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フィミアを強引に振り切ったボクは、物言わぬ木々の中を一人歩いていた。村外れの森にはよく出入りをしていたものだが、こちらの方に足を向けた事は全くない。ナチリ村の子供は成人するまで故郷を離れず、魔物使い――モンスターテイマーとしての修行を積むのが通例となっている。その為、ボクは村の外部に関して、両親や知り合いから聞いた話の範囲でしか知識を持たない。友達の間で、村の外に一歩でも踏み出したりすれば、火を吐くドラゴンや残虐な悪魔が闊歩しているのだという噂も出回っていたほどだ。その真偽についてすぐさま長老に訊ねに行った子がいたので、すぐに真っ赤な嘘だと判明したが。
だが、そんな子供でも外の世界を自由に歩き回れるような便利アイテム達を、ボクはしっかりと持っている。
「えっと、確かここら辺に」
独り言を呟きつつ、懐をまさぐり、お目当ての道具を取り出す。ナチリ村周辺の地図とコンパスだ。地理さえしっかり把握出来れば、少なくとも迷うことは無い。この森を抜ければ、やがてノーシアという町が見えてくる。農業が盛んな場所で、結構大きな町のようだが人の出入りに反して住民数が少なく、店の臨時アルバイトを募集する張り紙が掲示板に出される事も珍しくはないらしい。取りあえずはそこの宿に泊まり、小金を稼ぎつつ魔物を扱う練習をしていくつもりだ。この森はナチリ村を出発する殆どの人が通る安全な道を大きく外れた位置にあるので、その延長線上に存在するノーシアでは、知り合いに会う心配も少なくて済む。一番の心配は、この森を命を落とさずに抜けられるかどうかだ。ドラゴンや悪魔が出るという話はデタラメだとしても、危険な魔物が彷徨いているという事実は本当らしい。警戒しつつ歩を進めなければならない。多少でも整備されている道を通らない上、目的地までの距離は長い。かかる時間は相当だろう。
――でも、いざとなったら用意した緊急用の道具を使えば良いし、当分は大丈夫の筈……あれ?
無意識のうちに、ボクは立ち止まっていた。どうしてだろう。何か重大な事を忘れているような、そんな得体の知れない不安がモヤモヤと胸の中に広がっていく。その理由が自分でもよく分からず、ボクは困惑しつつも記憶の糸を辿っていき、不可解な感覚の正体を探ろうとした。
――えっと、さっき考えてた事は確か。
そして。その事実に気がついた途端。ボクの体を電流が走り抜ける。
「……ああああっ!」
金切り声を上げるとほぼ同時、反射的に道具を握った両手を背中に回す。無い。ここにある筈の物が、無い。
――リュック、家に忘れた。
心中で呟いた瞬間、体中から冷や汗が迸る。道理で今まで、軽い足取りで森の中を歩けたわけだ。両親に宛てた手紙をテーブルの上に置く事だけに意識がいって、完全に荷物の事は頭から抜け落ちてしまっていた。
――けど、どうしよう。
泣きたくなる気持ちを堪えつつ、重度のパニックに陥りながらも、ボクは必死で今後の事について考えようとした。五歳の誕生日祝いに買ってもらった魔物使いとしての道具、幼い頃から慣れ親しんだ母お手製の衣類、山で少しずつかき集めた日持ちのする木の実等の食料。全て、リュックサックの中に詰めてしまっていた。懐に忍ばせていたのはすぐ取り出せると便利な道具――即ち地図とコンパス、そして自分の貯金箱から調達した小金のみ。
最悪のうっかりである事は、間違いなかった。
――家に帰って荷物を取って再出発……ううん、駄目だ。今から戻ったら、確実に朝になっちゃう。
手紙を読んだ両親は、戻ってきたボクを絶対に外へ出さないよう、村の知り合いに注意を促すかもしれない。或いは、外出禁止令が出るか。何れにしろ、二度目のチャンスはほぼ無いだろう。万が一にそういう機会が巡ってきても、今度はフィミアの問題がある。今日は彼女もボクの旅立ちを全く意図していない様子だったから振り切る事が出来たものの、あの極めてしつこい性格だ。次はきっと周到な準備でボクの旅立ちを今か今かと待ち受けるか、村から出る事そのものを妨害に掛かるに違いない。
となると。最良と思える行動は一つしかない。
「……しょうがない、このままノーシアへと向かおう」
深い溜息をつきながら、ボクは消沈していく気持ちを紛らわすように呟いた。初っ端から躓きに次ぐ躓き。これで大丈夫かと、自分の未来が果てしなく心配になった、そんな出来事だった。
だが、時は過ぎて一週間後の夜。ボクは耐え難い空腹に苛まれながら、木の幹に背を預けていた。眠ろう休もうと試みるのだが、どれだけ瞼が重くても、飢餓感が邪魔をしてなかなか寝付けない。ほとほと悲しくなり、ボクは堪らず心中で弱音を吐いていた。
――はぁ、お腹減ったよぅ。
ナチリ村を出てから口にしたのは、食べられるという確かな知識を持っていた野草や木の実だけ。それも、村外れの森とは環境が異なっているせいか、採れた数は極めて少ない。今後を考えると集めた全てを口にする事は出来ず、そうなると食べられるのはごく僅かな量だった。当然、満腹になるわけがない。
――それだけなら、まだ良いんだけど。
更にボクを苦しめている問題が、また一つあったのだった。
そして、その問題を起こしている張本人の発するやけに明るい声が、今日も耳に届いてきた。
「もうすぐ熱くて美味しい晩ご飯が出来るよー。誰か一緒に食べないかなー?」
林の向こうに爛々と燃え盛る焚き火の光と共に、もくもくと立ち上った煙が風に乗って漂ってくる。どうせ、フィミアが翼のような両手でパタパタと扇いで、ボクの居場所の方へけしかけているのだろう。ハーピーは大気を操るのが得意な魔物。ちょっとした微風を起こすくらい、造作もない筈だ。しかし、火の方はどうやったのか。そんな事を朦朧とした意識の中で考えていると、ふと煙の香ばしい香りが鼻を突く。
――一体、何を焼いているんだろう。
かなり性格に問題があるとはいえ、彼女の実力は確かなものだ。この辺りに生息している魔物にはまだ遭遇した事がないので、どれくらいの強さを持っているかは分からないが、それでもフィミアの強さなら大抵の敵を倒せるだろう。今日の食事もまた、狩りをして手に入れた獣の肉に違いない。
――それにしても、美味しそうな匂いだなぁ……。
「それにしても美味しいなー。アタシを一緒に連れていくって宣言したら食べさせてあげるのになー」
空腹の身には甘美な呼びかけが襲ってきて、自然と気持ちが揺らぎかけるが、済んでのところで引き戻す。
――って、ダメだダメだ。ここで折れたら、絶対に一生後悔する。
感情を鼓舞するべく、ボクは自らに言い聞かせる。あの時の言葉にめげる事なく、執拗にボクを追いかけてきたフィミア。彼女によって連日続けられたこの拷問のような仕打ちに、今までずっと打ち勝ってきたじゃないか。絶対に根負けしてはいけない。きっともう少しで、もう少しでノーシアの町に着く。そうすれば美味しい食べ物にありつけ、温かいベッドにくるまって夜を迎えられる。励まし続けて何とか自我を保っていると、またもやフィミアの声が聞こえてくる。
「こんがり焼いた熱々肉、とってもジューシーだよー」
彼女の言葉を受け、火で炙られ焦げ目のついた骨付き肉の光景が、ボクの脳裏に自然と浮かんだ。心がまたもやぐらつきかける。
――あ、後ちょっとの辛抱だ。我慢、我慢。
ぐうぐうと鳴る腹の虫を押さえながら、疲れがピークに達して意識が途絶えるまで、ボクは彼女の発する強烈な誘惑に何とか耐え続けたのだった。