第六章 ずっといっしょ(その二)
最後の授業が終わると、今日もまた一目散に教室を出た。
すれ違いそうになった時、『彼女』が口を開けてこちらにちょっと手を伸ばしかけ、でもそれができずに他の子たちに囲まれるのが見えた。
マンションの最寄り駅に着いた時、背中をポンと叩かれた。
「つ、筒井さん?」
「そんな変な顔することないでしょ。友達の家に遊びに行くくらい、おかしなことじゃないじゃない」
「その友達に打診もしないでこっそりついて来るってのは、おかしなことだと思うけど」
こちらの抗議は平然と無視される。こういうところ、女子って男子よりよっぽどえげつない。
マンションまで行くつもり満々のようで、追い払えそうにない。しかたないので並んで歩く。降りそうで降らないどんよりした曇り空が、今の心理状態とやけにシンクロしていて嫌な感じ。
「それにしても一高から遠いのねー。岬さん家とは大違い」
「関係ない人の名前出さないでよ」
「へえ? そのわりには帰り際もきっちり観察してたようだけど?」
「別に」
「あの一瞬の二人の眼差し、恋愛ドラマのカップルみたいだったよ。あいにくあたし以外に理解できるギャラリーはいなかったわけだけど」
「……恋愛ドラマなら、ああいう場面でどっちかが思いきった行動を取るものでしょ」
「まるで、思いきった行動を取って欲しかったみたいだね?」
「今日はずいぶん絡むね」
益体もないことをしゃべっているうちに、マンションに着いた。
エレベーターに乗り込もうとすると、後ろからやけに弾んだような調子の声。
「そうだねー。あたし、もしかしたら嫉妬してるのかも」
「……誰に?」
「本当の夏樹くん。あーごめん、キミに言わせれば『亜由奈ちゃん』だよね」
閉のボタンを押そうとした手が止まる。
「ほら早く閉めて閉めて。半分往来みたいな場所で立ち話する話題じゃないでしょ」
「だってずるくない? あたしはキミに告白した初日に玉砕したのに、『彼女』はずっとキミの関心を惹きまくってるんだよ?」
部屋に上がり込むと、筒井さんは勝手に冷蔵庫を開けて紅茶を出すとこちらへ渡す。
当てつけ気味に冷蔵庫を開け直して牛乳を選んだ。
「その、だって、ボクは本当は……」
でも反論しようとした言葉は止まってしまう。
「今さら女だなんて言わないでよね。『彼女』に身体取られちゃって、今はもうれっきとした男の子なんでしょ?」
押しの強い語調で言うと、彼女はぐいと詰め寄ってきた。
「キスしよ?」
「あの、ちょっと、それは」
「どんな理由でためらうの、もう戻れないよーってすねちゃってるボクちゃん? キミは男なんだから、あたしのアタックに応じても何も問題ないじゃない」
「…………」
霞さんだけでなく、筒井さんにも挑発されている。
今のままでも構わないんじゃない? でも問題だと感じてるなら、ちゃんとアクションを起こせよ。……たぶん、そんな意味の。
「正直、今のキミはそんな好きじゃない。中身とは関係なしに、今やってることがガキっぽくて女々しいからね。でもまあ、顔は相変わらず美形だし、別にキスだけでなく、その先まで行くことになってもノープロブレム」
言いつつ、ブラウスのボタンを外そうとしている。
ボタンにかかった指が、震えていた。
「ス、ストップ!」
「怖がらなくても大丈夫だよ。あたしだって予習してるんだから、男の子初心者のキミにわかんないところがあっても、こっちがリードして――」
ちょうどそこで、玄関のチャイムが鳴った。
「は、はい!」
これ幸いと、玄関に向かう。まさか後を追ってきたりはしないだろう。
「それは何?」
リビングに戻ると、さっき水を差されたせいか、筒井さんは服装を直していた。
宅配便の人が持って来たのは、小さい封筒に入った冊子。
「霞さん――お姉さん――から送られてきた漫画だと思う。その……あの子の気持ちを理解する上で役に立つからって」
これまでに姉弟から聞いていた情報をざっと説明する。
「へえ」
昨夜聞いた時は送られてきても困ると思っていた。受け取っても封をあけるかどうかはわからないとも。
でもこの状況だと、これを読む以外に道はなさそう。さっきのドタバタを繰り返すのは真っ平なので。
封を開けると、中からは漫画の単行本が一冊滑り出た。少し汚れていて、裏表紙には百円の値札シールが貼ってある。古本らしい。
弟が泣いて嫌がった本をわざわざ単行本で買ったりはしない。つまり、今回のためにわざわざ古本屋で探してくれたのだろう。
「それって、小学生用の学習雑誌連載のやつ?」
「知ってるの?」
「いや、レーベルと絵柄から推測しただけ」
確かに、このレーベルは本来少女漫画と縁遠いので、その推測は極めて妥当。
「十年ほど前に連載していたって話だけど……」
「単行本化されたってことは、人気があったってことだね。学習雑誌の漫画って滅多に本にならないし」
「そうね。……そうだね」
「いちいち言い直さなくていいってば」
突っ込みには耳を塞ぎ、ソファに腰を落とすとページを開いた。
物語は、主役の少女(小学四年生)の兄が、交通事故で死亡したところから始まる。
でも彼の魂はなぜか、少女の持つ携帯電話のストラップに宿り、彼女とは心を通わせることが可能になった。
そして妹がピンチになるたびに、兄はストラップから飛び出して彼女や周囲の誰かの身体に乗り移り、超能力めいたパワーを発揮して危機やトラブルを切り抜けるというのが序盤の展開。
気になる男子や霊能力を持つ同級生も絡んで、基本的に明るいコメディタッチで進んでいた物語は、でも中盤以降、次第に空気を変えていく。
乗り移りをするたびに薄れていくようになってきた兄の霊。それどころか、誰もが――主人公である妹までが――彼に関する記憶を徐々に忘れていくようになる。彼が生きていたこと自体が、写真や記録からも消えていく。
終盤に登場する僧侶が解説する。輪廻の輪から外れたことと、そんな不安定な立場で無理に力を使っているせいで、魂そのものが消滅の危機に瀕していると。そこで成仏のための準備が整えられるのが、最終回一つ手前。
なのに最終回、少女を過去最大の危難が遅い、彼は最後の力を振り絞って愛する妹を救うと、そのまま妹の魂の中に溶け込んで消えてしまうのだった。
エピローグ的な最後の二ページ。少女は生まれた時から自分が一人っ子だったように思い込んでいる。親も友人たちも関係者も、『彼』がいたことなどまったく覚えていない。少女の家からは、兄がいた痕跡は何一つ残らず消え失せていた。
ただ一つ、少女が『以前』嫌いだった、そして『彼』が好きだったコーヒーを、今の彼女が好んで飲むようになったことを除いては――。
「…………」
最後まで読み終えて、わたしは黙り込んでしまった。
「……ええと、時々、こういう物語ってあるよね。読者の期待を裏切ることに熱心なせいか、妙にシビアでやるせない終わり方になっちゃうタイプの話。絵は上手で丁寧だし、盛り上げ方は巧みだし、上手いっちゃ上手いんだけど……きっついねー、これは」
ずっと後ろから覗き込んでいた筒井さんが、テレビのコントを論評するような軽い口調で話し出す。
「序盤から出てた霊能者の同級生も仏教系だったし、世界設定としては統一感が取れてるかな? でも――」
「……夏樹くん、六歳でこれ読んだんだね」
単行本の奥付を確認して、呟いた。
「あー、そりゃ泣いちゃうわ」
「……夏樹くん、記憶喪失の話が嫌いだって言ってた。あと、ゾンビや吸血鬼が出る話とタイムパラドックスとか時間が改変されるストーリーも嫌だって」
それらが嫌いな理由、今ならわかる気がする。
「ふむ。記憶喪失は考えるまでもないけど、他は?」
「……たぶん、人格とか、性質とか、記憶とか、そういうものが操作されて、別人みたいになっちゃうことが」
「で、一週間前のあの時、彼は大事に思っている亜由奈ちゃんがそんなことになりかねないという不安に駆られていたわけだ」
「…………」
「そりゃ、乱暴な手段を使ってでも、避けようとするんじゃない? ほら」
単行本のページを開いて筒井さんが指し示すのは、『もう少しくらいなら大丈夫、そんな風に考えたりするんじゃなかった!』という台詞と、泣きじゃくる女の子のアップ。
事態がとことんまで切羽詰まってからの、少女の後悔。でも直後には、その後悔すらも彼女の記憶からは消え去ってしまう。
泣きじゃくるその子の表情が、なんだか今の『亜由奈』がこちらへ向ける顔とかぶるような気がした。
「……今、変なこと言わなかった? 『大事に思ってる』とかなんとか」
「何を今さら……って、あ、夏樹くん、岬さんにはちゃんと伝えてなかったの?」
「だから何を」
「あたし、入り込んできた夏樹くんに開口一番言われたんだけどなー。まあ、向こうもあたしの身体に入ってるなんてあの瞬間はまだ気づいてなかったろうから……つまりあれは確実に岬さんに向けて叫んでいたはずの台詞なんだけど」
「だから、何を?」
「『キスなんかしないで!』って、もうエクスクラメーションマークが十個くらいつきそうな勢いで」
本人に直接叫ばれたみたいに、リアルにその声が想像できて。
一瞬で顔が真っ赤になった。
「あら、わかりやすい」
「べべべ別に! そ、そんなの、たたた単に、自分の身体が勝手に使われるのが嫌だったからかもしれないでしょ!」
「ほうほう。まあ、理屈と膏薬はどこにでもつくって言うしね」
にやりと笑われる。なんだかもう、完全に筒井さんが優位に立っていた。
「今から連絡する?」
携帯を取り出して訊いてくる。
「……ううん。自分でメール送る。まだちょっと気持ちは落ち着いてないから、会う前に一晩くらい時間欲しいし」
「オーケー」
筒井さんは立ち上がって伸びをした。
「んじゃ、帰るね。……これでようやく、岬さんとまともに友達づきあいできそうな気がするよ」
「さっきはもっと変な関係に持ち込もうとしたくせに」
反論したら、あっさり返された。
「いや、本気で抱きつきでもされたら急所蹴り上げて逃げるつもりだったし」
その言葉に、わたしは思わず股間を押さえた。
「そ、そういうの、脅しでも言わないで。体育のソフトボールで、ゴロが直撃したことがあって……」
「あらら、岬さんそんな初体験はもう済ませてたんだ」
「変な言い方しないでよ!」
「ね、ね、どんな痛み?」
他人の不幸は蜜の味とはよく言ったものである。
「……生理の時の痛みが、いきなり、一瞬で、一箇所に集中する感じ」
「うわあ……」