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ずっといっしょに  作者: 茶
12/24

第三章 困惑のゴールデンウイーク(その四)

「亜由奈ちゃん、優しすぎるって言われたことない?」

 最近の状況――今日、岬家の前で聞いた話――まで、わたしたちの経験してきたこと、知っていることを、残らず話し尽くすと、霞さんは最初にそう言った。

「そんなこと全然ですけど……どうしてですか?」

《知らぬは本人ばかりなりってところ? 無自覚に不器用ってとこかもしれないけど》

 一応鷹野くんのその言葉も声に出して霞さんに聞かせる。自分の悪口を翻訳して発表する通訳みたいで、居心地が悪い。

「亜由奈ちゃんにとって一番重要なのは『自分の身体』でしょ? 私だったらとにかくどんな口実を作ってでもそっちへアプローチするし、そもそも、岬さんのご家族に状況を打ち明けて、どうにかして納得してもらって、協力してもらえるようにすると思うな。それなのに亜由奈ちゃんってば夏樹くんの生活のことをずいぶん気遣っていて、聞いててなんだか歯がゆくなっちゃった」

「いや、家族とかにこの姿でどう接すればいいかわからなくて臆病になってたというのも大きいんです。それに『亜由奈』の近くに行ってどうすればいいかもわかってるわけじゃありませんし……」

「そうは言うけどね、元の身体に近づくってのは、この手の物語じゃまず押さえるべき、元に戻るための基本パターンじゃない」

 そこまで言うと、霞さんはキッチンに向かい、冷蔵庫からビールの缶を取り出す。『母さん』が時々飲むために数本常備してあるものだ。

《「物語」って、これは僕らにとっちゃ現実なんだけどね》

 今度の鷹野くんの言葉も霞さんに伝える。以下も同じ。

 霞さんは、プシュッと缶を開けながら応じた。

「狐や天使ならともかく、実在する人間の女の子が憑依した体験なんて、現実に例が報告されてるわけでもない現象だもの。参考にできるのは物語しかないと思うけど?」

 なんだか『夏樹くん』に対する口調は、これまでわたしに向けてたものよりずいぶんと砕けてる。昨日まではやっぱりどこか警戒してたのかな。

「と言っても、女の子が男の子に憑依した挙げ句身体の主導権を掌握してしまう。しかも一つの身体に二人の心が同居して意思疎通ができる。ただし憑依を解除することは不可能……なんてとこまで一致してる物語は、私も聞いたことがないんだけど。漫画やライトノベルには探せばあるのかな?」

《結局頼りにならないじゃん》

 口調がざっくばらんになったのは鷹野くんも同じ。

「だけど基本パターンは知ってるってことよ。たとえ魚になったって、本来の身体が寝てる病室に水槽ごと運んでもらえば元に戻れるものなんだから」

《頭痛い……》

「それはお姉ちゃんの台詞だよ? 血を分けた弟がよそのお宅の娘さんをこんな大変なトラブルに巻き込んじゃって」

《僕のせいじゃないってば!》

 姉弟漫才は愉快だけれど、仲立ちをしているこちらはこちらで疲れます。

「あ、そうだ。事情を聞き出した私が言うのも変な話だけど、お母さんには教えない方がいいわよね。今だって新しい地位と仕事で一杯一杯みたいなのに、これ以上心労の種を与えたらきっと参っちゃうわ」

 そこまで一息で言い立てると、霞さんはくいっと缶を傾け中身を飲み干した。ああいうのをいい飲みっぷりと言うんだろうか。

《元々そのつもりだよ》

「わたしも、その方がいいと思います。霞さんだって、こうして鷹……夏樹くんと直接話せないのはつらいでしょう?」

「うーん? 目の前にいるのに憎まれ口を叩かれないで済むっていうのは、なかなか面白いけれど?」

 キッチンの戸棚をごそごそ漁りながらそんなことを言ってのけた霞さんは、今度はワインの瓶を手にしていた。

《岬さんは一人っ子だからわかんないだろうけどさ、きょうだいなんてこんなもんだよ。特にうちのおねーちゃんなんて、きちんとしているのは顔と言葉遣いだけ。まったく》

 夏樹くんはどんどんテンションが上がっているみたい。こんなことになってから、初めてわたし以外の人と話すことができるからだろうか。

「でも、まあ、亜由奈ちゃんがご家族に教える勇気が出なかったっていうのは話しているうちに理解できてきたわ。そうよね、娘さんがいきなりパッとしない男の子になっちゃいましたなんて知らされたら、意識不明で眠り続けてる状態よりも苦しいわよね」

《なんだよバカおねーちゃん! 今頃わかった上に弟を侮辱して攻撃するなんて! こう見えてもね、僕は文化祭で主役を務めるんだからね!》

「え、ええと、霞さん、わたしも、その、夏樹くんほどじゃないですけど、いい気持ちはしないです。今の自分が冴えないって言われてるみたいなので」

「あらら、文化祭で主役? その話はさっき教えてもらってなかったけれど、もっと詳しく聞かせてえ」

 声に普段の二百パーセント増しくらいの艶が加わる霞さん。あれ、手にしている空き瓶には、さっきまでワインが満たされていたような気がするのですが。


「もーう、どうしてそういうことをきちんと教えてくれないのお? 亜由奈ちゃんまで夏樹くんみたいな意地悪しなくてもいいじゃないの」

 霞さんが今手に持っている特徴的な瓶は、確か、パパが時々飲んでいたウイスキーのもの。でもおかしいな、パパは水やお湯で割らないあのお酒をあんな勢いで飲んだことはなかったような気がするのに。

「別に意地悪なんかじゃなくて、言う必要がないと思ったから……」

「言い訳しないの。お仕置き~~~」

 姿勢も声もよろめかせ、霞さんはわたしを抱き寄せると顔を胸に押しつける。

《うわ、苦しい! やめなよ、バカおねーちゃん!》

 毎度のことなのか、夏樹くんは動揺するでもなく悪態まで吐いている。

 けど、わたしにとっては、幼い頃以来の久しぶりの経験。しかも今度の相手はママじゃない。

 女の人の柔らかくも弾力のある胸が、わたしの顔を埋める。息が苦しいのはもちろんだけど、それ以上に、顔を圧迫する未知の感触がわたしを混乱させた。

 霞さんの胸は、『亜由奈』よりもはるかに豊かだ。Dか、もしかしたらEカップというやつなのかもしれない。

 それがブラジャーやブラウスやカーディガン越しとは言え、わたしの顔と密着して、時に自在に形を変える。お酒をきこしめしたせいか、熱を帯びていて熱いくらい。

 そして鼻腔にはむせ返るような甘い匂い。酒の匂いもいくらか混じってるけど、何より強烈なのは、今のわたしにはすっかり縁遠くなってしまった女性の匂い。化粧品や、香水や、身体そのものが発する匂いの混合物。

 おかしな気分に、なってしまいそう。

《岬、さん?》

 夏樹くんの声に応える余裕も失って、わたしはただただ翻弄されていた。

 と、不意に霞さんがわたしの顔を押さえつけるのをやめる。

 わたしは慌てて離れた。息が荒くなったのは、呼吸が苦しかったせいばかりでもない。

「ごめんなさいね、亜由奈ちゃん。身体が同じなものだから夏樹くん相手の気分でいたけれど、あなたは本当は女の子なのよね」

 霞さんの沈んだ声。彼女が自らを責めるように言う口調によって、わたしは自分の変化をなおさら意識させられる。

 わたしは本当は女の子なのに。女の子、だったのに。

 今は、紛れもない男の子。

 気を遣ってくれる夏樹くん相手には何も言えやしないからなんでもないふりをしているけれど、性別の変化というものはたぶん彼の想像以上に大きくて、わたしは一ヶ月経った今でも日々戸惑い続けている。

 それは例えば、今みたいに、女性を「異性」として意識させられる時に――

「男の子向けのセクハラなんてしてもしかたがないのよね! よし、いっしょにお風呂に入りましょう!」

「なんでそうなるんだよ!」

 わたしは、初めて本気で霞さんに怒鳴ったけれど。

「はいはい。夏樹くんは黙ってるの。ごめんね亜由奈ちゃん、事情を知ってる私にまで男の子みたいな扱いされたらあなたもすごく嫌よね。身体は変わっちゃっていても、今だけは女の子に戻った気分で私と楽しく過ごしましょ」

 逃げようとしたけれど、霞さんの酔いは肉体の持つ潜在能力を完璧に引き出しでもするのか、わたしはどうしても掴まれた腕を振り払うことができない。

「けれどまあ、せっかく貴重な恵まれた立場にもあることなんだし、異性の神秘を色々と体験してみるのも悪くないんじゃないかしら?」

 この酔っ払い、ついさっきと言ってることが正反対だ。

「私も別に詳しくはないんだけど、それでも本で得た知識はあるから、少しはレッスンしてあげられる気がするの」

《……ご愁傷様》

「嫌! そんなのいやあああああ!」


 ……ママ、パパ。亜由奈はまた一歩、男の子に近づいちゃったような気がします。


* * *


 目を覚ますと、すでに太陽は西に傾き始めていた。

 夜が白々と明けるまで霞さんが一人で盛り上げ一人で暴れ一人で締めくくった狂乱の宴については、これ以上何一つ語りたくない。

 ただ、今後わたしはゴールデンウイークを心静かに迎えることはできそうになくなったことだけは記しておこう。これは来年以降も確実にトラウマとして記憶に残る。

《手紙、あるね》

(……うん)

 リビングのテーブルの上に置かれていたのは、ほれぼれするような達筆で書かれていた霞さんの置き手紙だった。昨夜から今朝にかけてのことに対する詫びが格調高い美文で綴られ、大学で情報収集をする等二人が元に戻れるよう全面的に協力するとも書いてある。

《終わってみれば、ばれた状態では一番理想的な展開になってくれたと言えるんだけど》

(……ひたすら徒労感しか残っていないのは、なぜなのかしら)

 答えは二人とも理解していたけれど、二人ともわざわざ口に出すのも面倒なほどに疲れ果てていた。

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