第三章 困惑のゴールデンウイーク(その二)
日曜日にして、わたしたち一高生にとってはようやくのゴールデンウイークの始まり。もっともそんなことには関係なく、十時頃にわたしは家を出て筒井さんのお宅に向かう。
電車に乗っている途中、携帯が振動する。神代さんと五十嵐くんからのメールだった。
《JRが強風で運行休止? 来られるかどうかわからないね》
少し遅れて吉川くんからも同様のメール。
三人は少し離れた市や町から通ってる。確かに今日は風が強いみたい。虎山ではそんなに大したことにはなっていないけど。
(中止かな?)
そう思って筒井さんに連絡を取ってみたら、とりあえず来てとのことだった。彼女は神代さんとのトップ会談を直前に済ませていて、足止めされてる三人も来れるようになったら後から来るそうな。
「来たのはいいけど、二人でどうするの?」
ご家族は用事などで出かけていて、家には『鷹野夏樹』と筒井さんの二人だけ。
「昨日あれから学校に引き返して、演劇部から衣装いくつか借りて来たの。それを実際に着てもらおうって思って」
「は、はあ……」
《昨日は顔で、今日は身体だね》
(やる前から気が滅入るような言い方はよして)
かくして、わたしは各種女の子らしい衣装をあれこれ着ることになったわけだけど。
「やっぱり鷹野くん、何を着せても似合うね。肩幅が狭いし、全体的にすらりとして体格がごつごつしてないし、肌の色も白いから、装飾多めのゴスロリから露出で勝負な踊り子風まで、なんだって問題ないよ」
新しくてきれいな着せ替え人形をもらった小さな子みたいにテンションが上がっていく筒井さん。対照的に、わたしは気持ちが沈んでいく。
《岬さんは、久しぶりにこういう服を着れてうれしくないの? いや、僕はもちろん喜んだりしてないけど、筒井さんがこんな風に楽しんでるのを見てると、スカート穿くぐらいは大したことでもないかなって気分にもちょっとだけ……》
(……わたしは、却って今の自分が『鷹野夏樹』なんだなってますます自覚しちゃう)
《あ……》
(筒井さんの褒め言葉も、全部素直には聞けないの。「男子にしては」って枕詞が、省略されてるだけで、確実に前提になってるから。何より、わたし自身が元の自分をちゃんと覚えてるせいで、スカートを穿いた時の腰の太さとかお尻の小ささとか、ドレスを着る時の胸元の寂しさとかを意識させられるの)
そんな気持ちが外にも出てしまったのか、昼食を終えた後、ファッションショーは再開されなかった。
「筒井さん、あっちの衣装はまだ試してないんじゃない?」
「うーん、そう言ってくれるのはありがたいけど……鷹野くんを乗り気にさせる方が今は先決みたい」
筒井さんはわたしを小さい座卓の前に座らせると、ジュースとか牛乳とか紅茶の小さいパックを数本持って来て、自分もそこにぴょこんと座った。
「ちょっとおしゃべりしよ? よく考えたらあたし、鷹野くんのことまだよく知らないもんね。同じグループになってから観察してると、男子にしては雰囲気が柔らかくて話しやすいって印象はあるけど」
そう言って、オレンジジュースのパックを取る筒井さん。
《大した観察力だね。ここにもまた一人、要注意の相手がいるみたいだ》
(……だからって、今さらぶっきらぼうな対応しても意味ないでしょ?)
《もちろん》
「おしゃべりって言っても……」
ひとまず紅茶を飲んで、間を持たせる。
「うんとね。じゃあ鷹野くんの中学時代とか教えて?」
言って微笑むその顔には屈託がない。一昨日からこっち、間近で見る筒井さんは本当に明るくて活発な女の子だ。
《前に言ってた中二の時の話、ほんとなの?》
疑う気持ちはわかる。わたし自身、二年前の記憶を信じられなくなりつつあるので。
「東京出身なんだよね?」
「う、うん。……」
鷹野くんの助けを借りて、質問に答える形で話が進む。
「それじゃ、好きな漫画とか本は?」
《……ここは、岬さんが答えた方がいいんじゃないかな? いつ戻れるかわからないんだし、今ボロが出ないことを優先で》
(わかった)
と言ってもいきなり、中二の時に戦前の大長編ミステリを徹夜で一気に読んで衝撃を受けたとか、二巻で止まってしまっているマイナーなライトノベルシリーズの続刊を願っているなんて話をしても、引かれる危険性は大。それなりに無難な人気作家やシリーズの名前を出して、まずは様子を窺う。
「あ! あたしもその作家さん大好き!」
おや、予想以上に食いつきがいい。少し話題を広げてみる。
「そうそう、あのラストは泣けたよね」
あらあら。ではさらに一段階ディープな方向へ。
「あたしもミステリとか少しは読んでるよ。去年、戦前の分厚い探偵小説を読んでみたんだけどね、なんていうか、ショック受けた。一日で一気に読んじゃった」
……ここまで来たらちょいと本性を出してもいいかも。
「あのレーベルはどうかしてるよね! なんであんな面白いシリーズの続きを出さないんだか!」
《……ごめん、途中から、その、ついていけなくなってる》
(あー、気にすることないです。こんな領域で話のできる奴が同じクラスに三人以上いてたまるかって気がするので)
《元に戻ってからどうしよう?》
(がんばって、話題に出た本を読んでくれたまえ)
わたしと筒井さんの本の趣味は、とてもとても似通っていた。もちろん細かい差異はあるけれど、ツボとも言うべき場所はぴたりぴたりと一致していて、吉川くんほど刺激は受けないが、話が合うという点では彼以上。
今さらなんだけど、二年前がものすごくもったいない。こんなに趣味が合う子と同じクラスにいて、本の話をまったくしなかったなんて!
話が一段落したところで、ちょっと卑怯かもとは思いつつ、話題を振ってみた。
「ボクの話ばっかり聞かれるのも不公平だし、筒井さんの中学時代も聞かせてよ」
《岬さん、それは……》
(とっくにこっちは知ってるんだからずるい質問だよね。でも、中学時代ってお題は筒井さんから出たことだし、ショックを与えることにはならないと思う。不愉快な気持ちにはさせるかもしれないけど)
そんな会話をしながら筒井さんを見つめると、彼女は少しバツが悪そうに笑った。
「それがね、あんまり期待に応えられるような面白さはないんだな。中学の時のあたしはかなり暗かったよ」
「物静かだったってこと?」
初めて話を聞く『鷹野夏樹』としては、こういう気遣いを示すべきだろう。亜由奈としては完全に同意しちゃうけど。
「違う違う。暗い……んにゃ、それよりはあれね、陰気」
「へ、へえ」
少し長くなっちゃうかも、と呟きながら時計を眺める筒井さん。まだ一時半。わたしの台詞の選択肢なんて「別に構わないよ」の一択しかないと思う。
「同じクラスに岬亜由奈さんっているよね」
(ど、どうしてわたしの名前が出てくるの?)
《落ち着いて、落ち着いて、立場上僕と君は赤の他人だってことを忘れないで!》
「あの、ずっと休んでいる子だよね?」
いきなり激しくなった動悸を抑えようと必死になりながら、表面上は平静を装って返事する。わたしの演技力は、この一ヶ月で日本アカデミー賞くらいは狙えるレベルに達した気がする。
「あたし彼女と中学が同じだったんだけど、彼女にコンプレックス抱えちゃってて。中学の時は生活全体がそれに振り回されちゃってたんだ」
「へ、へえ」
《さっきと同じリアクションは芸がないよ》
(そんなこと考えてる余裕ないってば!)
「小学校の頃のあたしは、勉強しないでもテストでいい点が取れるタイプの優等生だったんだ。それが中学に上がった頃から、授業受けて宿題やってるだけじゃいまいちわかんなくなってきちゃって」
「う、うん」
気持ちはわかる。わたしもそんな感じだったので。
(昔は授業を聞けばそれだけでわかったことが、予習復習をしないことには理解しきれなくなるんだよね)
《そうそう。中二ぐらいからきつくなってきたかな》
(……わたしは中一からだったけどね)
《岬さん、声が怖いよ?》
「なのに岬さんは、勉強なんかこれっぽっちもしてませんって顔をしてて、なのにテストになれば毎回必ず学年一位で……」
《ああ、澄ました顔をしてたわけだね》
思わぬところに被害が生じていたらしい。
(わたしだって、かなり必死だったんだけどなー。なまじ最初に一位になっちゃったもんだから、下手に陥落したらママに怒られそうで)
《今でも相変わらず必死だね。僕が保証する》
(うるさいよ)
「彼女に勝たなくちゃお先真っ暗みたいな気持ちになっちゃって、それで中学生の頃は学校行ってもずっと教科書とか参考書とか問題集とか開いてばっかだったんだ。彼女が勉強してない時間を使ってその分余分に勉強すればあたしだって勝てる、みたいな思い込みでムキになって。ま、合間を縫って本は読んでたしテレビも観てたんだけどね」
学校で読んでくれればよかったのに。
「塾とか行って、学校行事とか全然参加しなくって」
《そうだったの?》
(まあ、そうね。掃除とかけっこうサボってた人だったかな)
「それでも結局最後まで勝てなくて。それどころか、空回ってたせいなのか、トップテンに入ったこと、一度もなかったの。たぶん、岬さんはあたしのことなんて覚えてもいないはず」
覚えてたってば。
(わたしって、どんな高飛車な秀才だと思われてたんだろう……)
《他の人の人物評って面白いね》
鷹野くんはすっかり高みの見物モード。
「もう、高校はそこそこの私立でいいや、岬さんと張り合いたくなんかないって思ってたんだけどね。最後に駄目元で県立は一高を受けてみたら、受かっちゃった」
そこで筒井さんは複雑な笑みを浮かべた。
「あれ? あたし意外とやるじゃん? って、中学に入って以来初めて思えた。……ずいぶん遠回りしてた気がするけど」
(同感なんだけど、ここで肯いちゃやばいよね)
《僕の評価を落としたければいくらでもどうぞ。元に戻るまでは君が無神経な男子扱いされて蔑むような目で見られるだろうけど》
曖昧な表情で先を促すわたしに、筒井さんは話し続ける。
「そしたら、ずっとテストの順位や点数ばかり気にしてたのがバカだなーって、やっと実感できて。それまでにも親とか友達には言われてたんだけどね。それで、高校に入ったら興味持ってることを始めてみよう、高校生活は楽しく送ってやろう、そう考えられるようになれたんだ」
「それが演劇?」
「うん!」
無邪気な笑顔が、けれどすぐ曇る。
「これで岬さんが怪我なんかしなければ、一番よかったんだけどなあ」
(え?)
《いや、驚くことでもないよ》
「中学の時は一方的にライバル扱いしてろくに話もしなくって。だから今度は、岬さんさえ良ければ、仲良くなれたらいいなって、同じクラスだってわかった時は思ってたんだけど」
しょんぼりしてるその姿がいたたまれなくて、気づいたらわたしは断言していた。
「きっと、その子が学校に出て来たら仲良くなれるよ、絶対」
《その力の込め方、『鷹野夏樹』としては不自然じゃない?》
突っ込みはごもっとも。言われた筒井さんまでぽかんとしてる。
うろたえたわたしは、フォローするべく言葉を足そうとした。
「筒井さん、いい子だし……その、岬さんも、話してみたら案外気さくな人かもしれないよ?」
《フォローになってるかな、これ》
(……微妙)
でも、こちらの事情など知る由もない目の前の女の子は、にっこりと笑ってくれた。
「……ありがと。鷹野くん、優しいね」
それまでと、ちょっと雰囲気が違う。はにかんだような笑顔。
「……別に、そんなことないけど」
照れくさくなってわたしは目を逸らし、素っ気なく言った。
その時、わたしたちの携帯が同時に鳴った。
「吉川くんたち、来れるって。もう一高前のバス停まで来てる」
「あたしも神代さんからだった」
言いながらそそくさと台所に向かう筒井さん。
「何か手伝おうか?」
「あ、ありがと! じゃあ、そこからコップを出して……」