第一章 一つの身体に二人の心(その一)
救急車のサイレンが近づいて来る。
と思ったら遠くなっていく。
目を開けた。
わたしは横になっていて、布団と毛布を頭からかぶっているから周囲の様子はわからない。ただし全身には痛みも何もない。
「夢……?」
呟いた声は妙に低くて、軽く咳払い。
ひどい夢。これも自己嫌悪の影響なんだろうか。
それにしても……今くるまっている布団と毛布は、いつもわたしが寝てるものとは違う気がする。手触りとかそれ以前に、匂いが違う。汗臭い。
敷布団の感触も別物だ。これってもしかして、ベッドじゃなかろうか。
温かな布団から顔を出して、外界の様子を観察する。
わたしは見知らぬ部屋にいた。
「どこよここ?」
まだ声はおかしいが、それ以上にわたしの注意は周囲へと向けられる。
ぬいぐるみも何もない殺風景なフローリングの部屋。壁際に置かれたこのベッドと、ベランダ近くの机と椅子。ベッドと反対側の壁に置かれた小さなクローゼット。その他には片隅に立てかけられた鏡と、部屋のあちこちに積み上げられたダンボールが数箱だけ。広さはわたしの部屋と同じ八畳のようだけど、体感的にははるかに広い。
ベッドから床に足を下ろして、わたしはさらに驚いた。
水色の、味も素っ気もないパジャマの上下。これも一度も着たことがないけど、それはまだいい。
ズボンの裾から突き出ているわたしの足。裸足なのもわたしの習慣に反していてそもそもおかしいが、もっと大きな問題がある。
身長のわりにはちょっと小さめな二十二センチ。それが本来のわたしの足。
なのに今、わたしの足は明らかに何センチも巨大化していた。そればかりか形そのものが大きく違っていて、がっしりしたものになってしまっている。
まるで……パパや、同級生の男子の足みたいに。
わたしは、部屋の隅へ駆け寄った。
壁に無造作に立てかけてある、細長い鏡。
でもそこに映る姿は、予想とは違い――いや、ある意味では予想通りに――わたし本来の姿ではなかった。
可愛くて、おとなしそうで中性的な顔立ちの、でも、紛れもない、男の子。
たぶんわたしと同い年くらい。女子のショートカットほどの、男子にしてはやや長めの髪形。大きな瞳の、下品でない整った顔のつくり。隣の席にいたらちょっと意識してしまうかもしれない。
けど、鏡の向こうに映っていい顔じゃない。
だって、わたしは女の子なんだから。男の子のわけがないんだから。
ほんのさっきまで、自分の家の布団で寝ていて、ママと言い争いして、階段から転げ落ちて……いつも通りの、とは言えないけれど、でもありえなくはない出来事。
なのにどうして今、わたしは知らない部屋で知らない男の子になってしまっているの?
混乱した頭の中で、それでも色々な可能性を考えて、目の前のありえない状況を理解しようと必死になる。
まださっきの続きの夢を見ているの? それともこれは階段から落ちて頭を打った後に見ている夢?
でも手のひらが触れる鏡の硬さも、足の裏から伝わるひんやりした板張りの床の冷たさも、とても夢とは思えない。わたし、カラーの夢って見たことないし。
もしかして誰かが、わたしの寝ている間に長い髪を切ってメイクしたとか?
いや。たとえそんな悪質な悪戯をされたとしても、こういう顔にはならないはず。顔立ちそのものがかなり違う。それに部屋の説明がつかない。
まさか、誘拐して整形したとか?
いや。仮にこれが誰かの悪意ある犯罪だとしても、簡単にできるわけがない。……整形とか、こんなことまでは。
見下ろせば、完全に平らな胸。この前Bカップになった膨らみはどこにも存在しない。
そしてそのさらに下。外から見ても微妙にわかる『それ』がわたしの股間につながっていることは、わざわざ手で触るまでもなく、確かに感じ取れた。
鏡の中の『彼』は、ひどくうろたえた表情。傍から見る分には情けないと斬って捨てられるけど、それが今の『わたし』の顔なのだ。
そんな風に鏡を見つめて、どれくらいの時間が経った頃だろう。
《あの……君は、誰?》
わたしの頭の中に、不意に声が響いた。
* * *
息を呑み、周囲を見渡す。部屋の中には誰もいない。すると再び声がした。
《僕の声、聞こえた? なら答えてくれないかな、君は誰? どうして僕の身体を勝手に動かしているの?》
実際に耳に聞こえるわけじゃないようだ。でもその声は、男子の声に聞こえた。声変わりは済んでるけど、やや高めの声。
わたしは鏡に向かって声をかける。呼びかける声によく似た、男子の声で。
「あなたが、この身体の……持ち主?」
うまい表現が見つからなくて、変な言い方になってしまった。
《う、うん》
心なしかひるんだように、声が答える。臆病なのかなと一瞬思ったが、わたしの正体がさっぱりわからなくて不安なんだろうと気づいた。
自分の中から他人が話しかけてくるなんて、まるで漫画かアニメかライトノベルの一場面みたい。もしこれが『わたし』の部屋で『わたし』の身に起きたことなら、まずは自分の正気を疑ってみるところだけど、すでに身体が変わるという最大級の異常事態を経験したわたしにとっては、今さら頭の中の声を受け入れない理由もない。
でも、『彼』にとってはそうもいかないだろう。
「あの、わたしは怪しい者じゃないから」
怪しい人間が一番言いそうな台詞。慌てて軌道修正する。
「えっと、わたしの名前は岬亜由奈。……学生」
中学生と高校生、どちらが今の立場かわからなくてまた言葉が滞る。
《女の子?》
「うん。この四月から高校生。十二月四日生まれの射手座。血液型はAのRH+で、動物占いはこじか」
《いや、あの、占い用のプロフィールはわかったから。けど、そうか、僕と同い年なんだね》
呆れたような声が返ってくる。まあ、相手の不安が少しは取り除けたようで何より。
「そうだ、ここはどこ? わたしは三月まで虎山二中に通ってたんだけど……あ、虎山ってわかる?」
ターミナル駅があって新幹線も停まる、県内ではそこそこ大きな市。でももしここが県外だったら、相手が知らなくてもおかしくないだろう。
《虎山は知ってる。この市でしょ? うちはこないだ引っ越して来たばかりなんだ》
「ああ、近所なんだ」
《近所……なのかな? この近くには虎山三中があるって聞いた気がするけど》
「あ、けっこう遠い」
三中となると、わたしの家とは駅を挟んで市の反対側。行ったことはないけど、小学校の社会科で虎山市の地図を見せられた時、大きな私立病院のそばにあったことは覚えている。さっきの救急車は、そこへ向かっていたんだろう。
《それで、どうしてこんなことに?》
「わたしにもわかんないんだけど……今朝目を覚まして、階段を降りようとしたら転んで落ちて、気がついたらここにいたの」
ママとのちょっとした喧嘩は言わなくていいだろう。
《幽体離脱ってやつ?》
「ああ、そういうことなのかな。だから、別にあなたの身体を乗っ取ろうとする宇宙人でも精神だけタイムスリップした未来人でも他人の身体を操れる超能力者でも成仏できない幽霊でもないから」
《う、うん。……そんな可能性、考えもしなかった》
わ、さっき以上に呆れたような声音。この「会話」方式だと目の前に相手がいないからなんだか不安でどんどんしゃべっちゃうけど、意識的にセーブした方がよさそうだ。
「ぺらぺらぺらぺらごめん。でもほんとに、自分でも何がなんだかわかんなくって」
《そうみたいだね》
ともあれ、相手もどうにか納得してくれた様子。
「あなたの名前は?」
《僕は鷹野夏樹。鳥の鷹に野原の野、夏の樹木》
「鷹野夏樹、ね」
遅ればせながらわたしも、自分の漢字を宙に書きつつ説明する。
《岬亜由奈さん、か……。その、よろしく》
「こ、こちらこそ」
真面目な挨拶ではあるけれど、傍から見てたら笑うしかない姿だろうなと思う。他に誰もいない部屋で男の子が一人で頭を下げているのだから。
《それで……岬さん、僕の身体から出て行くことはできないかな?》
いつまでものんきに自己紹介していてもしかたない。確かに一番の問題はそこだ。
「それが、どうやって入ったかがわからなくて……」
もちろんわたしだって鷹野くんの身体に入ったままでいたいわけはない。出ろ出ろと念じてみる。
……一向に出られそうにない。
「鷹野くんは、今どんな感じなの?」
《見たり聞いたり五感は全部感じるけど、身体を動かすことは全然できない》
それはかなり嫌な感覚だろうなと思う。早くどうにかしないと。
でも気持ちとは裏腹に、何分経ってもわたしは鷹野くんの身体から抜け出せない。体勢が悪いのかとベッドに横になったり、目をつぶったり、息を止めてみたり、思いつく限りのことを試したけれど状況は変わらないままだった。