特の匂いがした。
五月一日土曜日。今日の放課後も打ち合わせは行き詰まり、わたしたち五人は高校近くに住んでる筒井さんの家に場所を移すことにした。
単に気分転換というわけでなく、実際にわたしをメイクしたり各種の衣装を着せたりしてみて、案を練るつもりだという。
「それにしても筒井さんの家、本当に一高からすぐなんだね」
わたしと同じ中学だったからそれも当然のことだけど、こうして実際に歩いてわずか三分で到着してしまうと、今の自分が電車とバスを乗り継いで通学してる理不尽を実感させられる。
ジュースの入ったグラスをお盆に載せて持って来た筒井さんが、わたしに微笑んだ。
「そうだね。だけど朝なんかは油断しちゃうから、却って中学の頃よりも遅刻の危険性は増したかも」
「ああわかるわかる。俺も小学校は家から一分だったんだけど、いつでも行けるってのんびりしてるうちにチャイムが鳴り出して……」
筒井さんの言葉に五十嵐くんが相槌を打つ。わたしたち男子三人と女子二人の接点は昨日までほとんどなかったわけだけど、誰と誰が険悪なんてこともなく、少なくとも滑り出しは順調だ。
「さて。みなさんにはしばし席を外していただきたいのですが」
ストローで一口ジュースを啜った神代さんが、鞄の中から化粧水や口紅を取り出し始める。他に教科書やノートと辞書しか入ってない鞄の中で、その一角は異彩を放っていた。
「おお了解」
吉川くんたちがグラスを持って廊下へ移動し始める。
そして神代さんがわたしに詰め寄った。
「ではさっそく夏樹きゅんのお顔を化粧させていただきましょうか……ハァハァ」
「神代さん、息が妙に荒くて恐ろしいってば! あとケワイって何?」
こちらの悲鳴も無視して、委員長はわたしに躍りかかった。
「はい、みなさんいいですよ」
わたしにウィッグを装着すると、神代さんが廊下に声をかけた。作業の間中ずいぶん集中していたのに、なぜか彼女は疲弊するどころか生気に満ち溢れた顔をしている。
一方のわたしは、不思議に消耗した気分で壁にもたれかかっていた。
《なんだか、汚されちゃった気分がする……》
(奇遇ね、わたしもなの……)
軽いメイクくらいは『亜由奈』だった時に経験があるけど、男子を女子に仕立て上げるという状況が特異すぎた。中の人の鷹野くんはまだしも、わたしまで初めてメイクされた子供みたいに緊張して疲れ果ててしまっている。
「おお! 美少女!」
ふすまが開くと、最初に顔を覗かせた吉川くんがおかしなくらい声を張り上げる。いつも近くにいる人間が化粧したらどうなるかくらい見当がつくでしょうに、大袈裟な。
「うわっ、すげえ!」
五十嵐くんまでそれに乗っかることはないんじゃなかろうか。
「…………可愛い」
けど筒井さんが息を呑むようにして言ったその言葉には、さすがに動揺した。
「さあどうぞ」
神代さんが差し出した手鏡に映る『自分の顔』を見る。
《……これが、僕?》
神代さんの仕事は、丁寧だったけど大きく手を加えたわけじゃない。だからそれほど変わっているはずはないと思っていたのに。
目元がぱっちりした、つぶらな瞳。眉は濃くて凛々しいけれど、太くはないから男臭さは感じない。小さい鼻には愛嬌が漂っている。頬は薔薇色のように輝き、ふわりと優しい輪郭を形作る。桜色の控え目な唇は、楚々としながら奇妙な色香もたたえていた。
腰まで届きそうな長いウィッグを抜きにしても、鏡の中にいるのは清楚な可愛らしい女の子にしか見えなかった。着てるのは男子の制服なのに、それすらも倒錯的な雰囲気を醸し出している。
結局わたしも、鷹野くんと同じことしか言えなかった。
「……これが、ボク?」
「その一言を待っていました!」
神代さんが覇王のごとく拳を天に突き上げる。
「脱毛とか手術とかはしてないんだよね?」
まだ動揺してるのか、筒井さんがすごい質問をした。脱毛はまだしも、手術って。
「はい。夏樹きゅんがその辺は嫌がりましたので、眉を整えることすらしてませんよ。まあ、彼女――もとい、彼の素質を引き出せば、ただそれだけでこの高みに達することができるという寸法です」
途中に不穏な言葉を差し挟みつつ神代さんが応答。いや、わたし自身、『今の自分』が男なのか女なのかよくわからなくなっているけれど。
「それにしても……すごいなこりゃ」
いつになくしみじみとした口調で吉川くんが言った。
「や、やばい。これ以上鷹野のことを見ていると、俺はよろしくない趣味に目覚めちまいそうだぜ」
わたしに背中を向ける五十嵐くんの台詞は、冗談でもなんでもなさそうだった。
「でも……難しいね」
「まさか、私の手際に不満でも?」
「ううん! そうじゃなくて」
神代さんに一瞬ものすごい目で睨まれた筒井さんは、急いで言葉を加える。
「どんな衣装でどんな寸劇にすればいいか、ますます決めるのが難しくなっちゃったってこと。顔のつくりによって、お嬢様系統の雰囲気になる人とか、思いきってお色気方面に走った方がいい人とか、似合う分野が決まるものなんだけど……」
「ああ、確かに夏樹きゅんはどんな女装でも十二分にこなせる素晴らしいポテンシャルを持っていますからねえ」
(ですって。すごい才能ね)
《うれしくないよ!》
脳内漫才をしてる場合でもない。
「でも、いくつか候補はあるんでしょ? そこから絞り込めば――」
「いや、その候補がこうして鷹野くんを見てる間にもどんどん増えていくというか……」
筒井さんは、『鷹野夏樹』の女装姿から次々妄想を溢れさせている模様。
《神代さんほどストレートじゃないけど……この子もかなり変だよね》
(あるいは普通の子にそんな妄想を起こさせる鷹野くんの女装が罪作りなのか)
《あのね……》
結局ここでも結論は出ず、わたしたちは明日も筒井家で会合することを決めて別れるのだった。
(「会議は踊る、されど進まず」って言葉があったわね)
《ウイーン会議だっけ? 一八一三年?》
(残念。一八一四年から一八一五年にかけて)
《小田原評定って言葉もあるね》
(秀吉と北条の戦いよね。一五九一年?)
《惜しい。一五九〇年》
暇な帰り道に時々やるように、今日もクイズを出し合いながら帰路に着く。わたしは世界史が得意で鷹野くんは日本史が得意なので、なかなか具合がいいのである。
* * *
「お帰りなさい、夏樹くん」
「た、ただいま」
玄関を開けると、霞さんが靴入れの上を花で飾っていた。
心の準備はしていたつもりだったのに不意を突かれた形で、またうろたえてしまう。昨日からずっとこんな調子だ。
この連休、『母さん』は取引先の接待旅行に出かけていて、普段よりも家ではのんびりできるかと思っていたのに。
(花、花には何か意味があるの? 華道を習ってるとか)
《いや、特になかったと思うけど……》
よろしい、それならば世間話として流せば済むことだ。
「どうしたの、その花? 大学のサークルでやってるとか?」
《その質問は見当外れもいいとこだよ!》
(え?)
霞さんは、鷹野くんの警告にふさわしい、実に訝しげな目でわたしを見た。
「あら? 夏樹くんには話してなかったかしら? 高校の時にフラワーアレンジメント勉強してる友達からちょっと教わったのよ」
《ああ、思い出した。東京にいた頃からたまにやってて、その話をしてた》
(今さら遅いってば! で、さっきの台詞の問題点って――)
「それに、私はサークルかけもちなんて器用なことはできないわよ。児童文学研究会一筋なんだから」
(あ、そっか!)
昨夜のうちに教わっていた情報。霞さんは昔から小説や物語、中でも児童文学が大好きだとのこと。
大学も、学部は当然文学部を第一志望にしたんだけれど、実はある意味それ以上にその大学の有名な児童文学研究会にどうしても入りたくて、教育学部や社会学部、さらには法学部や政治学部まで受験してしまったという。
「え、ええと、サークルじゃどんなことしてるの?」
話を逸らすための今度の質問は不審を招くこともなく、霞さんは気さくにしゃべってくれた。
「基本は部室に集まっておしゃべりするだけなの。あとはたまに食事に行ったり飲み会に行ったり、麻雀したりカラオケしたり」
「……へえ」
たぶん呆れた表情になったわたしの顔を見て、霞さんは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「夏樹くんってばダメサークルだなんて勘違いしてない? みんな色んな本をたくさん読んでるから、お話を聞いてるだけですごく楽しいんだよ。麻雀打ってる最中に髭もじゃの先輩が、私が知らない四半世紀も前の少女小説の話をポロリとこぼしたりしてね、そういうのを参考にして後でその人から借りたり古本屋で探したりして読んでみるの。気前よく知識の金銀財宝をばら撒いてるお神輿の後ろを歩いてるみたいで、毎日が面白くてたまらないのよ」
話す口ぶりにも熱が入っていて、楽しそうなのはわたしにもよくわかったけど。
(わたしの鼻を突っついてくすりと笑う霞さんには、どんなリアクションを取ればいいのかな?)
《……無視すればいいと思うよ》
「まあ、そんなことばかりでもなくて、今は夏の発行を目指して機関誌を作っているところ。私も編集に参加してるんだ」
「ふうん」
「書評とか創作とか、この連休中にも一つか二つ書ければなって思ってて。よかったら、小説は夏樹くんにも見てほしいな」
(鷹野くん、読んでたの?)
《いや……こんなこと言われたの、初めて》
「えっと、初めてだね。そんなこと言ったの」
「うん。恥ずかしいから今までは家族になんて見せられないって思ってたけど……勇気を出さなくちゃいけないなって思うようになって」
「え? なんで?」
「私、将来は作家になりたいなって思ってるの」
そう言って霞さんはにっこり笑うと、「晩ご飯は夏樹くんの好きなカレーにするわね」などと言いながら台所に向かうのだった。