第一章 一つの身体に二人の心(その三)
部屋着のトレーナーを脱いで、外出用の服装に着替える。
(ボタン、留めづらい……)
《え? ああ、女子って左右逆なんだっけ》
それでも五つや六つ留めるくらいはすぐに終わる。ジーンズを穿いて、上にはジャンパーを羽織る。
(何か新鮮。こういう格好はあんまりしたことないから)
するべきことがあると気持ちは前向きになる。まるで男装をしているような気分になりながら、わたしは鷹野くんに話しかけていた。
《普段はスカートとか?》
(うん。母親がひらひらふわふわしたものをわたしに着せたがるの)
言って、ママのことを想像する。階段から落ちたきり気を失ったままの『わたし』。すごく心配させちゃってるだろうな。
《……岬さん?》
(あ、ごめん)
気を取り直して身体を動かす。最後に鏡で確認。
(鷹野くんって、男子だけど可愛い顔立ちだよね)
男の子は苦手で、こんな間近で顔を眺めるのなんて初めて。しかしけっこう素敵な顔だから、しばしうっとりしてしまう。これってナルシストってことになるんだろうか。
《ごめん。その言い方はやめて。昔から女子扱いされてからかわれたりするもんだから、けっこう気にしてるんだ》
(あ、こっちこそごめん。でも、中学の時はわたしの周り、がさつで猿みたいな男子しかいなかったから、つい見惚れちゃった)
ちょっと尖っていた鷹野くんの声が和らぐ。
《岬さん、男子とつきあったりしてないの?》
(うん。学校じゃ、たぶん澄ましてるとか思われてたと思う。実際は、人づきあいが苦手で身構えてただけなんだけどね。そういう鷹野くんは? 東京に恋人を残してきたとか、そんなことになってないの?)
《別に、そういう相手はいなかったよ。告白されることは何度かあって、最初のうちは断ると角が立つかと思ってつきあったりもしてみたんだけど……向こうは、恋に恋するっていうのかな、自分の理想を勝手に押しつけてくるだけで、こっちは消極的な意味で断らなかっただけだから、毎回うまくいかなくて。三人ほどそんなことが続いてからは、最初から拒むようにした》
(へ、へえ……)
言う人間や言い方によっては、鼻持ちならない言葉に聞こえるかもしれない。でも鷹野くんの困り果てた口調を聞くと、むしろ彼に同情したくなる。
《でも岬さんが人づきあいが苦手って、今日知り合ったばかりの僕が言うのも変だけど意外な気がする。さばさばしてて教室じゃ元気にリーダーシップ発揮するような女の子なのかなってイメージしてた》
(全然違うよ。母親には、あなたは決断力に乏しくて依存心が強すぎるって小さい頃はいつもお説教されてたし。最近は努力の甲斐あって、そんなことは言わせなくしたけど、でも、本質的には変わってない気がしている)
《へえ、そうは思えないけど》
(今のこの状態って、二人きりでチャットしてるようなものだものね。全部の判断を鷹野くんに任せて臆病なままじゃいられないでしょ)
《ま、まあね》
あちこちの戸締りを確認。財布と携帯を持って、スニーカーを履いて、わたしは鷹野家を出ることにした。
鷹野くんの家は、マンションの八階。3LDK。
(つくづく我が家と対照的だなー)
《どんな家?》
(中古で買った築何十年だかの一戸建て。五年前にリフォームはしたけどね。どの部屋も畳敷き)
そんな会話を頭の中で繰り広げながら、マンションを出る。うららかな春の空気。気持ちよく晴れた、散歩をするにはうってつけの日和。
(さてと、ここからどうすれば『わたし』の家に行けるのかな)
《なんだか頼りないなあ》
(虎山市って一口に言っても広いもの。特に駅のこっち側はインドア派のわたしにとって完全に未知の領域だし)
それでも広い道を選んでしばらく歩いていると線路を発見。ターミナルの虎山駅が始発の私鉄だ。こうなると話は早い。
線路を辿ってすぐに見つけた私鉄駅から二駅で虎山駅へ。そこからはよく知ってるバスに乗り換えて、岬家近くまでは簡単に到着した。ここからなら歩いて五分ほどで家に帰れる。
《緊張してる? 鼓動が速くなってるけど》
おっしゃる通りで、この状態じゃ隠し事なんて何もできそうにないかな。こっちは鷹野くんの呼吸や動悸なんてわからないんだから、ちょっと不公平な気がする。
(だって、わたしにとっては歩き慣れた道だし知ってる人もちらほらいるけど、その人たちにとって今のわたしは見知らぬ男の子でしょ。変装してるみたいな気分)
それに、見慣れた風景の中にいると、自分の変化に改めて気づかされる。
(鷹野くん、身長何センチ?)
《百七十》
(そっか。わたしより十センチ高いのね)
景色の見え方がいつもと明らかに違う。すれ違う女の人の多くは、今のわたしより背が低い。
高い身長、短い髪、低い声、大きな手足。
今のわたしは『鷹野夏樹』。『岬亜由奈』じゃない。
一歩歩くたびにそれを実感させられて、落ち着かない。
でも、もうすぐ元に戻れるはず。ならこれもほんの一日の奇妙な体験として楽しむべきだろう。幽体離脱して男の子の身体に乗り移るなんて、なかなかできることじゃない。
わたしはそう考えを切り換えて、高くなった視界で周りを眺めながら、ゆっくりと我が家に向かう。
すぐ元に戻れるという考えが、根拠なんて何もない希望的観測に過ぎなかったことを、わたしは直後に思い知らされた。
酒屋さんのある角を曲がると、わたしの家が含まれる住宅地までほんの少し。
と、酒屋の店先でご主人と立ち話をしてる年配の女性がいた。うちの二件隣の山中さんだ。
横を通り過ぎようとした時、不穏な言葉が耳についた。
「――救急車で運ばれて、岬さんの奥さんたらすごく取り乱しちゃってたの」
「亜由奈ちゃん頭打ったんだってね。大きな怪我でなければいいんだけど」
「そうねえ。ご主人の話だと、英華病院に運ばれたんですって」
《……岬さん》
(う、うん)
足を速めた。山中さんたちに直接訊くのが一番早いけど、いきなり知らない男の子がそんな質問をしても答えてくれるわけないし。
視界に入るわたしの家。二階のベランダに洗濯物がはためいている。ママがわたしを起こす前に干したものだろうか。
簡単な門のペンキは、去年パパが塗り替えた。わたしもちょっと手伝った。
その門の前まで来た時、玄関のドアが乱暴に開いた。わたしは慌てて横を向き、通りすがりのふりをする。
山中さんが話していた通りに、パパがいた。
硬く強張った表情で、ぱんぱんに膨らんだバッグを抱えて出て来た。駆け出そうとしたところで一旦引き返し、開けっ放しだった玄関のドアの鍵をかける。
パパは庭の片隅の車に荷物を放り込み、慌ただしく発車して走り去った。
(パパ、今日は会社があったのに……)
《…………》
わたしのことを聞いて、急いで帰って来たんだろう。今の荷物は、たぶん病院に行ったママとわたしのためのもの。
家にもう誰もいないのは明白だった。
《歩いた方がいいと思うよ》
(そ、そうね)
近所の人に不審な少年扱いされたりするのは嫌だ。わたしはひとまず足を動かす。
《英華病院ってどこ?》
(……鷹野くんのマンションの近くの、大きな病院。脳外科の評判がいいことで有名だって、前にパパとママが話してた)
鷹野くんへ話しかけるときの「父」「母」が、いつの間にか「パパ」「ママ」になってしまっていることに今さら気づいた。