第四章 学園祭、その後に(その一)
美人コンテスト実行委員会から通達されたプログラムによると、一年A組の順番は最後から三番目。
だれてきているから注目を惹きつけにくいと考えるべきか、最後の方だから強い印象を残しやすいと考えるべきか。
「悩む必要なんてありませんよ。夏樹きゅんはただ己の美しさを最大限にアピールすることだけ考えていればいいんです」
まことに力強い神代さんのお言葉。こちらとしては、基本的には無難に終わってくれればそれでいいんだけど。
今日から六月。学園祭は間近に迫っていて、今度の週末である五日と六日。美人コンテストは二日目の企画。
筒井さんの台本、神代さんのメイク、吉川くんの調達した資材を元に五十嵐くんの製作した小道具、どれもなかなかのもの。
間に中間テストを挟みはしたけれど、メンバーの誰かが赤点で補習になるなんてこともなく、わたしなんぞはかなりいい順位を得てみんなに賞賛されたりもした。
怪我も病気も事故もなく、空から女の子が降って来て大冒険が始まったり、殺人事件を目撃して犯罪組織に狙われたり、異世界から侵略者が攻めて来たりすることもない。
という具合に、この一ヶ月ほどは実に順調に物事が進んでいた。
わたしと夏樹くんがまだ元に戻れていないことを除けば。
霞さんはたびたびメールや電話をくれる。大学やその他東京で探せる文献での情報を報告してくれるし、小説やオカルト本から得た知見も細大漏らさず教えてくれる。そちらに進展がない時には、他愛ない世間話でわたしたちの気持ちを和ませ、ちょっとした相談の数々にも応じてくれる。この一ヶ月、霞さんにはずいぶん助けられている。
けれど、事態は動いていない。
「夏休み、『亜由奈ちゃん』の身体に会いに行きましょ。親御さんとの交渉は私がどうにかするから」
この前電話で話した時には、そんなことも言ってくれた。
「今のところ大きな問題はないみたいだけど、やっぱりこのままってのもちょっと不安だものね」
そして最後に、わたしには意味不明なことを言って電話を切ったのだ。
「『ひみつのストラップ』みたいなことになってもいけないし」
冷蔵庫から紅茶を出して飲みながら、わたしは夏樹くんに訊いた。
(『ひみつのストラップ』って?)
《岬さんは読んだことないんだ? って無理ないか。十年ぐらい前に姉さんが買ってた小学生向けの雑誌で連載してた少女漫画》
夏樹くんは、ひどく不機嫌そうな声。別に、わたしに対してではなさそうだけど。
《生まれて初めての、読んで嫌いになった漫画。あんまり僕が嫌ってたもんだから、姉さんも覚えていたのかな》
(どんな漫画? 今のわたしたちと何か共通項があるの?)
《そんなに似通ってるわけでもないよ。酷い結末だったし、これ以上は言いたくない》
それっきり黙り込んでしまったので、その話はそこまでとなった。
「夏樹くん、ちょっとうちに寄ってもらえないかな? 昨夜衣装ができたんだけど、最終的な確認をしたいから」
練習を終えて帰ろうとすると、筒井さんが声をかけてきた。神代さんに影響されてか、最近は筒井さんも『夏樹くん』と呼ぶようになっている。
「うん、いいよ」
応じてそちらへ向かおうとすると、夏樹くんの声。
《吉川くんに、あのこと》
(あ)
ちょっとした話だから帰り道で言えばいいと思っていたけど、別行動になってしまう。
(……後でメールかな)
《そうだね》
精神的な同居生活も二ヶ月を超えると、共有する情報が増えるから言葉にしなくても済むことが多くなる。そんな時のわたしと夏樹くんの会話は、どんどん簡略化されてきた。
そのことはまだ霞さんに言ったりはしてない。あの人にかかれば「長年連れ添った夫婦みたいね」なんて感じでからかわれるのは目に見えているからだ。いや、こんな話題を持ち出せば、別に相手が霞さんでなくとも、それ以外のどんなリアクションも期待できないだろう。
「あ、そうだこれ」
学校を出て歩いていると、筒井さんがくるりと振り返った。衣替えで今日から夏服。白いブラウスがまだ沈まない夕陽の中で映える。
鞄からわたしの貸した『紅蓮スピードスター』を取り出して、こちらに微笑んだ。
「ありがとね。面白かったよ」
「ならよかった」
けっこう気に入っているライトノベルシリーズ。一作目と二作目の評判がよすぎるけれど、個人的には新展開な三作目以降の雰囲気も好きだ。筒井さんは二作目で止まっていたというので、三作目を貸してみた次第。
「そのシリーズ、続きも持ってるんだよね? よかったらこの先も貸してほしいな」
「うん、いいよ」
この身体になってから読み出したシリーズなので、全部鷹野家にある。
返してもらった本をこちらの鞄にしまおうとした。
《あ、ページが折れてる》
(……ああ、そうだね)
ページの端がほんのちょっと折れていた。教科書とかが詰まった狭い鞄の中に入れた時に、ついてしまった跡だろう。
《あんまりこういう本の扱い方、好きじゃないな》
(まあまあ。わたしも時々やっちゃうし)
……あんまり夏樹くんはこういう物言いをする人じゃないんだけど。どうも、筒井さんが相手の時は厳しい言い方をすることが多いような気がする。なんでなんだろ?
「よし、ぴったりだね」
筒井さんが満足げに肯いた。
確かに、わたしが着てる男装用の衣装は、どこも調整の必要がないくらい完璧なサイズに仕上がっていた。
「これ仕立て直したの筒井さんなんだよね? すごいなあ」
「そんな、大したことじゃないってば」
筒井さんはわたわたと手と首を振った。
その姿に笑みを返しながら、心の中では夏樹くんと会話。
《岬さんは?》
(ボタン付けも苦手だったくらい。こういうことが得意な子って、うらやましいなって思うことも多かった)
何気ないやり取りは、夏樹くんの何気ない一言で大きく揺れ動いた。
《「多かった」? 今は違うの?》
(……!)
ふと口にした「多かった」。過去形。
別に、羨望なんて意味がないなどと何か悟ったわけじゃない。今だって、うらやましいと思っている、はず。
もしわたしが今も『岬亜由奈』のままだったら。
けれど今のわたしは『鷹野夏樹』だから。男の子だから。女の子をうらやましがる必要はない。そんな気もする。
でも、それは今だけのことのはず。たぶん『岬亜由奈』に戻れば、わたしは元の感覚を取り戻すはず。だけど……。
たった今、無意識のうちに、わたしは『岬亜由奈としての自分』を、過去のものだと考えてしまっていた。
まるでもうこの先は、『鷹野夏樹』として生きていくのが当たり前であるかのように、思わず、考えてしまっていた。
「どうしたの、夏樹くん? ちょっと顔色悪いよ?」
《どうしたのさ、岬さん?》
外と内から気遣ってくれる二人。その優しさが、わたしをまた心苦しくさせる。
「いや、別に、なんでもないよ」
本当の自分を偽っていることを内心で詫びつつ、筒井さんに答えた。
(夏樹くん、ごめんなさい。なんで謝るかは言えないけど、ごめん)
察しのよい彼にさっきの言葉の意味を正確に読み取られないよう願いつつ、夏樹くんに謝罪した。
今のままの状況が続くのはいけない。改めてそう考えながら。