8
静寂に満ちた夜闇が辺りに満ち、生き物の鼓動が鳴りを潜めた深夜。頬を撫でるひんやりとした風に、ボクは目を覚ました。
「……ん、まだ夜かぁ」
目を擦って呟きながら、ボクは上体を起こす。途端、全身に気だるさを伴う痛みが走った。硬い岩の上で眠っていたので、あまり休息にはなっていないらしい。凝った体の節々を解しながら、ボクは辺りを見回した。昨晩の食事の跡が眼前の岩場には広がっていて、燃え尽きた焚き火の対面ではエルネとメイディーナが眠っていた。前者は蜷局を巻いた自らの下半身を寝具代わりにしていて、後者は岩に体をもたれて頭を垂れている。どちらもぐっすりと寝入っている様子だった。
ただ一人、彼女の姿だけが見当たらない。
――何処に行ったんだろ……。
少し気にはなったが、もしかしたら催しでもしているのかもしれないと思い、ボクは再び横になり、ふうと小さく息をつく。
――それにしても、やっと落ち着けるなぁ。
昨日は散々だった。せっかく元に戻りかけていたフィミアが朝の些細な諍いで再び不機嫌になってしまい、一日中ずっと気まずい雰囲気が続いていたのだ。結局、緊張の張りつめる夕食を終えて全員が寝静まるまで、気の休まる暇がなかった。
――尤も、旅を始めてからいつもの事といえば、いつもの事なんだけど……。
深い溜息を吐きながら、頭上を眺める。霧を隔てた世界の向こう側に、ぼんやりと月の影が浮かび上がっていた。闇夜に仄かな灯りをもたらすそれをじっと見つめながら、ボクは日中に感じることの出来なかった安寧に浸った。
その感傷的な気分を冷ましたのは、頬をぺちぺちと叩くような大気の流れだった。
――何だか、やけに肌寒いなぁ……。
冷えた身を強ばらせ、両手を組んで身を庇う。ろくに空気を遮る物が存在しない岩場で過ごす夜とはいえ、風があまりに強いように感じられた。空気はボクの斜め後ろから流れてきているようだったので、ボクは何となくそちらの方角をチラッと見やる。
少し離れたところで、人影がこちらを見下ろしていた。
「わっ!?」
突然の事態に動揺し、思わず声を上げながら上体を勢いよく起こしてしまう。だが、程なくして眼前の相手が自分の見知った相手だと気づき、ボクはホッと胸を撫で下ろした。
「なんだ、フィミアか。驚かさないでよ」
後方に立っていたのは、他ならぬ幼なじみだった。暗闇に慣れ始めてきた目で注視すると、白い翼と一体化したような白い両手が僅かに揺れていることに気がつく。どうやら、先ほどから感じていた風は、彼女が意図的に起こしていたものだったらしい。ハーピーのような、特定の魔力属性に対して秀でた才を持つ種族は、人間の魔術師のように詠唱という複雑なプロセスを伴わなくとも、極小さな事象を引き起こす魔術であれば感覚的に引き起こすことが出来るのだ。
「それ、イタズラのつもり?」
自分を見つめていた相手が凶暴な魔物ではなかった事に対する安堵と、眠りを妨げられた苛立ちの両方を抱きつつ、ボクは訊ねる。
しかし、フィミアは何も答えない。
沈黙を保ったまま、じっとボクを見つめ続けている。その表情は、濃い霧に阻まれて全く伺い知れない。
その只ならぬ様子に、ボクは彼女の異変を感じ取った。
「こんな夜更けに、どうしたの?」
努めて優しく、再び問いかける。やはり、フィミアは何も言葉を発しなかった。暫く、妙に重苦しい空気が二人の間に流れ続ける。
――どうしたの? どこか具合でも悪い?
ボクがそう、三度目の質問を投げかけようと口を開きかけた瞬間。フィミアがゆっくりとボクの方に近寄ってきた。徐々に距離が狭まってくるにつれ、遠くからではよく分からなかった彼女の表情がだんだんと鮮明になってくる。
彼女は悲しそうな、それでいて寂しげな顔をしていた。
――え……。
動揺しているうちに、フィミアはボクのすぐ傍らまで迫っていた。下半身は寝そべったまま、上体を反転させているボクに対し、彼女は目を伏せて、ゆっくりと口を開く。
「……エリットは」
彼女に似つかわしくない、掠れるような声色が耳に届いた。
「エリットは、ずっとアタシだけを見てくれていると思ってた。あの時から、ずっと」
――あの時?
「でも、やっぱりエリットは、アタシじゃ不満なんだね。そうなんでしょ?」
「……フィミア、あのさ」
今すぐにも問いかけたい疑問は生じていたものの、取りあえずそれは後回しにして、ボクは言った。
「朝も言ったと思うけど、フィミアに不満を抱いているとか、別にそういうわけじゃないんだよ。ただ、これから先どんなことが待ち受けているか分からないし、旅の人数は多い方が心強いってだけで」
「アタシは」
か細いながらも力強い語調で、フィミアはボクの言葉を遮った。
「アタシは、エリットと二人だけがいい」
そして次の瞬間。ふわり、と柔らかい感触が体を包み込み、強烈なショックが心を襲った。
――な……?
最初、ボクはその感覚が何であるか、あまりの衝撃に判断がつかなかった。しかし、突然の事態に停止していた思考がだんだんと活動を再開していくにつれ、現実を頭が理解していく。
ボクの体を優しく包む、温かな存在。
それはまさしく、フィミア自身の身体に他ならなかった。
――うわ……。
柔らかな羽と肌の感触に、自分の背筋にゾクリと震えが走るのを感じた。決して寒さが理由ではないと、ボク自身がハッキリと分かっていた。そして、
「アタシ一人じゃ……ダメなの?」
また、前と同じ問いかけを投げかけられる。そして、
「だから、フィミア……」
何度も口にした正論をボクが述べようとした、まさにその時。
「約束、したじゃない」
「……え?」
ぼそりと呟かれた彼女の言葉が、ボクの感情を根底から揺るがした。
――約束?
その二文字が意味する事を、全く思いつかなかった。
ただ、脳裏を掠める記憶の断片が、微弱ながらも訴えかけてきた。
だからこそ、ボクは今、動揺しているのだろう。
――ボクがフィミアと……約束を交わした? いつ? どんな?
疑問が次から次へと脳内に広がっては、思考をかき乱していく。服越しに伝わるフィミアの体温や彼女の醸し出す甘い芳香も、その混乱に拍車を掛けた。
「だから……」
彼女が声を紡ぐ度、耳に艶めかしい息が吹きかかり、なおもボクの意識を混濁させる。
「エリットは……アタシだけのエリットでいてほしいの。そのためなら」
息を吸う間に訪れた一瞬の静寂の後、彼女はボクに囁いた。
「アタシ……エリットの望むことなら、何でもしてみせるから」
誘惑にも似た甘美な響きに、ボクは目眩にも似た感覚に陥る。最早、熱に浮かされたような気分で、正常な思考はとうの昔に失われていた。
だから、やらかしてしまったのかもしれない。
「あのさ……」
自らが発しようとしている言葉が相手にどのような気持ちを抱かせるか考えもしようとせず、ボクは感情のままに口を開いてしまった。
「約束って……何の事なの?」
刹那、重苦しい沈黙が周囲を覆った。
周囲の温度が一気に下がったような感覚が、夢見心地だったボクの心を冷水を浴びせかけるように冷まさせる。
しまった、と思ったときには、フィミアは既にボクから離れ、呆然とした表情でこちらを見つめていた。
「……覚えて、ないの?」
その無機質な問いかけに言葉に詰まり、ボクは小さな頷きを返事の代わりにする。
暫く、痛いほどの静けさが硬直した二人の間に流れた後、
「そう……」
感情のこもっていない呟きを洩らし、フィミアは立ち上がってボクに背を向けた。
「もういい」
ボクが制止しようとする前に、彼女は自らの翼を勢いよくはためかせ、程なく、その白い後ろ姿は霧の中にかき消えてしまう。
取り返しのつかない事をしたような罪悪感だけが、ボクの手元に残されて胸をチクチクと突き刺し続けた。




