第三章 困惑のゴールデンウイーク(その三)
《肝心の部分がなかなか進展しないのは、どうしたものかなと思うけどね。個人的には、どんな女装をするのかさっさとわかった方が心の準備もできるってもんだし》
五人揃ってから陽が沈むまで延々と話し合ったけど、今日も結論は出ずじまい。バスは五十嵐くんたちと連れ立って乗り、今は駅ビルの本屋を覗こうと一人になったところ。
(でも、筒井さんは何か思いついたんじゃない? 神代さんを残していたし)
《肝心なところだけ男子は除け者?》
(自信がないからまずは神代さんに打診ってところじゃないかな)
心の中でしゃべりながら、本屋へ。けっこう品揃えが豊富で気に入っている店だ。
(あ……)
一ヶ月前に読み損ねていた『夢幻の遣い手』十八巻。アニメ化第二期が決定したとのポスターが張られ、目立つポジションで平積みにされている。
《好きなシリーズなの?》
(うん。最新刊はまだ読んでないけど)
《なら買おうよ》
本やCDに関しては、元に戻ってからお金を払うということにして、わたしの好きなものも買って構わない取り決めができている。
(これはやめとく。十八巻は、もう岬の家に買ってあるから)
《あ、それは無駄になっちゃうね》
(鷹野くんがこのシリーズ読んでくれれば買えるんだけどなー)
《今から十八巻はきついって》
それはその通り。
別の好きなシリーズ『天を貫く矢』最新刊を買って、帰ることにした。
「あら、夏樹くんもそれ読み出したの?」
家に帰って、買って来た本をリビングで読んでいると、霞さんが話しかけてきた。
「う、うん」
「面白いよね、それ。世界設定はものすごくシビアだけど、登場するキャラがみんな真剣で一生懸命で、私は好き」
わたしも、同じところが好き。時々読んでいてつらくなるけれど。
《姉さんとこういう話するの、初めて。高校の頃はその辺はすっ飛ばして文学とかの方に行ってたと思うんだけど》
「ライトノベルも読むんだね。それも、こういう話」
児童文学を中心に読む人なら、ライトノベルにしてももっとほのぼのした甘いタッチの話ばかり読んでるのかと思ってた。
「選り好みしないで色々読んでみろって先輩たちに勧められたの。やっぱり肌に合わないものも多いけど、おかげで読むようになった作家もこの一年ちょっとでずいぶん増えてきたわ」
なるほど。
その後は、自然とわたしが読む本の話になった。合間合間に挟まる霞さんのコメントとかお勧めの本とかは、さすがに今のわたしじゃまだ届かない深い蓄積を感じさせる。
ボロが出ないように(例えば本の量とか。『夏樹』が霞さんと同居しなくなってからの一年ちょっとで読むようになった、ぐらいに収まる数でないと不自然すぎる)警戒はしつつ、けどすごく楽しく霞さんと話せたように思う。
元々、ばれるのが不安ってだけで、霞さんに悪感情を抱いていたわけでもないしね。
(今日は楽しかった!)
ベッドに入りながらわたしが言うと、鷹野くんがこぼした。
《僕も、もっとたくさん本を読んでおけばよかった》
(そうだねえ。そうすれば今日の筒井さんや霞さんとの話、鷹野くんももっと楽しめたよね)
《……おやすみなさい》
あれ、反応が鈍いなあ。
* * *
「ごめん。今、男装って聞こえたんだけど……」
早いもので、明日で休みも終わり。明日くらいは家でのんびりしようかと事前に決めていたのが、このままだと休日返上になりそうだと男子三人は道々話していたのだけれど。
今日になって筒井さんと神代さんが提示したアイデアは、意外なものだった。
「聞き違いじゃありませんよ。男装です。麗人です。ヅカです」
「昨日見ていて思ったんだけど、鷹野くんの女装は似合いすぎてて違和感がないのよ。下手したら、ステージに出てもただの女の子だと思われておしまいなんじゃないかな」
「は、はあ」
(昨日は、わたしのやる気が問題みたいなこと言ってたよね?)
《他の人の前で指摘することでもないと考えたんじゃないかな? それに今言ってることもちょっと深読みすれば、「あんたは女装慣れしてて面白みがない」ってことにならない?》
(「女装慣れ」って……いや、慣れてたことは事実だけど)
「そこで思いついたのが、女装状態でステージに出たところから、さらに男装をさせるというアイデア。寸劇の設定としては、歌劇団の楽屋裏みたいな雰囲気でどうかな?」
「いいんじゃないか? 審査員にも観客にも女子は半分いるわけだし、そっちへアピールするには有力な手だと思うな。もちろん男子も惹きつけられるだろうし」
吉川くんがまず賛成した。
「女装から男装に転じても、鷹野なら特殊な魅力が出せそうだよな。他のクラスで考えてるアイデアでもないだろうし」
ちょっと考えてから、五十嵐くんも賛同した。
「もう一つ、神代さんにステージ上で腕を振るってもらうのも、見所の一つにできるかなと思う」
「人前でメイクなんて初めてですけど……やってみますよ。全力は尽くします」
筒井さんの補足に、神代さんがしかと肯く。実に頼もしい。
「なら全員賛成でいいね? んじゃ、ここからは寸劇のアイデアを具体的に出していきましょー」
パンと手を叩く筒井さんに釣られ、全員があれこれ意見を出し始める。明確なゴールが見えると、ものを考えるのは比較的容易になるものだ。
昨日までとは違う充実した打ち合わせを終え、わたしたちは筒井家を辞去した。
* * *
帰り道、わたしは吉川くんたちと別れて、単独行動を取った。
目指すは岬家。
(対面してどうなるかはわかんないけど……)
とにかく、事態を変えてみる努力をしなくちゃいけない。
ここ数日、霞さんとか筒井さんとか、変わろうとして動き出してる人の姿に出会って、あっさり感化されちゃってるだけかもしれないけど。
《元に戻りたいよね》
鷹野くんも背中を押してくれる。
《やっぱりこの状態は不自然だし》
でも、こんな風に言われるとちょっと寂しくなるのはなぜなんだろう。
もちろんそんな感慨はおくびにも出さず、わたしは明るく返事した。
(元に戻った暁には、ステージでがんばってね。わたしもこのグループに入ってせいぜい手伝ってあげるから)
《はいはい》
筒井さんの家は、わたしと小学校が違っていただけあって、岬家とはそれなりに離れている。とは言っても高校生になった今じゃ大した距離でもない。鷹野くんの足ならなおさらだ。
十五分ほど歩くと、見慣れた家並み。
(やだ。ちょっと、懐かしいなんて感じちゃった)
《急ごう》
鷹野くんの鋭い声に促され、わたしは足を速める。
角を曲がると、わたしの本来の家。『岬亜由奈』の家。
そこから、車が発進しようとしていた。うちの車だ。
《岬さん……!》
焦りはわたしにもある。でも、やっぱり、この姿でわたしがいきなり駆け寄るのはあまりにもおかしい。
通り過ぎざまに横目で見た家の中は、がらんとしていて誰もいない感じ。
車を見送っていた近所のおばさんたちがぺちゃくちゃと立ち話をしている。わたしは怪しまれない速度でなるべく急いで近づいて、耳に神経を集中した。
「引っ越しじゃないのよね」
「亜由奈ちゃんが長野だかどこか、奥さんの実家へ転地療養しに行くってだけみたいよ。旦那さんの方はすぐに戻って来るって」
その二言で、事態は把握できた。
把握できたからどうなるというわけでもないけど。
「検査しても怪我してるわけじゃないのに、どうして目が覚めないのかしらね。やっぱり勉強ばっかりしてて心の方が参っちゃったのかしら? 奥さんはなかなか勉強しなくて困るとか言ってらしたけど、そんなわけないわよね」
「奥さんの基準からすれば、ってことじゃないかしら。それが子供には激しいストレスになったんじゃない?」
そうじゃない。わたしとママはそんな激しいいがみ合いを――まったくしてなかったとは言わないけど――年中するほど険悪だったわけじゃない。
もちろん、口に出して反論なんかできない。わたしはただ通りすがりの男の子として、その横を通り過ぎていく。
「なんでも、奥さんの実家の近くに霊能者みたいな人がいるんですって。その人のお告げで英華病院も退院して、今は長野で一ヶ月だか二ヶ月だかお祓いだのお清めだのすることになったみたいよ」
いかにも胡散臭そうに言う片方のおばさんに対し、前に新興宗教にのめり込んでいると噂になっていた(アフリカの方のニャ何とかという女神だか何だか、だったと思う)もう一人のおばさんが「まあ現代医学なんて別に万能でもないものね」と答えているのが背後に聞こえた。
鷹野家へ『帰る』道すがら、わたしも鷹野くんも口を開かなかった。
* * *
「夏樹くん、お姉ちゃんに何か隠し事してない?」
普通に夕食を終え、自室に向かおうとしたわたしに、霞さんは背後から呼びかけた。
《来たね》
(来た)
いつ発せられてもおかしくなかった質問。でも明日で霞さんは東京に戻るんだし、最後まで訊かれずに済めば一番良かったのに。
「別に、何もないよ?」
こちらの方針としては、当然、ごまかしきるのみ。
「そんなことないでしょ?」
だけど霞さんは初手から畳み掛けてきた。口調は柔らかいままだけど、言い逃れなんて容赦しそうにない押しの強さがある。
「まずお姉ちゃんの呼び方の問題があったわよね。それから、お姉ちゃんのサークル活動のことを忘れてた。他にも、お母さんの実家がどこにあるかすぐに思い出せなかったし、カレーを食べる時に好きなはずの福神漬けをあまり食べなかったし、幼稚園の時の卒園旅行の話もしどろもどろだったし、トイレの後便座を上げっ放しにしなくなった」
(何かものすごいところまでチェックされてる!)
《姉さん、意外と細かい人なんだなあ》
「一つ一つは大したことない変化でも、これだけ重なっちゃうと何かが夏樹くんに起きたと考えておかしくないでしょ?」
脳内でのんきに話してる場合じゃない。
「それに決定的なこと。今日、夏樹くんの部屋を見たけど、昨夜話した本がほとんど置いてなかったわ。処分したにしては、ずいぶん思い入れが強そうな口調だったのにね」
わたしを見つめる目は、鋭いわけではなく、けれど逸らすことを許さない強い力を秘めていた。
「あなたは、誰?」
「…………」
張りつめた空気。重い沈黙。
《……白を切るのは、できないっぽいかな? 無理はしなくていいよ、岬さん。姉さんなら悪いようにはしないと思うし》
(……ごめん。鷹野くんに言わせちゃった)
全部わたしが細かいところで重ねたミスのせいなのに、鷹野くんに最終的な判断を任せてしまった。土壇場で責任を押しつけてしまった。
《気にしないで。むしろ一ヶ月以上も岬さんは一人でよくやったと思うよ》
かけられる言葉に、感情が大きく揺らぐ。
(わたし、一人じゃないもん。鷹野くんがずっといっしょにいてくれたから……)
《その、それはともかく、姉さんに話をしよう?》
(う、うん)
穏やかな笑顔は崩していない霞さんに真正面から向かい合う。
彼女の笑顔がなるべく損なわれずに済むよう祈りながら、わたしは一ヶ月前から自分たちが陥っている状態について説明を始めた。
「……夏樹くんも、あなたといっしょにいるのね?」
じっとわたしの話に耳を傾けていた霞さんは、わたしが鷹野くんの身体に割り込んで暮らすようになったところまで聞くと、落ち着きを保った口調でまずそう訊いた。
「はい」
「じゃあ、今どんな気分なのか伝えてくれるかしら?」
《疲れてて眠たい。早く寝かせて》
(た、鷹野くん?)
《これが率直な気持ちなもんで。一言一句違わずに伝えて》
いいのかなと思いつつも、当人の指示を無碍にはできない。わたしはその通りの言葉を口にした。
聞いた霞さんは、苦笑。ただ、その笑いには安堵感のようなものも見て取れる。
「そうなのよね。今日は朝から出かけてたからくたびれてるはずだもん。夏樹くんなら私と膝をつき合わせて長話するなんて面倒臭いことしないで、さっさと部屋に引きあげるとか、その場で寝ちゃうとかするはずなのよね」
「いや、それはお姉さんとしてどうなんですか? 面目丸つぶれと言うか……」
わたしの疑問に姉弟は同じ答えを返した。
《いいんだよ、姉さんなんだから》
「よそのきょうだいだったら問題なのかもしれないけどね。私と夏樹くんは、そんな感じで昔からやってきたから」
霞さんは一度目を閉じて大きく肯いた。
「今の夏樹くんの言葉を聞いて、やっと全部信じられる気がした。……改めて、よろしくね。亜由奈ちゃん」
瞳を開き、語りかけ、頭を下げる。
わたしに対して。『鷹野夏樹』ではなく、岬亜由奈であるわたしに対して。
「は、はい」
不覚にも、声が震えそうになった。