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ずっといっしょに  作者: 茶
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第一章 一つの身体に二人の心(その二)

 そのうち、喉が渇いてきた。最初はそんなの気にしてる場合じゃないと我慢してたけど次第につらくなってくる。

《飲み物、飲もうか》

 以心伝心。いや、感覚を共有してるから当然のこと。鷹野くんが提案し、わたしも従うことにした。

 部屋の外に出る。真新しくてきれいな廊下だけど、壁には書き込みのあるカレンダーなどが掛けられていて、まだ荷物の整理も終わってない鷹野くんの部屋よりは、やや生活感みたいなものがある。

 その時になって、自分が他人の家に上がりこんでいることを意識し出した。

(鷹野くん、ご家族は?)

 今度は、口には出さず心の中で語りかけてみた。

 これがもし鷹野くんに通じなかったら、彼とのコミュニケーションは人目を避けるか人目を気にしないかの面倒な二択になるところだったけど、幸いうまくいった。

《母さんは会社。姉さんは引越し直後は来てたけど、今は大学近くの下宿に戻ってる》

 たぶん、顔を見て、あるいは声に出して会話していたら、次の質問はしなかった。

(お父さんは?)

《うちは、親が離婚してて》

「あ……ごめんなさい」

 恐縮したわたしは、声に出し、頭も下げる。謝る相手もわたしの中にいるわけだけど。

《気にしないで》

 そうは言ってくれたけど、心で思って問いかけるだけの、電話よりもメールよりも手軽な会話になんとなく気持ちがうわついていたと思う。気をつけないと。

 広々としたダイニングキッチンの一角を占める大きな冷蔵庫。ドアを開ける。

(うわ)

《紅茶、嫌い?》

 色々詰め込まれている中、飲み物で特に目立っているのが紅茶の数々。鷹野家はこの飲み物がお好きな様子。

(嫌いってわけでもないけど、うんざりはしてるかな。父親が飲料メーカーで開発担当してるから、試作品とか年がら年中飲まされてて)

 牛乳を取り出しながら答える。咎められはしないので、鷹野くんも少なくとも嫌いじゃないことが判明。

《ここから東京まで通ってるの?》

(驚いてるけど、ここも一応首都圏なのよ。その会社は東京駅からの乗り換えが一本だって言うし、そんなに時間はかかんないはず)

《そっか……。母さんは、一時間半もかけて通ってらんないし家賃が全然違うからってことでここへ来たんだけど》

(一時間半や二時間で文句言ってたらよその人に怒られるんじゃないかな……。ポイントはたぶん後者だと思うけど。ところでお仕事は?)

 牛乳を飲みながら質問する。

《銀行。本店で副部長だったのが、ここの支店長になったって言ってた》

(ふうん)

 最初はちょっとびっくりしたが、うちのパパだって部長だし、友達の親にだって同じくらい偉くなっているお父さんはいる。あからさまに驚くのも却って失礼だと考え、控え目な反応に抑えた。

 それはさておき。

(じゃあ、夜までは誰かと顔を合わせることもないってわけよね。別にそんな遅くまで鷹野くんの身体に居座っていたいわけじゃないけど――)

《あ》

 その瞬間、二人同時に感じていた。

 尿意。


 もちろん、そんなことをする羽目になる前に、元に戻れるなら戻りたかったに決まってる。でも、やり方そのものがわからなければ、努力のしようもない。

 そうこうしているうちに、下腹部の感覚はどんどん耐えられないものになっていく。

《べ、別に僕は気にしないから。そ、そろそろ行った方がいいんじゃないかな?》

 声だけだけど、切迫感が明らかに高まっている。わたしにとっても他人事じゃないから気持ちはよくわかる。

 けど、十五歳の女子として、できることとできないことがあるわけで。

(た、鷹野くんが気にしなくたって、わたしが……う、うう……)

《あのね、手で触らなくても大丈夫だから。座ってすればいいんだよ》

(そ、そうなの?)

 立って、つまんで、やらなくちゃいけないものだとばかり思い込んでいた。トイレの近くには来ていたものの入る勇気を出せずに脂汗を流していたわたしは、それを救いの声のように感じてドアを開ける。

 便座が上がっていた。

(どうして便座上げてるのよ!)

 パパへの教育が行き届いている我が家ではありえない光景だ。

《そんなこと怒られても……めんどくさいし……》

 腹立たしいけど弾劾なんて後回し。短くちぎった紙で便座の端を持ち、下ろす。

《あの、座ってやるからには、外へ飛び出さないように気をつけてね》

「外へ飛び出すって何よ!」

 思わず声を荒げてしまった。

「それは、その、先っちょが変な方を向いてたりすると、そういうことが時々……」

(信じらんない信じらんない信じらんない!)

 男って、なんて変な生き物なんだろう。

 天井を向いてパジャマのズボンを下ろし、下を見ないまま腰掛ける。布地に包まれていたものが空気に晒されるのが肌で感じ取れてしまって、とてもとても嫌だ。

《あ……》

 これまで必死に堪えていたものを解放しようとした矢先、鷹野くんの悲痛な声がした。

(な、何よ?)

《あの、先っぽの皮が、汗でくっついちゃって、このままだと絶対に変な方へ――》

「どうしろってのよ! 触れなんて言わないでしょうね!」

《さっきみたいに紙越しにやれば、そんな汚くはないと――》

「嫌よ! 触るのも嫌だし見るのも嫌! ひょっとしたら今日はうまくいくかもしれないでしょ!」

 叫んで、溜まっていたものを解き放つ。

 その直後、わたしは別の意味で叫んでいた。

 十五年間この身体とつきあってきた人の忠告を無視したわたしが愚かでした、はい。


《ま、まあ、トイレにまだカーペットとか敷いてなかったのは不幸中の幸いだったよね》

(…………)

 返事をする気力もなく、わたしは下半身に穿いていたものを穿き替えると、とてつもなくみじめな気分でよそ様のお宅のトイレの床を拭くことになった。

 上半身だけパジャマなのも気持ち悪いから、そちらも着替える。その頃になると今度はお腹が空いてきたので再びキッチンへ。冷蔵庫の中に準備されていた食事をレンジで温めて食べる。

 わたしはいまだに鷹野くんの身体から抜け出せない。

 一人の身体の中に二人分の心が入って対話してるなんて、まるで――

(漫画かドラマみたいね、この状況。まるっきり同じ話は聞いたことないけど、幽体離脱して他人の身体に入り込んじゃうとか、男女が入れ替わっちゃったとか)

《ああ、よくあるね。漫画なら読み切り、ドラマならアイドルが主演で一時間半くらいの改変期のスペシャルドラマって感じ》

(そうそう。たいていは一週間とかせいぜい一ヶ月で元に戻って……)

 続けようとした言葉が止まる。

 一週間や一ヶ月は、物語の中ではすごく短い。でも当事者にとっては、数時間でも途方もなく長い。元に戻れるなんて確証がないのだから、なおさらに。

《……長期戦、覚悟した方がいいのかもね》

 鷹野くんがぽつりと言った。

(…………)

 鷹野くんの言いたいことはわかる。闇雲に過ごしていても時間を無駄にするばかりで、結局今のわたしたちには元に戻るために打つ手はない。

 それなら、当面わたしは、男の子として、『鷹野夏樹』として、暮らすための情報収集とか演技の練習とかに取り組んでおいた方が賢明なんだろう。

 だからと言って、そんな話をすぐに受け入れられるわけもなく、わたしはどうにかして事態を打開できないかともう一度知恵を絞って考えた。

 その時、ふと閃いた。

「……わたしの身体」

《え?》

 不意の思いつき。だけどどうしてここまで気づかなかったんだろう。その興奮が思わず実際の声になっていた。

(わたしの身体、『岬亜由奈』の身体、きっと気を失ってわたしの家で寝てるはずだよ。だからそこへ行けばわたし、ってわかりづらいけど、今ここにいるわたしの心だか魂だかが――)

《本来の身体に引かれて抜け出せるかもしれない、ね》

 わたしの言葉を先回りして鷹野くんが応じる。

(『わたし』の家に行こう!)

 時計を見ると、もう午後の三時になっていた。

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