第六章 ずっといっしょ(その一)
梅雨入りの翌日、『彼女』は学校にやって来た。
「岬亜由奈です。その、階段から転げ落ちたらいきなり六月になっちゃってて、わたしもびっくりしてます。ちょっと来るのが遅くなっちゃいましたけど、これからよろしくお願いします」
教壇で先生の横に立った『亜由奈』がしゃべり出すと、教室の張りつめた沈黙が次第に緩んでいき、最後に少しぎこちなく頭を下げた時にはお義理どころではない拍手に包まれるほどだった。
はにかむような笑顔。控え目な物腰。病み上がりで出遅れた女子としては、実に無難なスタート。あれなら浮いたり嫌われたりすることもないだろうな、と思う。
病院での検査とか衰えていた体力の回復とかでさらに一週間ほど休んだ後に、『岬亜由奈』は初登校を果たした。健康面には特に問題もなくて順調とのこと。記憶に多少障害が残ったということにして、ママやパパやご近所の知識が不足してるのはごまかしているそうだ。
これらは全部筒井さん情報によるもの。彼女はあれからうれしさのあまり卒倒しそうになったママの介抱をしたり病院へ向かうタクシーの手配をしたり、色々活躍したという。
ボク自身はあの日以来『亜由奈』とまったく話してないまま、今日を迎えていた。
「顔立ちは美人って感じだけど、雰囲気はずいぶん柔らかくて可愛いな。ありゃ人気が出るぞ」
吉川くんが隣の席からくだらないことを話しかけてきた。五十嵐くんなんて、ポーッと『亜由奈』の立ち姿に見惚れている。
「岬さん、お席はこちらですわ」
神代さんが委員長として『亜由奈』を席に案内してる。教壇から大した距離でもないのにやたらベタベタ触っているのは、怪我していたことを気遣ってなのか、もっと別の思惑とか煩悩とかによるものなのか。
「ありがとう」
神代さんに微笑みかける『亜由奈』に、教室がまた沸いた。
そんな風にして『彼女』が席に座る瞬間、ボクと視線が合う。
ボクは反射的に目を逸らしたから、『彼女』がどんな表情をしたかはわからなかった。
昼休み、最近のボクは五十嵐くんと吉川くんだけでなく、学園祭の縁で筒井さんや神代さんともいっしょに昼食をとることが多くなっていた。
だから、こうなることも事前に予想しておいて、教室を離れるなり何なり適切な対応をあらかじめ考えておくべきだったんだけど。
「こちらが吉川くん、彼が五十嵐くん、そしてこちらの美少年が夏樹きゅんです」
神代さんがボクたちを紹介し終えると、委員長に昼食を誘われた新たなクラスメートはにこやかに笑いかけてきた。
「朝も言いましたけど、岬亜由奈です。よろしくお願いしますね」
ボクが亜由奈だった時ならまず見せなかったフレンドリーな笑顔。相手の警戒心を解くにはうってつけ。
朝、家を出る時にどれだけブラッシングに時間をかけたんだかと言いたくなる、さらさらと流れるような長い黒髪。自然に分けた前髪と形の良い眉の下、落ち着き払った瞳が周囲を眺めている。本来の垂れ気味な目の形と相まって、とても温和な印象を振りまいていることだろう。
ボクが中学時代に見せていた、周りと距離を置き、ひどい時には相手を睨みつけるようだった、そんな尖った目つきとは全然違う。
長らく床に臥せっていたにしてはこけていない頬とちょっと低い鼻は親しみやすさを演出し、少し大きめの口はゆったりと笑みを形作っている。
正真正銘初対面の女の子なら、男の子になって二ヶ月半のボクもあっさり引っかかっていたかもしれない。
でもあいにく、ボクは『彼女』の中にいる相手をよく知っている。だからごまかされたりはしない。
にこやかに談笑を展開するみんなには悪かったけど、ボクは通り一遍の挨拶を済ませると自分の食事に専念するだけだった。
だから『彼女』がどんな顔でボクを見ていたかは知らない。
「ごめん、気が変わったから、今日は帰らせてもらうね」
「お、おお、んじゃまたそのうちな」
放課後はカラオケでも行こうかと朝のうちは話していたけれど、もうとてもそんな気分にはなれない。
最後の授業が終わるとすぐ、誘ってくれた吉川くんに断りを入れ、鞄に教科書とノートを詰め、そそくさと席を立つ。
なのに、ボクに向かって来る、筒井さんと『彼女』。
「あの、夏樹くん――」
「ごめんね、今日は用事があるから」
適当な言葉で筒井さんをかわし、廊下へ。
すれ違いざま、筒井さんの後ろに控えていた『彼女』の顔をふと見てしまう。
足を速めた。男子の足に病み上がりの女子がついてこれるはずもない。
だけどボクはスピードを緩めず、走るように、逃げるように、学校を飛び出した。
でも、どうしてボクが逃げなくちゃならないんだろう?
どうしてボクが、『彼女』の悲しそうで寂しそうな表情に、負い目を感じなくちゃならないんだろう?
自問しても答えなんて出るわけがなかった。
* * *
マンションに帰ると、自室にこもって本を読む。『一人』になって以来、ずいぶんたくさん読んだ気はするけれど、ほとんど内容は覚えていない。
外では、帰宅してから降り出した雨がアスファルトを執拗に叩く。時折走り抜ける車が水音を立てる。
一人で夕食を終えてしばらくした頃、携帯が鳴った。
霞さんからだった。
「もしもし」
「こんばんは、亜由奈ちゃん。元気だったかしら?」
「……今のボクは夏樹だよ、おねーちゃん」
答えると、霞さんはわざとらしいため息をつく。こういうところ、この姉弟はよく似ている。
「そろそろ機嫌直したら? 夏樹くん、学校に来たんでしょ?」
「どうして知ってるんですか?」
入れ替わり状態に陥ったことについて長文のメールを送りはしたけれど、それ以後こちらからは何も伝えていなかったのに。
「昨夜、夏樹くんが電話してくれたもの」
「……ああ」
その可能性を思いつかなかったなんて、抜けている。
「だから、私は両方から話を聞いたのよ。その上で言うけど、亜由奈ちゃん、夏樹くんと仲直りして、元に戻る方法をみんなで考えるようにしない?」
「…………」
「あなたが怒ったのも無理はないと思うわ。でも、夏樹くんは夏樹くんで、あなたとは違う不安を早くから抱えていて、ある意味必死だったのよ」
「……わたしの心のこと、ですか?」
「そうよ」
嗜好や行動パターンの変化。こうなる直前の夏樹くんが、恐る恐るわたしに突きつけてきた問題。この身体に入ってひと月ほどで兆候が見え始めていたという、その言葉が真実なら、霞さんの言う通りではあるだろう。けど反論はある。
「でも、あれは今じゃすっかり昔の感覚に戻っちゃいましたけど」
この一週間は、紅茶を真っ先に飲むことも家の中で裸足になることもない。皮肉なことに、今になってわたしは『亜由奈』らしさを取り戻しつつある。
「その場合、二つの可能性が考えられるわね。一つは夏樹くんの考えすぎ」
「考えすぎであんなこと言われたくないです」
一週間経った今でもはっきり思い出せる、冷たい声。あれがまるっきりの演技だったなんて、とても信じられない。だとしたら夏樹くんはどれほどの名優だろう。
「もう一つの可能性としては、二人の心が離れたから。夏樹くんの心の影響から解放されたことで、あなたがあなたらしさを取り戻せたってことはないかしら?」
問いかけられて、返答に詰まる。
「……可能性なら、あるかもしれませんね」
不承不承認めざるを得なかった。
だけどそれは、わたしたち二人がいっしょだったことがよくなかったと言われているみたいで、とても面白くない。だからわたしは抗弁した。
「でもそんなの、今までだって大丈夫だったんだし、あんなひどいこと言ってまで――」
「今日ね、漫画を一冊あなたに送ったの」
「漫画?」
「うん。前にちょっと言った『ひみつのストラップ』……夏樹くんから詳しい話はまだ聞いてないままだったんじゃない?」
「え、ええ」
「私が電話で長々説明するよりは、明日にでも届くはずのそれを直接読んでもらった方が早いと思うの」
「……はあ」
「夏樹くんはまだ小学校に上がる前だったんだけどね、毎月読んでたそれの最終回を読んで、わんわん泣いちゃったの。亜由奈ちゃんもそれを読めば、一週間前の夏樹くんの気持ち、少しはわかってくれるんじゃないかと思う。同じ建物でも右から見るのと左から見るのとじゃ印象が違っちゃうことってあるでしょ?」
「…………」
「私としては、やっぱり二人に元に戻って欲しいなあって思うのよ。そうしないと最後の五十ページが破けた長編小説みたいで、傍で見ているこっちも全然落ち着かない」
「…………」
……そりゃ、わたしだって。
「だから、諦めないで、力を合わせるためにも、まずは話し合ってもらいたいの。今のやたら突っ張っている亜由奈ちゃんも、女の子の声でものすごくしょんぼりしていた夏樹くんも、可愛いって言ったら可愛いんだけど、ね」
「…………」
最後のくだりは、霞さんなりの挑発なのだろう。
でもそれにもきちんとした返事ができないまま、電話を切った。
外の雨音は相変わらず耳障りだ。
* * *
登校二日目。今日も『彼女』はクラス内で人気を高めていった。
休み時間のたびに女子が『彼女』の席に集まっては楽しく談笑する。長期欠席していたという物珍しさだけでなく、すでにクラスの新たな人気者というポジションを獲得しそうな勢い。
男子に対しても気さくに話しかけるから、好感度は全方位に対して上がりつつある。霞さんの「しょんぼりしてた」なんて証言が疑わしく思えるほどのほがらかな笑顔。
「いやはや、大した名優だよね」
四時間目は芸術の選択科目なので教室から移動。五十嵐くんと吉川くんは美術を選んでいるので、音楽室へ向かう廊下でこうして筒井さんが声をかけてきても、聞きとがめる人はいない。
そして離れたところでは、『彼女』がたくさんの女子に囲まれている。『彼女』も音楽を選択しているのだ。
「二ヶ月みんなのことを見ていたっていうアドバンテージはあるにしても、慣れない身体と慣れない立場でがんばってるって思わない?」
筒井さんと目を合わせないまま答えた。
「……元々そういう趣味があったんじゃないの。念願叶ってはりきってるのかもね」
ひどいことを言ってる。口にした端から後悔する。
でも筒井さんは軽く受け流した。
「それはあたしにはわかんないけどさ。それだけであんなパーフェクト美少女は演じきれるもんじゃないよ。きっと彼、――」
「彼女」
「……彼女、元に戻った時に過ごしやすいように、って環境を整えてくれてるんじゃない? 話をしてるの聞いてても、『頭を打った後遺症で記憶に混乱が』云々ことあるごとに繰り返してるのは、将来への布石にしか聞こえないしね」
「…………」
「あたしがああなる前のあの子と実際に話したのはほんのちょっとだけどさ、今のあれが自分を押し殺してる芝居だってことくらいはわかるよ」
「…………」
廊下横の階段に曲がる時、筒井さんの顔を見てしまう。
彼女もまた、どこかつらそうな顔をしてた。
それが自分の態度のせいなのは、わかっている。
わかっているけど……。