第五章 一つの身体に一人の心(その二)
翌朝目を覚ますと、トーストされたパンのいい匂いがした。
ソファに横になったまま周りを見回せば、筒井さんがトースターから取り出したパンにバターを塗っている。
「えっと……おはよう、筒井さん」
「おはよ。……岬さん」
「あの、今はいいけど、人前じゃその呼び方はやめてね」
「わかってるよ、それくらい」
唇をへの字にして、そっぽを向いてしまう。
《嫌われちゃったかな》
心の中で、夏樹くんがわたしに話しかけてきた。
(しかたないよ)
わたしは筒井さんに聞こえないようにそっとため息をついた。
昨夜二度目のキスをした結果は、わたしたちの予想に反して、単に前の状態に戻っただけだった。相変わらずわたしが夏樹くんの身体を動かしていて、夏樹くんは見てるだけの『余り』状態。
《でも、嫌っていたら家に泊めたりしないでしょ》
(う、うん……)
筒井さんが自分の身体の主導権を取り戻した状態で、改めて三人であれこれ話し合い、でももう一度キスを試す気になんて三人ともなれないまま時間は過ぎていき、いいかげん帰宅しようとしたら、なぜか筒井さんに強く引きとめられて……結局わたしは一泊することになった。
ただ、昨夜の件以来、わたしと筒井さんの関係はひどくぎくしゃくしていて、会話さえぎこちない。だから彼女が何を思ってわたしを泊めたのかもよくわからない。
(まあ、考えてもしかたないか)
とりあえず起き上がろうと身体を起こす。
《意外と岬さんアバウトなんだよね。まあ、そうでなきゃこんな立場で普通に生活できないとは思うけど》
(うるさいなー)
言葉だけ書くと言い合いだけど、少なくともわたしにとっては楽しいやり取り。今のわたしは夏樹くんと心の中で会話するのが当たり前になっていて、これが「こんな立場」にも関わらずやっていけてる、精神安定の良薬になっているのかななんて思う。夏樹くんを調子に乗せるのも癪だから、本人に言ったりはしてないんだけど。
「うーん」
立ち上がって、起き抜けにいつもしているように、大きく伸びをした。貸してもらった筒井さんのお父さんのパジャマはゆったりしていて着心地がいい。
《み、岬さん!》
「あの、岬さんはご飯――」
夏樹くんが警告するのと、筒井さんがこちらへ振り向くのは同時だった。
彼女の視線は、わたしの股間に釘付けになっている。
(あ……)
「へ、変態!」
「そ、そんなこと言ったってしかたないんだってば!」
そりゃ、わたしだってこうなって最初のうちは、自分が変態になったみたいで死ぬほど恥ずかしかったけど。
《二ヶ月前を思い出すね》
(二ヶ月も毎朝こんなことになってたら嫌でも慣れちゃうもん!)
《ついでに男子高校生にふさわしいデリカシーとか恥じらいの気持ちにも、できれば慣れ親しんで欲しかったなあ》
(ああもう! なんでわたしがそんな説教されなくちゃいけないのよ!)
「男の子って、こういうものなんだかブバッ!」
筒井さんの投げつけたクッションがわたしの顔面を直撃する。
彼女が再び口を開いてくれるには、トーストと牛乳の朝食を済ませるまで待たなければならず、また、筒井さん本人はおいしそうなベーコンエッグやサラダももりもり食べていたけれど、わたしには野菜の一切れも与えられなかった。
いつまでこの、沈黙と軽蔑の眼差しによる理不尽な攻撃は続くのだろうと、待ち針で微妙に刺され続けるような気持ちに耐えていると、筒井さんがようやく口を開く。
「岬さん、なんだよね」
「う、うん」
「身体が変わると、心も変わっちゃうの? その、男の子みたいに」
わたしと目を合わせず、うつむき気味に訊ねてくる。頬が赤くなっている。
「そういうことは……ないと思うけど」
不安な要素はあるけれど、彼女が聞きたいこととはたぶんずれている。
「さっきのことは、ごめんなさい。夏樹くんにも注意されちゃった。ちゃんとした高一の男子なら女子の前であんなデリカシーのない真似はしないって」
「ああ……そういうものなんだ。そうだね、あんなこと人前で平然とやっちゃえる男子って、小学校の高学年くらいに見かけた記憶がある」
「……わたしは、男としては小学生並だってこと?」
《だいたい当たってるでしょ》
筒井さんもようやくわたしに視線を向けて、軽く笑った。
「二ヶ月間、全然わかんなかったよ。身体が違うってだけじゃなくて、中学の時とまるでイメージ違ってたもの」
「それってかなり遠くから見たイメージだったんだけどな。わたし、中二の時だって、筒井さんと本の話ができてたらよかったのに」
「あ……」
気まずい顔になりそうな彼女に、微笑みかけた。
「その、こういうことなんで、昨夜のあれはなかったことにして欲しいんだけど……。できれば筒井さんとは友達のままでいたいの。どうかな?」
夏樹くんとは別の意味で、筒井さんともずっといっしょにいたい。昨夜あれこれあった後にきちんと考えてそう思っていたから、言葉はすんなり口をついて出た。
「……うん。こっちこそ、よろしく」
改めて浮かべるその笑顔には複雑な感情が垣間見えて、でも、わたしの好きな明るさは戻り始めているように見えた。
食器などを片づけ終えた後、筒井さんが言った。
「岬さんのお宅に行ってみよう。あたしが『夏樹くん』のことは紹介するから」
言葉の意味が、よくわからなかった。
「筒井さん……わたしの家に行ったことあるの?」
「中学が同じなの、クラスであたしだけでしょ? プリントとかは週に一度くらいあたしが岬さんのおばさんやおじさんに渡してて、顔覚えてもらうくらいにはなったよ。お布団で寝てる岬さんの枕元まで上がったことあるし」
「でも、そんな話、わたしに一度も」
《『鷹野夏樹』に言う理由なんてあるわけないでしょ》
「夏樹くんに言うつもりはなかったから。ああいう話もしたし、岬さんのことあんまり意識しすぎてるみたいに思われるのもどうかと思って」
ごもっとも。
「でも、今行ったって意味がないんじゃない? わたしの身体、ママといっしょに長野に行ってるはずでしょ? こんな平日の午前中に行ってもパパは会社だろうし……」
「あ、それは知ってるんだ。でも、おばさんはもう戻って来てたよ」
「そうなの?」
「うん。それで、岬さんの身体もそろそろ帰って来るはず。田舎の霊能者みたいな人のご託宣で、もうそろそろ時機が良くなったから本来の場所に帰すべきだとかなんとか」
「そう、なんだ」
わたしの返事は、なぜか弱々しいものになった。
《どうしたの? あんまりうれしくなさそうだけど》
(そんなことないよ。あの、あれかな、当のわたしが知らなかったことを、筒井さんが先に知ってたことが、何かショックだったって言うか……)
夏樹くんにはそう答えるけど、それだけでもなさそうな気がした。
元に戻るチャンス。手段らしきものが判明して、肝心の身体も近くに戻って来て、絶好の機会。
それなのに、なんでだろう、わたしは少しうろたえていた。
* * *
よくよく考えれば、今日学校が休みなのはうちの親だって知ってるはず。なので、一旦鷹野家に戻って私服に着替えてから再度合流という運びになった。
そして今着替えを済ませ、後は岬家に向かうだけ。打ち合わせだって終えている。
だと言うのに、わたしは一歩を踏み出す気になれずにいる。もやもやした不安がある。(あの、もう一度確認したいんだけど、もし『亜由奈』がこっちに戻っていたらどうするんだっけ?)
《は? さっきも言ったでしょ》
最近の夏樹くんは容赦がない。
《筒井さんがお母さんとか、もしいたら親戚の人とか、そっちの注意を惹きつけるようなことを何かする。その間に君が自分の身体にキスすれば、万事解決。たぶん》
最後に付け足された一言で、もやもやがクリアになった気がした。
(あの……そこで、もし夏樹くんが『亜由奈』に入っちゃったら……どうなるのかな?)
そうだ。提案した筒井さんも聞かされた夏樹くんも前向きになっているけど、心の移動に関してはまだはっきりしたことは何一つわかっていない。
《今、心が移動しやすくなってるのって、ひょっとして夏樹くんじゃないかなって思うんだ。次もそんな風になったりしたら嫌だし――》
とりあえずは様子を見ることにしない? 続けていたらわたしはそんな風に言ったかもしれない。
《気にしても始まらないよ》
でも、きっぱりとした口調で、夏樹くんに遮られた。
《そういうことを言ったら、いつまでもこのままでいるうちに、岬さんの心がこの身体に馴染んじゃって出られなくなる、なんて可能性だってあるでしょ?》
確かに、そんな仮説も成り立っておかしくない。わたしの好みや行動の変化という実例もすでにあるのだし。
《それに、実際に身体が戻って来てるかどうかもはっきりしてないわけだしさ。筒井さんも言ってたけれど、とにかくまず必要なのは、岬さんが岬さんの家に関係を作っておくことじゃないかなと思うんだ。そうすれば肝心な時に筒井さんに用があって行けないなんて場合でも、プリント持って来たとか名目作って上がり込むことができるしね》
(警戒はされそうだけどね。何せ今のわたしは男子だし)
《そういう自虐はやめようよ》
軽口のつもりだったけど、夏樹くんは笑ってくれなかった。
* * *
一ヶ月以上見ないうちに、ママはひどくやつれていた。
「ああ、筒井さん、いらっしゃい。いつもありがとうね」
そしてわたしを見て、やや怪訝そうな顔をする。筒井さんが間髪入れず補足。
「彼は、同じクラスの鷹野くんって言います。街歩いてたら彼が暇そうにブラブラしてたんで、連れて来ちゃいました」
ひどい紹介もあったものである。まあ、入学以来まったく接点のない昏睡状態のクラスメート女子に休日わざわざお見舞いに来る男子なんて普通はいないし、怪しまれてもおかしくないしで、むしろ一番無難に受け入れてもらえそうではあるけど。
「はじめまして、鷹野です」
頭をペコリと下げる。
「わざわざありがとうね。亜由奈も喜ぶわ」
わたしが、その亜由奈なのに。
もちろんママは超能力者でもないのでそんなことを察知できるわけがなかった。
つらいけれど予想はできていたことなので、なるべく気にしない。それより重要な情報が得られたことがポイントだ。
《いるね》
(……いるのね)
わたしの本当の身体。