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空気を切り裂くような音を立てて、フィミアは敵めがけて宙を疾駆する。猛スピードで自身に迫ってくる敵を、相手も見逃す筈は無い。猪はボクへと向けていた巨大な体躯を頭上からの襲撃者へと向け、威嚇するように地面を後ろ足で蹴りつける。だが、彼女が速度を緩める気配は無い。いくら加速しているとはいえ、このまま激突すれば、どちらがはね飛ばされるかは一目瞭然だ。
「フィミア!」
自然と、ボクは彼女の名前を叫んでいた。しかし、彼らの体が交錯するかと思われたその直前、フィミアはその身を颯爽と翻し、スレスレで猪との衝突を回避する。互いにすぐ側を通り過ぎた両者はすぐさま体を反転させようとしたが、自身の重量の為に一度急停止しなければならなかった巨獣と、華奢な鳥人とでは動作速度に相当な差があった。
そして、その僅かな時間は、彼女が反撃を行うには充分な隙だった。翼を広げたフィミアの胸元に明るい緑色をした光が集束されたかと思うと、その輝きが周囲に拡散すると同時に強烈な風が敵めがけて放たれ、敵の後ろ足に直撃した。
ハーピーの得意とする風属性の初級魔法『ウインド』だ。
しかし。若干身をぐらつかせたものの、巨大な猪は全くダメージを受けていない様子だった。攻撃を食らった足に細やかな切り傷が伺えるものの、逆にいえばそれくらいしか目に見える成果が無い。敵の動きから危険を察知したらしく、彼女は再び空中へと舞い上がった。弧を描くように飛んでいるハーピーに対し、猪は未だその注意を引きつけられている。その為、ボクは遠巻きからじっくり状況を考察する事が出来た。
――うーん、効果が薄いのかな。
あれだけ大柄な体格の相手だ。少しくらい風に切り裂かれようとしたところで、吹っ飛びもしなければたじろぎもしない。微々たるダメージにしかなっていないように見える。しかし、魔物とはいえ、フィミアは殆どボクと年の違わない子供だし、威力の高い上級の魔法を扱う事は出来ない。
何かボクと彼女とで行える作戦を立てなければ勝機は無いだろう。そんな事を考えていた矢先、フィミアが再度の攻撃に出た。今度は螺旋を描くような動きで垂直に地面を目指し、敵の頭上から飛びかからんとする。だが、背を向ける必要もないと感じたのか、巨獣はその場に身構えて迎撃の体勢を取った。
すると、彼女はまたもや先ほどと同様、敵とぶつかる寸前で小柄な体を僅かにずらし、猪の鼻先を通り過ぎて風魔法ーーウインドを打ち込んだ。しかし、またもや相手の胴体や頭に命中させるには至らず、突風は太く強靱な後ろ足を掠めるに留まってしまう。
「フィミア! それじゃどうにもならないよ!」
「大丈夫! まあ見ててよ!」
ボクの呼び掛けに対し、空を駆ける彼女は平然とした調子で叫び返してくきた。本当に大丈夫なのかと心配になりつつ、固唾を飲んで彼らを見守る。
体格で劣るハーピーは、それからも同じような戦法を継続していった。素早い動きで相手を攪乱しつつ、隙があれば魔法攻撃を仕掛けるといった具合だ。しかし、やはり決定打は与えられていないように見える。だが、自由自在に宙を飛び回るフィミアの表情は、余裕しゃくしゃくといった風に感じられた。一体、彼女は何を考えているというのか。
その回答が分かったのは、ハーピーを視界内に捉えておこうとする巨大猪の動きが鈍り始めてからだった。
――あれ?
様子がおかしいと気がつき、訝しく思いながら相手を観察する。すると、妙な事を発見した。巨大な猪は足を少々引きずって移動しているのだ。
危険の及ばない程度に近づいて、更に注視する。獣の強靱な後ろ足に描かれた無数の傷跡を目の当たりにし、ボクはようやく、彼女が何を企んで今まで行動していたのか察した。大柄で分厚い皮膚に覆われた防御力の高い敵、その重量を支えるが故に負担の大きい一点のみを執拗に傷つけ、相手の動作速度を低下させようとしていたのだ。
――フィミアはこれを狙っていたのか……!
それからしばらく経っても彼らの戦いは続いたが、やがて巨大猪が苛立たしげに頭上の魔物を一瞥して林の中へ帰っていった事で、争いは終息した。これ以上この場でやり合ってもメリットは無く、むしろ自分が傷を負うだけだと判断したのだろう。
相手を打ち負かしは出来なかったものの、それでも追い払う事には成功したのだ。
「どう、ワタシも結構頼りになるでしょ?」
畑の方へ出てきたボクの真正面に降り立って、フィミアは得意げに首を突き出してきた。
「ビックリしたよ。まさかあんなデッカい相手と渡り合えるなんて」
ボクは素直に彼女の功績を褒めた。
「それじゃ、約束は守ってもらうわよ」
「約束って……あ」
そこでようやく、ボクは先ほど彼女と交わした口約について思い出した。
「まさか今更、前言撤回なんて言わないよね?」
「うっ……それは」
「大体、エリットが一人旅なんて無謀に決まってるわよ。さっきだって、木の陰に隠れてただけだったんだし」
痛い点を容赦なくつつかれ、ボクは返す言葉に困った。確かに彼女の言う通りだった。最初に鞭でちょこっと叩いたのを除き、結局ボクがしていた事といえば、遠巻きから戦いの様子を観察する事だけ。全くといっていいほどの役立たずだったのは、自分でも否めない。そして非力さを痛感すると同時に、これからに関しての不安も脳裏をよぎった。旅路を続けていけば、先ほどの猪以上の強敵に遭遇する事も必ずあるだろう。もし、一匹も魔物を従えていない時期に出会してしまえば、どうなるか。今度こそ本当に命を落としかねないのは明白だ。
旅を始めた頃は、自分一人でも何とかやっていけると思っていた。けれど、ナチリ村を出てから体験した数々の出来事を経て、じわじわと現実の過酷さが身に染みてきた。自分が如何に、温かで穏やかな環境に守られてきたのか、ようやく実感させられた。村の近辺で危険な野生動物や魔物は全く目にしなかったのはきっと、大人達が子供を危険な目に遭わせないよう、ひっそりと脅威の芽を摘んでいたからに違いなかった。
そう。故郷を出て最初にさまよい歩いた森の中で、幼なじみのハーピーが陰から守ってくれていたように。
――もう、悩んでもしょうがないよね。
ボクが口にするべき返答は、一つしかない。
「……分かったよ。君を僕にする」
溜息をつきながら呟いた筈なのに、ボクは何故か笑みを浮かべていた。結局はこうなっちゃったな、という思いが胸中を駆け巡る。しかし、村を出た一番の理由がまたもや付きまとう事になったというのに、不思議と悪い気はしなかった。
一方、ボクの発言を聞いたフィミアは、パアッと顔を一瞬輝かせ、しかしすぐに眉を潜めて、
「それ、ホント?」
と、たいそう訝しげに訊ねてくる。
「本当」
「今まで延々と聞かされてきた、その場しのぎの発言じゃない?」
「これだけ助けられ続けて拒む訳にもいかないって、そう思っただけさ」
「じゃあ、ホントにホントなのね?」
「うん」
一拍の間を置いて、
「もー! 折れるのがすっごく遅かったんだから!」
と、彼女は心底嬉しそうに声を上げ、羽の備わった両手でボクの背中をバシバシと叩き始めた。
「いたっ! ちょっと止め」
「止めない! だってずーっとじらされ続けたんだから!」
「別にじらしてたわけじゃ」
「言い訳しない!」
仄かな月光に照らされる静寂しきった畑の中に、ボクと彼女の言い争う声が響きわたったのだった。