第六章 ずっといっしょ(その四)
「あ、口調戻っちゃってごめんね」
頭を下げたつもりか、わたしの肩にことんともたれかかる。
「別にいいよ。やっぱりこんな時間帯には誰も来ないだろうし」
夏樹くんの頭をそっとなでながら答える。背中まで届く髪はさらさらで、とても触り心地がいい。立ち込めるシャンプーの甘い匂いは、かつてわたしが使い慣れていた、懐かしい匂い。
「でも、慣れておかなくちゃいけないもの。元に戻るまでは」
ここまで触れずにいた問題。
「戻れる、かな?」
「それは、わかんないけど……わたしは諦めないよ。いつか本当の身体で本当の岬さんを抱きしめたいから」
すごく真面目にまっすぐに言う夏樹くん。その姿がちょっと眩しくて、わたしはついつい混ぜっ返してしまう。
「そうだね。このままだと夏樹くん、ボクのお嫁さんってことになっちゃう」
「そ、そういうこと言わないでぇ」
「じたばたしてボクの胸に顔を埋めながら言っても、あまり説得力はないんじゃないかな? 今の夏樹くんだと元のボクと違って、エプロンした若奥様姿とか信じられないぐらい似合いそう」
うわ。
こうやってじゃれ合うの、すっごく楽しい。
「そんなの変じゃないの、同じ顔なのに」
「雰囲気が違うじゃないか。こないだの女装コンテストでボクの場合、ただの女装じゃなくて男装が独特の印象を与えたように」
夏樹くんはまだこっちの胸に顔を押しつけているけれど、顔全体が真っ赤になってるのははっきりわかる。『わたし』ってこんなに可愛くなれたんだと不思議な感慨に耽ってしまう。
それにしても、こんなにずっと密着状態にあると、次第におかしな気分になってくるものでして……。
「ちょっと、離れようか」
「あら? どうして?」
くっ、何もかもかわかっているくせに敢えて無邪気を装って訊ねてくるとは。
反撃の糸口を掴んだと考えたのか、夏樹くんはここぞとばかりに攻め立てる。
「岬さんは本当は女の子だもん。エッチな男の子みたいなことは考えないよね? それとももう、意識の方も未来の旦那様にふさわしくなっちゃってるのかしら?」
「べ、別に気持ちの問題じゃなくて、生理的な必然として――」
「だったら気にすることないでしょ? わたしは元々その身体の持ち主だったんだもの。今の岬さんの感覚は誰よりもよくわかってるわ。筒井さんじゃあるまいし、そんなことで怒ったりしないわよ」
あれ?
「なんでここで筒井さんの名前が出るの?」
「…………」
おや、はしゃいでたのが黙っちゃった。
えーと……もしかして。
「夏樹くん、筒井さんにやきもち焼いてたりしてるの?」
「そ、そんなんじゃないもんっ!」
力一杯否定する姿が却って不審を招きます。
「筒井さんに、ちょっと聞いたよ。キスの直後の夏樹くんの台詞。その時はまだちょっとわかってなかったけど、今やっとつながった感じ」
「…………」
黙秘権を行使されてしまいましたが、これは否定する材料もなくなったからと判断すべき気がします。
「ああ、だから前々から筒井さんの話になると刺々しかったんだ……って、あの時、夏樹くんはまだ女の子じゃなかったわけだけど? わたしと二人で男の子だったんだし」
「……でも、嫌だったんだもん。岬さんがわたし以外の人とキスするの、やだったんだもん!」
そしてこれまで以上にわたしに密着してくる夏樹くん。
どんな状況なんだろうねこれ。ほんとは女子のわたしが、ほんとは男子の夏樹くんと女子の筒井さんの間で取り合いになってたなんて。
それだけじゃなくて。
「ボクが霞さんに抱きしめられた時の、あれも?」
「……だって、岬さん、なんだかデレデレしてたもん」
「お姉ちゃんにも嫉妬してたのかい、君は」
「…………」
返事の代わりに、わたしの胸にぎゅっとしがみつく。
まあ、変な状況と言ったら最初からずっと変なんだけど。互いに本来なら異性の言葉遣いでのろけ合っている今現在のシチュエーションも、相当おかしいんだし。
……でも。
「可愛いなあ」
再び夏樹くんの頭をなでながら、思わず声に出していた。
「し、知らないっ」
いやだからそんなリアクションが自然に飛び出すところがまた……ってきりがない。
「そろそろ、顔上げてくれない? ずいぶん前から、距離が近すぎて却って夏樹くんの顔を見ることができなくなってるよ」
「……やだ」
でも声音は拒む感じじゃない。
「どうして?」
「恥ずかしいもん。目が腫れてたり、顔が真っ赤になってたり……」
「気にするわけないじゃない」
「恥ずかしいこと色々言っちゃったし……」
「それはボクだってそうだよ。まさか一生そうしてるわけにもいかないでしょ?」
逃げ道を丹念に潰し、促す。
「それに、肝心な言葉は目を見てちゃんと言いたいもの。だから、お願い」
「…………」
ゆるゆると身体を離して(と言ってもまだ膝の上にいるんだし、至近距離もいいところだけど)、顔を上げる夏樹くん。
自分の顔だとしたら確かに見せたくない状態。泣いちゃった跡は残ってるし、顔や頭をぐりぐりくっつけていたせいで髪の毛とかも乱れてるし、耳まで真っ赤だし。
でも、可愛くてたまらない。
この前まで鏡で見慣れた顔だったのに、どうしてこんな風に感じるのかな。
なんて、考えるまでもない。
「夏樹くん」
「は、はい」
その身体の中にいる、この子のことが愛おしいから。
「好きだよ。大好き」
「……!」
あ、顔を両手で隠しちゃった。
「わ、わざわざ言わないで、改まって、そんなこと……」
「でも、言わなくちゃ伝わらないことだって色々あるよね? 今朝までのボクたちみたいに」
「それは、そうだけど……」
うつむいてる夏樹くんの顎に、そっと指をかける。
「夏樹くんからのお返事も聞きたいな」
「み、岬さんだって、わかってるくせに……」
「直接はっきり言って。それと、できればこれからは名前で呼んで欲しい」
さらなるおねだりが最後の一押しとなりました。
「す……好き……亜由奈ちゃんのこと、大好き!」
「ありがとう」
抱き寄せて、またぎゅっと抱きしめる。夏樹くんも抱き返してくれた。
ああ、わたしたち、ものすごいバカップルみたいだ。そんなことを思っていたら、同じことを考えている子が目の前に。
「わたし本当はこんなじゃなかったのに……全部亜由奈ちゃんのせいなんだからね」
「そんな幸せそうな声で言われても説得力ゼロだよ」
「しょうがないもん。ずっと我慢してた反動が出ちゃったんだもん」
それはわかるよ。
二ヶ月間、少しずつ心の底にたまっていた気持ち。それが十日前に決壊して、でも、結局別の方向へ向かうこともなく……今日、こうして戻って来て、堰を切って溢れ出した。
簡単には抑えられないよね。
「だからって、高校生にもなった女の子がはしたないんじゃない? まるっきり甘えん坊の赤ちゃんだよ」
「赤ちゃんなんかじゃないもん」
もう一つ……この言葉遣いも、あてどない戯れに拍車をかけてしまっているような。
わたしは女子としてかっこいいと感じる男の子を、夏樹くんは男子として可愛いと感じる女の子を演じてる。小さい頃のごっこ遊びがいつしか本気になってやめられなくなるように、止まらなくなっている。虚構に本音も混ざり込んでいるから、なおさらに。
そんなことを続けていると、こう言ってしまうのも自然な成り行きに思われた。
「キスしようか」
「……うん」
しばしためらった後、消え入りそうな小さな声で応じる夏樹くん。
昂ぶっていた気持ちが少し鎮まる。
「あ、夏樹くんは、嫌かな? ついこないだまで自分の顔だったのとキスするのは」
「……ううん」
またためらって、でもきっぱり首を横に振る。
「あのね、変に思われちゃうかもしれないけど……今の『夏樹』の顔、亜由奈ちゃんの顔にしか見えないの。元はわたしの顔だったのにね」
「それは変じゃないよ。いや、変かもしれないけど……」
わたしを見つめる夏樹くんの顔が不安そうに曇る。
「ならボクも変だってことで、お揃いだね。今の『亜由奈』は夏樹くんの可愛い顔にしか見えないから」
曇り空から一転、快晴に。
「今度はちゃんとするから。この前の、最初の時は雑にしちゃってごめんね」
「う、ううん。あの時は筒井さんが中にいて落ち着かなかったし」
「やっぱり意識してるじゃない」
「そんなんじゃないもん!」
ぷいっとそっぽを向いちゃった。
「はいはい」
そっと頬に手を当てて、こちらを向かせる。うわ、ほっぺもすべすべしてる。やっぱり女の子の肌ってきれいだな。
夏樹くんはもう逆らわず、寄り添ってわたしを見上げる。
「や、優しくしてね」
「乱暴なんかしないってば」
何か、キス以外のことが始まりそうな台詞に苦笑。
……でも、キスのその先へ進むことになったら。
いやいや。今日いきなりそんなことになるわけもないし。そこまで考えるのはよすとしよう。
今はただ、目の前の愛おしい子とキスをしたい。深く、強く、結ばれて、二人が今この瞬間いっしょにいることを喜びたい。
夏樹くんが潤んだ瞳をゆっくり閉じる。
わたしも目を閉じて、柔らかな唇に唇を重ねた。
瞬間、激しい光のようなものが、わたしのすべてを包み込んだ。
* * *
最初、何が起きたのかわからなかった。
意識が一瞬途絶え、感覚が混乱。作動中の家電のコンセントを一度抜いてすぐ戻したような、妙な断絶と連続性。
夏樹くんから唇を離す。
「い、今の……ん?」
発した自分の声が高い。まるで女の子みたい。
そして体勢もおかしい。夏樹くんを膝の上に乗せていたはずなのに、今はなぜかわたしの方が上になっている。
いや、そんなこと以上に。
「亜由奈……ちゃん?」
目を開けたら、目の前に『わたし』がいた。
違う、正確にはわたしじゃなくて『夏樹』なんだけど、だって今はわたしが夏樹くんの身体なんだから、やっぱりそれは『わたし』のはずで……って、あれ?
「夏樹、くん?」
「うん」
目の前の『夏樹』が肯く。
「わたし、亜由奈?」
自分のことを指差してなんだか片言チックに問いかけてみると、これまた肯かれる。
ならば。
結論としては。
「元に、戻った?」
目の前の『夏樹』が怖々とした口調で言う。まるで誰かに否定されたらその瞬間に嘘になってしまうと不安がってるみたいに。
わたしは自分の身体を見下ろした。左前のブラウス。膨らんだ胸。スカート。小さな手足。頭からは、長く伸びた髪の毛のちょっと重たい感触。
「戻った、みたい」
いきなりのことで、感情がまったく追いつかない。ただバカみたいにお互いの身体を見つめ合い、時折自分の身体をしげしげと観察する。
「今のキスのおかげかな? か、かしら?」
「そうみたいね……だ、だね」
さっきまで自然に使っていた、身体に合わせた言葉遣い。それが今では違和感しかもたらさない。二人してわざわざ言い直した。
「ええと、ここ数日のことでわたしが覚えておかなきゃいけないことは何?」
「あ、それはね、……」
ねじれた話だが、さっきまで『亜由奈』だった夏樹くんから『亜由奈』として振る舞う上での情報を入手。お返しにわたしもここ最近の『夏樹』に関するデータを教え込む。
そんなことをしているうちに、実感がやっと追いついてきた。
わたし、『わたし』に戻ってるんだ。戻れたんだ。
と同時に、さっきまでの痴態を思い出してしまった。わたしと夏樹くん。親が見たら川に走っていって身投げしそうなことをしちゃってた……。
顔が熱くなる。今になってとんでもなく恥ずかしくなってきた。
「亜由奈ちゃん……あ」
わたしの顔に気づいて、夏樹くんまで顔を朱に染める。
「さ、さっきまでのじゃれ合いは、ただのおふざけだったんだからね」
「う、うん」
「あ、あんなこと、ほいほいやったりしないのよ、わたし。それは、その、な、夏樹くんだってそうでしょうけど」
「う、うん」
「え、ええっと、あれは、二人だけの秘密だからね!」
「う、うん」
しどろもどろに言い募るわたしと、壊れたロボットみたいに同じことを繰り返す夏樹くん。冷静に考えれば、秘密も何もわたしたちのこの話をする相手なんてごく限られているし、その数少ない相手である彼女たちにこんな話をするわけがないんだけど。
階段は半ば吹き抜けだから、下の階が徐々に騒がしくなっていくのがよく聞こえる。久しぶりにはめた(はめていた)腕時計を見てみれば、もうちょっとで朝のホームルーム。
「そろそろ、行かなくちゃいけないわね」
立ち上がり、制服についた埃を落とす。夏樹くんもわたしに倣う。
「そうだね。あの、わかんないことがあったら、僕ができるだけフォローするから」
「ありがと。その時は頼むわ」
昨日まで没交渉だったわたしたちが急接近なんて、みんなにはどう思われるかな。
そんな不安が、けれど、どこか面白くもある。
今日からわたしは女子高生として、本当の自分として、恋ができるんだから。
わたしは夏樹くんに笑いかけた。
「夏樹くんは夏樹くんで大変だと思うけど、がんばろうね」
「うん」
元気に肯いて、それから夏樹くんはちょっと改まった。
「ん?」
「ほら、この状態だと、僕たち初対面だよね。だから……はじめまして、岬亜由奈さん」
折り目正しくきちんと頭を下げ、夏樹くんは微笑んだ。
「あ、そうか」
わたしも今の自分にふさわしく、作法に則った優雅な礼を披露する。いや、別にその手の家元に習っているわけじゃないけど。
「はじめまして、鷹野夏樹くん。これからもよろしくね」
ちょっと恥ずかしいけど、さらに一言付け加える。
「ずっといっしょに」
「……うん」
夏樹くんがわたしを抱き寄せた。
でも近づきそうになったその顔を、わたしは手で押さえる。
「ど、どうしたの?」
「キスは、やめときましょ。十数分で元の木阿弥なんて願い下げだから」
「あー、それもそうだね」
階段を降りようとして、屋上に通じる扉の窓から射し込む光に気づく。
「あ……」
「うわ……」
二人で振り返ると、厚い雲を断ち割るように太陽が姿を覗かせ、明るく強い光を下界に惜しみなく放散している。
わたしは柄にもなく、何かに祝福されているような敬虔な気持ちになった。