第二章 ぼんやりしてたことへのペナルティ諸々(その三)
《あの……さっきは、ごめん。言い訳するつもりはないけど、取り乱してた》
(あ……それは、わたしも同じだから)
結局衣装をどうするかの話し合いは結論が出ず、解散となった帰りのバスの中。最後部の席に腰を下ろすのを見計らって、鷹野くんが声をかけてきた。
《小学生の頃、顔のせいでオカマっていじめられたことがあって……それ以来、ああいう話題になると冷静でいられなくなっちゃって》
(断りきれなくて、ごめん)
《……しょうがないよ。僕自身でもあの状況じゃどうしようもない。まさか床に転がって駄々っ子みたいに手足をジタバタさせるわけにもいかないし》
(いや、そういう選択肢が出てくることがわたしには驚きなんだけど)
《とにかく、これ以上はぐだぐだ言わない。岬さんのやりたいようにやって》
きっぱりと宣言するその言葉はかっこいいなと思う。
わたしとしてもこの事態にどう対処すればいいのかいまいち決めかねていたわけだが。
(わかった。んじゃま、腹を括ってがんばってみようか。勝負事は本気でかからないと面白くないし)
《岬さんならそう言うと思った》
面白そうに笑う鷹野くんの声。
(そんなにわたし、わかりやすい?)
《まあ、順位がつく物事に関しては。まさか小テストのたびにあんな必死で真剣になってる子がいるなんて知らなかったよ》
(う)
この身体で初めてテストを受けた時、ずいぶん呆れられたことを思い出す。
《何せ心の中の呟きが大きすぎて、聞かせるつもりがないらしいのにこっちにまで聞こえてくるわけだから》
鷹野くんによると、こうなってからその日までの半月ほどの間、意識的に鷹野くんに聞かせる以外のわたしの声が聞こえたのは初めてだったとのことだった。
(でも、鷹野くんだってテストの最中はけっこう一生懸命だと思うんだけどな)
最初のうち、課題や宿題は鷹野くんが考えた答えを説明してわたしが筆記するスタイルをとったけれど、時間制限もあるテストとなると慣れない二人羽織の余裕なんてとてもない。わたしが自分で考えて書くし、鷹野くんもわかったものは片っ端から叫ぶように指示する。テスト中のわたしの脳内はちょっとした戦場だ。これが来月の中間テストになったら、もっとすごいことになるんだろう。
《僕はほら、考えて岬さんにものを言うことしかできないわけだし》
声に含むものは感じないけど、ホームルームの時の会話を思い出した。
(……ごめん)
この一ヶ月、朝から晩まで頭の中で会話してるわたしたち。でもそこには大きな差が一つある。一ヶ月にも渡って自分の意志で身体を動かせないことは、初日にわたしが漠然と想像していた以上にきっとすごいストレスだろう。
(わたしって、ほんとにバカだ。鷹野くんには考えなしにひどいこと言ってばかり)
唇を噛む。そうして痛みを与えても、痛むのは鷹野くんの身体だし、鷹野くんにも痛みが伝わってしまう。それもわかってるのに。
《気にしないで》
ほら。また、いつものように優しいことを言われてしまう。
(鷹野くんは、もっと怒ってもいいと思うよ。今日のこと、鷹野くんが聖人君子じゃないってわかったことだけは、安心できてよかったなって思っちゃった)
バスの外を見れば流れる車窓の景色。走っている子供たち。ゴールデンウイークが近いからかはしゃいでいるように見える。あるいは、赤ん坊を抱いているお母さん。立ち話をしているお婆さん二人。平凡な街並みの、普通の営み。
そんな中、一つの身体に二人の心が同居しているわたしたちは、表面上はともかく内面では普通じゃない会話をしている。
《そんなこと言われても、ね。朝言ったことの繰り返しだけど、岬さんがわざと僕の身体に押しかけて来たわけじゃないことくらい、よくわかってるし》
(でも――)
《正直、僕よりも岬さんの方がずっと大変なはずだよ? こっちは観客席である意味高みの見物なわけだけど、岬さんは慣れない男子の身体で慣れない立場の生活を強いられてるわけだから。『自分の身体』のことも気になるだろうし》
(…………)
改めて鷹野くんにまとめられると、ちょっと言い返すのが難しい。鷹野くんも大変だけど、わたしもかなりしんどい状況にあるのはおっしゃる通り。
《ずっといっしょに見聞きしてるものね。そこに僕まで余分な重圧なんかかけたくならないよ》
(鷹野くん……)
思わず心の中で呟く。でも、先が続かない。
わたし、このまま続けたら何か変なことを言っちゃいそうだ。そんな漠然とした予感がブレーキをかけた。
《それに、同居人と喧嘩しても何もいいことないじゃない。岬さんはゲーセンに通うとかやけ食いとかカラオケで絶叫するとか、僕と争ったってストレス発散の手段は色々あるけれど、こっちがそうなったら喧嘩相手に呪詛を囁き続けるくらいしかないわけで、そんなのは全然楽しくないしね》
おどけた口調。話題転換に、それを利用させていただく。
(わたし、その三つともやったことないじゃない。ゲームセンターなんて物騒なところには近寄らないし、食生活には気を配ってるもん)
《ゲームセンターが物騒だなんてずいぶん古い認識じゃない? それはともかくカラオケに関して否定的言動が出ないってことは、それはそのうちやるかもしれないってこと?》
(歌には、ちょっと興味あるかも。この声だと男性ボーカルの曲が歌えるし)
代わりに女性ボーカルの曲が歌いづらくなっていることは、わざわざ口に出すようなことじゃない。
《明日辺り、放課後の流れでそういうことになるかもね》
一高は県立校だけど、週休二日なんてどこ吹く風とばかりに土曜日にも補習という名目で授業がある。親は、進学校に入れたのだからそれは大いに望むところ。わたしたち生徒にしても、喜ぶほどのマゾはいなくても覚悟はできている。
ゆえに、今日貸せなかった漫画を持って来ることも、今日決まらなかったテーマを打ち合わせることも可能になるわけだ。
あれこれ話をしているうちに、バスは終点の虎山駅に着いた。
* * *
玄関のドアを開けようとしたら、鍵が開いていた。
(まさか、泥棒?)
《母さん……の可能性は低いんだよな。忘れ物なんてする人じゃないし》
音を立てないようにドアを開けると、三和土にはあからさまなヒントが一つ。
女物の上品な靴。
《あ……姉さん?》
(姉さん? 東京の大学に通ってて、近くの下宿に住んでるはずじゃなかった? って、ゴールデンウイークか!)
「あらお帰りなさい、夏樹くん」
リビングから顔を覗かせた女の人が、わたしに笑いかけた。
今のわたしより背は低い。たぶん『亜由奈』と同じくらい。女性としては普通くらいの身長。肩より長く伸ばした明るい髪はウエーブがかかっていて、柔らかな笑顔と相まって優しい印象を与える。すごく可愛い人だ。
「あ、ね、姉さん、こっちに来てたんだ」
名前は霞さん。けっこう有名な私立大の二年生。誕生日は四月十六日。血液型はA型。
春休みにわたしと行き違いの形で東京に戻っていった霞さんが今度こっちへ来るのはたぶん夏休みと、鷹野くんは推測していた。いくらなんでもそれまでには元に戻るつもりのわたしとしては、だから積極的に霞さんの情報を聞き込んでおく気にもなれなくて、結局ほとんど何も知らない。
「どうしたの、夏樹くん」
霞さんは、怪訝そうな顔でわたしを見た。
「え、ええ?」
軽い応答しただけですよ? どうしていきなり怪しまれるの?
《それ間違ってる! 姉さんを僕が実際に呼ぶ時は――》
鷹野くんの修正より早く、霞さんが口を開く。
「『姉さん』なんて堅苦しい呼び方しちゃって。いつもみたいに『おねーちゃん』でいいのに」
「あ、う、い、いや、ボ、ボクも高校生になったんだし、いつまでもそんな甘えた言い方はよそうかと思って」
《甘えてて悪かったね》
「えー、夏樹くんらしくないなー」
内と外からタイプの違う攻撃を同時に喰らう。
「そんなことで大人ぶったりしなくてもいいのにー。ほら、いつものようにぎゅってしてあげるよー」
言いながらトテトテと寄って来て、霞さんはわたしを抱きしめた。
男の子の身体になってはっきりわかったことだけど、女性の身体って男性の身体とは全然違う。華奢な体つきも、柔らかさも、あるいは匂いも。
そして今、わたしを抱きしめている霞さんは、そうした女性の特徴に溢れた身体の持ち主だった。
ほっそりした体格。なのにとてもふわりと弾力のある身体。そして全身から漂う、くらくらするような甘い香り……。
《岬さん、ぼんやりしてないでよ! こんなことされたら離れるに決まってるでしょ!》
鷹野くんに叱られて、わたしは慌てて身体を引き剥がした。
霞さんは、不思議そうな表情でわたしを見つめる。
「んー? 何か今日の夏樹くんは変だよ? 今のスキンシップも、姉弟の気楽さじゃなくて、見知らぬ異性に抱きつかれて困ってる男子って感じで、変な緊張してるしー」
なんて勘のいい人なんだろう。でも今のわたしの反応が男子っぽかったって、失礼な。わたしはれっきとした女子なのに。
「べ、別にそんなことないよ。それじゃボク、手洗ってうがいしてくるから」
この場にこれ以上留まるのはまずい。わたしは逃げるように洗面所へ向かった。
(鷹野くん)
《ごめん。連休なんだし、こうなる可能性も考えておくべきだった》
靴下を脱ぎ捨てて洗濯物のかごに放り込みつつ、頭の中で会話する。
(謝る暇があるならレクチャーよろしく。今までにない難敵よ)
普通の――というのもずいぶん変な言い方だけど――魂の憑依とか超能力での乗っ取りとか幽霊の乗り移りとか脳移植とかなら、もっと早く直面していた問題。本来のその人をよく知る人物に対してどう振る舞うか。
引っ越して来たばかり。高校に入学するところ。唯一同居しているお母さんは忙しい。鷹野くんにはごまかすための好条件が揃いすぎていて、ぼんやりしていたわたしにも責任はある。
《ばれるわけにはいかない、よね》
(お姉さんがものすごい霊能力者でわたしたちを元に戻せるかもしれないっていうなら、今すぐにでもお話を伺いたいところだけど)
《あいにくそういうことはないです》
さすがに精神異常を疑われて強制入院、なんてことはないと思うけど。元に戻る方法がわからなければ、心労を抱える人を無駄に増やす意味しかないだろう。
学校方面も家庭方面も、実に厄介な黄金週間になりそうである。わたしは思わずため息をついた。
と、鷹野くんが重たげに口を開く。
《それにしても、さっき姉さんに抱きつかれた時の岬さん……》
(ん? 何?)
《……なんでもない》
結局黙っちゃった。変なの。