第四章 学園祭、その後に(その二)
祭りは始まるまでが楽しいと考える人は多いようで、前日の泊まり込み作業こそが学園祭のピークという発想もあるそうだ。
けれどそれは、事前に準備を完了させる必要のあるおばけ屋敷とか校舎の飾りつけとかを担当する人たちの言い分ではないかと思う。
歌ったり競ったり演じたりして当日に本番を迎える人間にしてみれば、やはりその日が学園祭のクライマックスになるのだ。
わたしたちにとっては、最終日である二日目こそが、その日だった。
《岬さん、落ち着いて》
(わかってるんだけど……)
昇降口前の広場をステージとして繰り広げられる数分ほどの寸劇と、それが終わった後の三年生司会者による紹介やトークを通じたアピール。
三学年合計二十四クラスの女装者と仲間たちが次から次へと舞台に上がっては、観客をあるいは沸かせあるいは失笑させて消えていく。大正風な袴の女学生とマントを羽織った大学生が恋愛芝居を演じたり、金髪のかつらに厚く塗った唇のハリウッド女優がステージ上に仮設された通風孔から吹き上げる風にスカートを押さえたり、ツインテールで眼鏡のメイドがお茶を運ぶ途中に転んだ挙げ句客に対して逆ギレしてその後デレデレするという設定過積載気味なコントがなされたり、どれも意外なまでに気合が入っている。
わたしは、控え室になっている昇降口脇の化学教室の、ついたてで区切られた自クラスのスペースから、それらの一部始終を眺めていた。
わたしたちの分までは、まだ十クラス以上残っている。
(出席番号が後の方だから……)
《う、うん》
(番号順で指される場合、ラッキーと思うことが多かったのよね。前の方の子がミスしたりしてるのを見て、反面教師にできたから。でも注射だけは恐怖と苦痛が想像の中でどんどん増幅されていくものだから、すごく嫌だったの。今、ちょうどそんな気分)
《長々と心理の説明をありがとう。けどそれだけしゃべれるのに、心拍数は全然落ち着きを取り戻していないね》
(ああ、四月の新しいクラスでの自己紹介も毎年すごく嫌だったなあ……)
《岬さん、ネガティブなことばかり考えないで! 別に、芝居をするのは生まれて初めてなんかじゃないんでしょ?》
(まあ、学芸会で少しは経験あるけど、たいていたくさんある台詞をきちんと覚えて、本番でとちらず口に出せればいいやって発想でやってたし。演技するとか受けを狙うとか、そういう段階を意識するのは今回が初めてで……)
《なら意識しなければいいじゃん。元々乗り気じゃなかったんだし、大過なくやり過ごせればそれでいいんじゃなかったの?》
(でも、みんな色々がんばってたし、そうなるとわたしもやれる限りのことはやらなきゃなあって気がしてきて……)
わたしは他の人に比べれば明らかに恵まれている。こんな風に、ずっといっしょに寄り添ってくれている人がいるのだから。
なのに、せっかく夏樹くんが相手になってくれているのに、緊張は時間の経過とともに高まっていって、一向に治まる気配を見せない。
「夏樹くん、そろそろ衣装の準備……すっごく硬くなってるんじゃない?」
やって来た筒井さんが目敏く気づく。
「う、うん、少しばかり」
「少しどころじゃないと思うよ? うーんと、どうしたものかなあ」
口元に手を当ててしばし考えていた筒井さんは、すぐに何かを思いついた模様。なぜかカーテンを閉めて外を見えなくする。
「えいっ」
「う、うわわわっ!」
突然、抱きしめられた。
わたしは座っていたのに筒井さんは立ったままなものだから、この前の霞さんの時と同様に、顔が彼女の胸に当たってしまう。
霞さんのようなボリュームはないけれど、一見スレンダーなようでいて着やせするタイプなのか、筒井さんのバストには明確な自己主張をするだけの芯の強さがあった。本来のわたしと同じくらいの大きさかもしれない。
香水などとは違う、ボディソープの香りがほのかに匂う。清潔な、芳しさ。
……って、そんなことを考えてる場合じゃなくて!
「ななななな、何するのさ、いきなり!」
筒井さんを遠ざける。ついたての外にばれたらよくないと思い小声で、でもできるだけ強く抗議した。
心臓はさっきまでとは全然違う意味で高鳴ってしまっている。血が足りなくならないのが不思議なくらい。顔も真っ赤になっているのが自分でわかるくらい熱い。
筒井さんはいたずらっ子のようにニヤリと笑った。
「この前の県南コンクールの時、うちの部長がガチガチになってた一年の子にやってあげてたの。どう? 余計なこと考えてる暇はなくなったでしょ?」
「そりゃ暇はなくなるけど! その部長と一年の子って、どっちも女子でしょ? 男子が女子にやったら嫌がらせのセクハラ以外の何物でもないし!」
「部長たちが女子なのは当たってるけど……夏樹くんは、今あたしがしたことをセクハラだと感じた? 嫌がらせだと思った?」
不意に笑いを引っ込めて、筒井さんは真剣な顔になった。
「え……い、いや、その、嫌がらせだなんてことは、思わなかったけど……」
「なら、問題ないんじゃない?」
再び浮かべる、愉快そうな笑み。してやったりと言わんばかり。
(……だからって、やっていいってことでもない気がするんだけど)
《まったくだね。岬さんのことを知らないんだから、なおさらたちが悪い……》
ん?
夏樹くんの言葉がちょっと引っかかる。けどそれをきちんと考えるよりも、筒井さんに反論するのが先決だ。あれこれ言葉を思い浮かべる。
でも結局、筒井さんに先んじられてしまった。
「ほら、あと少しであたしたちの出番だよ! ここまで来たらなるようにしかならないんだから、今は台詞以外のことは全部忘れた忘れた!」
これまでにない元気のよさでわたしの背中をどんと叩くと、わたしに衣装を着せるべく行動を開始するのだった。
「はい、以上、三年H組小松広志くんによる『女教師広美・放課後の誘惑』でした」
司会者の三年女子が軽快に進行する。ちなみに、あまりよく見てはいなかったけど、三年H組の寸劇は、学校帰りに誘惑に負けてケーキバイキングに足を踏み入れてしまった教師が大量のケーキをむさぼり食うという、女装に大食い要素をプラスしたコントだった。
「続きましては一年A組の鷹野夏樹くん、『歌劇団、本番直前』です!」
司会者がステージを去って、教師や生徒で構成された十人の審査員が居並ぶ舞台袖に控える。その直後、化粧台と椅子の一式を五十嵐くんや吉川くんが設置、神代さんがその脇にスタンバイする。
わずかな間。そして、何が起こるか期待し出した観客の関心を引くいい間合いで、筒井さんが登場した。
「メイクさん、この子お願いね。うちの期待の新人・鷹野夏美。今日の主役の男役だからしっかりよろしく!」
現れると同時に場慣れした口調でてきぱきと指示を出す。そんな彼女の後ろに従って、わたしもステージへ。
なぜかわたしの登場から一拍遅れて、広場の観客から大きなどよめきが起きた。
《……自然すぎて、みんなすぐには女装だとわからなかったのかな》
(そうみたいね)
答えはするけど、意識は舞台に集中。
しずしずと、亜由奈だった時以上に女らしさを意識して、おしとやかに歩く。
腰までの長く豊かな黒髪。本番前の地味さを醸し出す、楚々としたブラウスと淡い色合いのカーディガンにこれまた質素なスカート。靴もかかとの低いパンプス。
たぶんこの姿は、これまでの出演者の中で一番そっけないはず。化粧も、この段階ではナチュラルメイクだし。
「よろしくお願いいたします」
にっこり微笑んで礼儀正しく神代さんに頭を下げる。やや斜めな角度からだけど、観客席および審査員の方へ頭を下げることにもなる。
湧き上がったのは男子たちの野太い歓声。まず、一方のつかみは問題なし。
「あー、時間ないから同時進行ね。あたしが衣装の着付けをするから、メイクお願い」
台本の読み合わせをしながら、「こんな乱暴な話、実際にはあるわけないけどね」と自分で台本を書いておきながら苦笑していた筒井さん。けどこれは、二つの作業がタイミングよく同時に終われば、筒井さんの狙い通り、観客と審査員へのアピールはかなり大きくなることだろう。
「はーい」
リハーサルの時は気合の入った「はいっ!」を筒井さんに注意されてた神代さん。プロなんだから日常業務の一つとしてメイクをするはずと指摘されても「夏樹きゅんのような素材を前にして心が動かないメイク係なんていません!」と反論してたっけ。ここであなたが目立っちゃいけないと言われて、どうにか納得してたけど。
わたしは観客に背を向けて、化粧台前の椅子に座った。
筒井さんがわたしのカーディガンとブラウスを脱がせるのと平行して、神代さんの化粧道具がわたしの顔を勢いよく走り出す。観客が少し笑っているのは、ドタバタコントみたいな展開を予想したからだろうか。
そんな反応にはお構いなしに、神代さんは化粧台の各所に置かれた道具を精密機械のような正確さで次から次に持ち替えては、完璧な手順でわたしの顔を彩っていく。
この化粧台は、五十嵐くんが自作したもの。工学系志望の彼は手先が器用で、神代さんのリクエストに応えて道具を一番取り出しやすい形にしつつ、筒井さんの要望にも応じて舞台上で映える大きさと形に仕立て上げた。よそのクラスの、送風機と組み合わせた仮設の通気口とかほど大掛かりじゃないけど、そこに込められた手間と工夫をわたしたちはよく知っている。
神代さんが、今度はわたしのロングヘアへ大胆にはさみを入れた。本物と勘違いしたわけでもないだろうけど、背後で悲鳴にも似たざわめきが起こる。
一方、筒井さんは神代さんの手を邪魔しない形でわたしの衣装を着替えさせていく。ラメが入ったずいぶん派手なスーツ。続いてわたしを立たせると、ズボンを穿かせてスカートを脱がせに取り掛かる。
かつらや衣装類を調達して来たのは吉川くんだ。自宅近所の床屋さんを何件も回ってきたり、洋品店や靴屋さんの倉庫で埃をかぶっていた服とか靴をお安く引き取ってきたり、交渉ごとがすごく得意なんだと感心させられた。
ズボンを穿かせてくれた筒井さんが前に置いた靴に、足を入れていく。それと同時に、神代さんのメイクが完了。
なんだかんだで、メンバー全員がそれぞれに力を発揮したからこそ、今日のこのステージをうまく迎えられたんだと思う。結果はどうであれ、これはわたしたち五人全員の努力の結晶。
違った、五人じゃない。
《岬さん、お披露目だよ。ズボンの裾には気をつけてね》
練習の時に裾を踏んで転びそうになったことを、夏樹くんはちゃんと覚えていて、注意してくれた。
(わかってる!)
ここでわたしが失敗したら、全部台無しになっちゃうもんね。
「さ。決めの台詞とポーズ、ちょっとやってみてごらんなさい」
筒井さんに促され、わたしは両手を広げて観客側へと振り返った。
今の顔がどうなっているかは、鏡で見たことがある。単なる美男子や美少年とはまた一味違う、「美少女が少年として振る舞う倒錯したかっこよさ」みたいなものが匂い立つような顔に仕上がっていて、わたしは夏樹くんの顔立ちと神代さんのメイクの技術に感服したものである。
会場に来ていた、恐らくは女装男子を冷やかすつもりだったであろう女子たちにも、同様の感銘は与えられたようだ。
黄色い声が、会場のあちこちから立ち昇る。受けるかもという予感が確信に変わった。行ける。
わたしは少女歌劇団の男役。女の子から凛々しい理想の男性に姿を変え、それを演じるところ。その意識を強く持つ。
「君たちみんな、愛しているよ!」
恥も外聞も忘れて、これ以上ないほど堂々と叫ぶ。すごく芸のない台詞だと筒井さんは自嘲していたけれど、わかりやすいことは疑いなし。
今、わたしは男役。女性が演じる男性。普通の男の子とは一線を画す存在。女の子の憧れを一身に背負って平然と受け止められる、魅惑のスター。
女装コンテストにおいてありえない、高い音域がもたらす大歓声が、会場を瞬時に一気に全面的に埋め尽くした。
同時に地を這う低音の響きは、男子による感嘆の声だったらいいんだけど。
三十分ほどして結果発表。
わたしはもう一度ステージに上がって、再び割れんばかりの歓声と拍手に迎えられた。