第四章 学園祭、その後に(その四)
「喉渇いたでしょ、何飲みたい?」
わたしは玄関先で本を受け取るつもりだったんだけど、筒井さんに誘われて今夜もお宅に上がり込むことになった。
「あー、それなら紅茶」
「だと思った。はい、どうぞ」
さっそく一口。冷蔵庫でよく冷やされていておいしい。
「じゃ、持って来るからごゆっくり」
お父さんの書斎と思しき方に向かって行った筒井さん。わたしは居間のソファに腰掛けて、早くも水滴の浮かび出したペットボトルをじっくりと飲み進める。
《あの、さ》
何やら恐る恐るという感じで、夏樹くんが切り出した。
(ん?)
《しばらく前から気になってたんだけど……岬さん、自分からリクエストするほど紅茶が好きだったっけ?》
(そんなわけないじゃない。最初に言ったけど父さんが開発中の試作品をあれこれ――)
答えようとして、手の中にある飲み物に気づく。
(あれ……わたし、どうして……)
自分から、紅茶を飲みたいなんて言ったのだろう。
しかも、今だけじゃない。
(筒井さんがさっき、「だと思った」って……)
《……てっきり、僕にサービスしてくれてるのかなって思ってたんだけど》
夏樹くんが、静かに言葉を続ける。
《一ヶ月かもう少し前くらいから、岬さん、まず紅茶を飲むようになってたよ。他に飲み物がある時でも優先するくらい。みんなの前だけでなく、家に帰って誰もいない時にも》
(…………)
言われれば、その通りだ。
毎日の些細な行為。その時の意識をいちいち覚えてはいないけれど、わたしは確かに積極的に紅茶を選んでいた。
《それと……家の中で靴下脱いで裸足でいるようになった。これも連休の時、姉さんに指摘されてなかったよね? ついでに言えば、最近はカレーの時の福神漬けも好きになってきてるような気がする》
どちらも、事実。
(これって……どういう……)
何かがわたしに起きている。『夏樹くんの身体』にではなく、わたしの心に。
《心が身体の記憶に引きずられている、ってことじゃないかと思うけど……まあ、考えてみれば、身体が変わっちゃったんだから、五感の感じ方があれこれ変わってくるのも当たり前だよね》
夏樹くんが、なんでもないことのように軽い口調で言った。
けれどその軽さが、どこかわざとらしい響きを伴っているように思えて、単純には受け取れない。
(でも、一番最初の頃は、こんなこと全然なかったよね。五感が変わったばかりだから、今よりもっと違和感が大きかったはずなのに)
《…………》
(わたしの心、ひょっとして、夏樹くんに似てきちゃってる、とか? ううん、似てくるだけなら別にいいけど……もしかして、わたしの心、夏樹くんそのものになっちゃったりするのかな?)
言葉にすると、恐怖が増す。
身体が変わっても、わたしはわたしだと思っていられた。けれどもし、心まで変わってしまったら。自分が元から『鷹野夏樹』だったと思い込んで生きていくようになったら。
そうなれば、他人の身体で暮らしている居心地の悪さや、元の身体を大事にしてくれているママやパパへの申し訳なさは、きれいさっぱり消えてしまうだろう。でも同時に『わたし』という存在そのものが消えてしまう。
《そんなこと、ないよ!》
普段と全然違う鋭い大きな声で、夏樹くんが叫んだ。
(夏樹くん……)
《大声出してごめん。でも、僕がいること忘れてない? 僕がいる限り、君はずっと『岬亜由奈』だよ》
夏樹くんの声が、今度はわたしを優しく包む。
《たとえ忘れそうになったって、僕が毎日思い出させてやるんだから。だから、そんなに不安にならないで》
身体の内側に閉じ込められて、わたしに話しかけることしかできない夏樹くん。でもその、外には聞こえない声が、わたししか受け取れない言葉が、これまでどれほどわたしを支えてくれただろう。
そして今も、彼の言葉は震え出しそうになっていたわたしの心をしっかりと抱きしめてくれたのだ。
「お待たせー……どうしたの? 夏樹くん、顔色悪いよ」
本を手に居間に戻って来た筒井さんに声をかけられる。確かに、鏡を見るまでもなく、自分の顔色がめちゃくちゃ悪くなってしまっているだろうとは想像がつく。ちょっと寒気も感じるし。
でも心配をかけてもしかたない。
「なんでもないよ。大丈夫」
立ち上がり、本を借りて帰ろうとしたのだけど、筒井さんはわたしをソファにまた座らせてしまう。
「今にも倒れそうだよ? そんなんで帰ろうたって無理だってば」
きっぱり言われると否定しづらい。
「そ、それじゃ、少しだけ休ませてもらうね。ちょっと休めば回復すると思うから――」
こちらの言葉を遮って、とんでもないことを言い出したのはその時だ。
「いっそ今夜はうちに泊まっちゃいなよ。うちの親、広島の親戚の結婚式に行ってて、今夜は帰って来ないから、気兼ねする必要もないし」
「え、ええっっっ!」
《論外。帰ろう》
冷たく突っ込みを入れる夏樹くん。こればっかりはわたしも同感。
「いや、その、そんな大袈裟な話じゃないし、いいよ。それに、その、女の子の家に泊まるわけにはいかないし」
冗談に紛らせようと、笑ってみせる。
「女装ばっかりしてたから忘れてるかもしれないけど、ボク、男なんだよ?」
それなのに。
「わかってるよ」
《わかってるに決まってるじゃん》
身体の外と内から同時に突っ込まれた。
筒井さんは、わたしのすぐ隣にちょこんと腰を下ろした。制服からはすでに着替えていて、飾り気はないけれどとっても可愛らしいレモン色のトレーナーと黒いスパッツに身を包んでいる。
(どどどどど、どういうこと?)
《彼女は君を異性として好きになってる。それだけ》
夏樹くんの言葉が頭の中で意味を成さない。
「ちょちょちょっと、筒井さん、今の、あれは、いったいどういう――」
しどろもどろになったわたしの唇を、筒井さんの白い指が優しく塞ぐ。男の子とは全然違う、ほっそりした滑らかできれいな指に、わたしは呼吸まで止めてしまった。
「最初はね、きれいでかっこいいなって思っただけだったんだ」
穏やかに微笑みながらしゃべり出す、クラスメートの女の子。
二年前もクラスメートだった、わたしの意識では同性の女の子。
(夏樹くんは、気づいてた?)
《入学式直後からね。僕にしてみたらよくある反応だから、岬さんには何も言わなかったけど》
「学園祭でいっしょのグループに入ったのも、その興味半分だったの」
もう半分は寸劇とかで役に立てるかなって思ったからだけど、と続ける筒井さんが軽く首を傾けると、髪や襟首から爽やかな香り。
《鼻の下伸ばさないでよ》
(そんなことしてない!)
してない……よね?
「でも直接話してみたら、すごく趣味が近くてびっくりしちゃった。それに、あたしが中学の時のみっともない話をしても、優しく聞いてくれてたし」
「べ、別に、そんな大したことじゃ……」
「うん、夏樹くんはただ普通に話を聞いてくれただけだよね。でも、あたしはすごくうれしかったから」
すでにかなり密着していたわけだけど、そこからさらに少しこちらへ身を寄せる。トレーナーの生地越しに、筒井さんの体温が伝わってくる。
(ど、どうしよう、夏樹くん!)
《僕としては、筒井さんに恋愛感情はないよ。だけど岬さんが彼女のことを異性として好きなら、元に戻るまではつきあうことにしてもいいんじゃない?》
(冗談でしょ! わたしだってそんな感情はないから!)
あいにくわたしには、このシチュエーションを受け入れるような趣味はない。
《僕と君の意見は一致してるわけだ。なら断ればいいよ》
(で、でも、ここから断るなんてどうすればいいの?)
《……岬さん、本当に筒井さんの気持ちに気づいてなかったんだね》
(何よ「本当に」って!)
《あれだけあからさまなのに距離を置こうとしてなかったから、てっきり上手にあしらえる自信があって放置しているものだとばかり……》
(どんな女たらしよ! わたしはただの女の子であって、女の子とそんな関係になるなんて夢にも思ったことないもの!)
《今の自分が男だって自覚は欲しかったなあ》
(今さら言われても……)
わたしが夏樹くんと益のない言い合いをしていると、筒井さんが動いた。
「前にも言ったよね。あたし、今はもう自分の殻に閉じこもったりしないんだ」
その意識は大いに応援したい。わたしに前のめりになりそうな勢いで迫って来る以外のことであれば。
こちらのそんな気持ちを知る由もない筒井さんは、新たな話題を持ち出した。
「中三の時、同じクラスに好きな男子がいたの。でもあたしが何もしないでいるうちに、その彼は岬さんに告白して、振られて、別の子とつきあうようになったんだ」
(ああ、そんなこともあったような)
《……つくづく、岬さんは彼女の中学生活に影響を及ぼしてるみたいだね》
(そんなの知らないわよ!)
全部こっちのあずかり知らないところで起きていたことばかりじゃないか!
「その時はスタートラインに立ちもしないうちに全部終わっちゃったけど……」
わたしの腕を掴む手に力がこもる。
《そろそろ逃げようよ。まさかおとなしくなすがままにされるつもりじゃないでしょ?》
(わかってるけど、乱暴に振りほどくわけにも――)
「鷹野夏樹くん、好きです! あたしとつきあって!」
言うやいなや、筒井さんはわたしに抱きついて。
《ちょっと! 岬さん!》
一気に顔を近づけ――
(嘘! こんな、告白してすぐに!)
《そんな――》
わたしの唇に、温かく柔らかいものが触れた。
キス。
わたしにとって――正確にはわたしの心にとって、だけど――ファーストキス。
それが女の子相手だなんて!
けれどその時は、ショックを受けたり叫んだりしてる場合ではなかった。
筒井さんにキスされた瞬間。
わたしの全身を何かが駆け抜け、身体の外へ出て行ったのだ。