第五章 一つの身体に一人の心(その三)
通されたわたしの部屋。二ヶ月ぶりのその部屋は、あの日と何も変わっていない。
そして布団の上には、『わたし』が眠っている。
《これもある意味、はじめまして、だね》
(ど、どうも)
それにしても、自分で『自分』の身体を見下ろすというのも落ち着かないものだ。寝てるからまだマシだけど。
目を閉じて、胸の辺りが規則正しく上下している。病人っぽく見えないのは、ママやパパや親戚のみんながケアしてくれているおかげなんだろう。
二ヶ月間切ってない髪の毛は、いつもよりもさらに長くなっていた。
《岬さん……きれいだね。けっこう美人なんじゃないかなとは予想してたけど、予想をはるかに上回ってる。こんなすごい美人と同じ身体にいたなんて、びっくりだよ》
(…………)
夏樹くんのコメントは大袈裟すぎる。わたしの緊張をほぐすためのものだろう。
「ゆっくり……する意味もあまりないと思うけど、気楽にしててね」
ママが弱々しい笑顔を浮かべて廊下へ向かう。
「あ、おばさん、手伝いまーす」
筒井さんがママの後について部屋を出て行った。ふすまを閉める間際、わたしにウインクを残して。
わたしの心と、夏樹くんの心と、夏樹くんの身体と、わたしの身体。
すべての要素は揃っている。きちんと組み合わされば、このトラブルともおさらばだ。
枕元に近寄って、寝てる『わたし』の唇に唇を重ね合わせる。
わたしに今できること、わたしが今すべきことは、たぶんそれだけ。
でも、身体か動かない。
《岬さん》
夏樹くんに促されて、枕元に膝をつく。
だけど、あと一動作に踏み出す勇気が出ない。
《岬さん》
夏樹くんの静かな声が重ねて催促するけれど。
(やっぱり、怖いよ)
《…………》
沈黙がまた怖くて、わたしはさらにしゃべる。
(だって、うまくいかなかったら、わたしたち今度は入れ替わり状態になっちゃうんだよ? そんなことになったら、今よりもっと苦労するし……)
言葉をあれこれ繰り出しながら、わたしはそれだけでないことをうすうす感じていた。
本当に怖いのは、わたしが怖がっているのは……今こうしていっしょにいられる夏樹くんと離れ離れになってしまうこと。
そんなの、本当なら当たり前なのに。わたしは元の身体に戻って、夏樹くんにも自分の身体を取り戻してもらうべきなのに。
でもこの二ヶ月間一つの身体で同居してるうちに、わたしは願うようになってしまったのだ。
夏樹くんと、この優しくて賢くてしっかりしてる男の子と、ずっといっしょにいたいって。
下手にリスクを犯すくらいなら、今のままでいた方が――
《あのさ、いつまでそうやって言い訳して、僕の身体に居座るわけ?》
冷たい、声。
(な、夏樹く――)
《こっちの気持ちも考えてくれない? 二ヶ月前からわけわかんない女の子に自分の身体を乗っ取られてさ、毎日好き勝手される上に、朝から晩まで話しかけられて》
(…………)
わたしが何を言うよりも早く、吐き捨てるように言葉が並べられる。
《そりゃ前にも言ったように辛抱はしてたけど、この状態からおさらばできる芽が見えたんだから、これ以上迷惑を我慢する道理もないよね。昨夜筒井さんの身体を動かさせてもらって久しぶりに実感したよ、自分の好きなように動けるのがやっぱり一番だって。正直なところ、もし入れ替わる羽目になったって、今よりよっぽどマシだと思ってる》
(…………)
《わかった? お利口な君なら僕の言いたいことなんて、もうよく理解できたでしょ? ほら、さっさと済ませちゃってよ》
(…………)
真っ白になった頭。言葉に導かれるように、『わたし』の顔に顔を近づける。
(……夏樹くんの)
《ん?》
小バカにしたように問い返す声。どこまでもわたしの神経を逆なでするような声。
(夏樹くんのバカ! 大っ嫌い!)
直前に彼の言ったことはどれもいちいちもっともで、怒る方が筋違い。むしろ今まで我慢してくれたことを、こちらとしては感謝すべき。
頭の冷静な部分はそう判断しているのに、心がまったく受け入れられなくて。
感情のありったけをぶつけて夏樹くんを拒絶しながら、
わたしは『わたし』にキスをした。
一瞬の混乱。何かが、誰かが、離れていく。それともわたしが離れているのだろうか。あるいは遠ざけているのだろうか。
つぶっていた目を開けると、真下で開いたばかりの目と合う。
わたしは、目を開いた『わたし』を見下ろしていた。
当たったのは最悪の予感。
事態を把握したのか、『わたし』――いや、『亜由奈』――は、唇を噛みながらも身を起こそうとした。
わたしはそれを助ける気にもなれず、ただ距離を置く。
心の中にわだかまったものが、手を差し伸べる気を失わせていた。
その時、ふすまが静かに開いて、筒井さんが顔を覗かせた。
「……!」
起き上がろうとしている『亜由奈』を見て、それを冷たく眺めているわたしを見て、どうやら彼女は何が起きたか正確に理解したらしい。
わたしは立ち上がると、筒井さんに声をかけた。
「『彼女』は目が覚めたから。悪いけど、お母さんへの説明は二人でよろしく」
「岬さん――」
「ボクは、帰るね」
ママと顔を合わせないよう祈りながら階段を早足に降り、玄関から飛び出した。
心の中にはボク一人。話しかけてくれる人は――たとえそれが礼儀作法の上でのおつきあいに過ぎなかったのだとしても――もういない。
不意に大声で何かを喚きたくなったけど、それを自制するくらいの羞恥心はまだ残っているから、ボクはただ街を闇雲に歩く。
それでも、歩き疲れた末に落ち着くのが本屋という辺り、自分らしいというか何というか。まあ、『自分』なんて何なのか、もうよくわからないけれど。
ライトノベルのコーナーに足を運ぶと、昨日までは買うわけにもいかなくてまだ読めてなかった『夢幻の遣い手』第十八巻が目についた。
ボクは、それを手に取るとレジに持って行った。