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雪梨の散るころ、君と  作者: 史月ナオ
第五章
61/67

4-1

 柊影は、隣でやたらとうるさく口を開く女に辟易していた。

 確かに、彼女は西域の異国人特有の黄金色の髪をした、美しい容姿を持っていたが、それだけだった。

 白遥宮に柊影が現れるのを待っていたらしい淑妃は、柊影にべったりと張り付いて、公主たる自分はどれほど素晴らしいか、自分を皇后にすれば、ギュルシェンからどれだけ見返りがあるのかを語り、それが茶会の間中続いているのだから、ある意味では呆れを通り越して感心してしまうほどだ。だからその程度で済んでいたのならば、年若い娘のすることだと目をつぶることもできた。だが、淑妃は自分を良く吹聴するばかりでなく、他の女たちを蔑んだのだ。そしてそれを注意しても、淑妃は「陛下はあんな女たちの見方をなさるの」と憤り、耳を貸さない。そのために、柊影は茶会の始まる前から、不快感を感じていた。

 思えば婚儀の時も、そしてその後の祝宴の時も、まるで自分を中心に世界があるのだと言わんばかりの尊大な態度で侍女や女官たちに接する様は、好ましいとはとても言えなかった。

 もちろんこの榛国にだって身分の上下はあるが、それは他人を自分の前にひれ伏せさせるためにあるのではないのだ。そのことを、ギュルシェンの公主はわかっていない。

 女官長がそれを諭そうとしたのだが、彼女は女官長を見下し、全く聞く耳を持たないのだから尚のこと悪い。良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らう、とは古人の言葉だが、そうして自分を諌める人間の存在がいかに有り難いのかに気付かなければ、待っているのは自身の破滅なのだ。

 だが、柊影は公主がどうなろうと知ったことではないと思っていた。もともと彼女に興味など無かったし、いずれ後宮で居場所を失ったとして、それがなんだというのだろうか。

 自分が飢えることなく恙なく暮らせるのは、陰に民の苦労があるからだと知ろうともしないその姿に、生国と柊影の部下とにに利用され、意に沿わぬ結婚を強いられた娘を憐れみ、案ずる気持ちは、最早無くなっていた。

 その無関心が、柊影の足を婚儀の祝宴から抜けさせた。公主は貴族の男たちが太鼓をたたくのに浮かれ、慣れない酒の杯を重ねてご機嫌な様子で、柊影が抜けたことにも気づかぬ様子だった。

 公主の隣で宴の間中、西国特有の強い香水の香りを嗅がされ続けていた柊影は、どこか深呼吸できるような人気のない場所を探していた。

 そして無意識のうちにたどり着いたのは、内廷の片隅に忘れられたように存在する書庫だった。

 書庫はシンと静まり返っていた。柊影を包むのは何故か心安らぐ書物の香りだ。決してこちらに干渉することはなく、ただ静かに読まれる時を待つ本というものが、柊影は好きだった。

 柊影は微かな蝋燭の明かりを頼りに、書庫の奥へと向かう。そして、ある一冊の本がそこに帰ってきていることを発見すると、無意識のうちに胸を弾ませていた。

 蝋燭の火が本に届かぬよう、慎重に手燭を傍の棚に置き、心地よい緊張の中でその本を開いた。

 ――あった。

 彼女が書庫に本を返した時点で、既にあることはわかっていたのだが、その手紙を実際に目にすると、安堵にも似た不思議な感情が胸の内に湧いてくる。

 柊影はその手紙をそっと懐にしまう。そして、今度はその手紙と同じ頁に挟まれていた花に目をやる。白い沈丁花は、押し花にされてまだ間もないのか、微かに芳香を放っていた。静かに癒すように薫るその香りは、この花を挟んだ娘の姿に重なる。

 フッと自分の肩の力が抜けて、柊影は目を閉じた。

 押し花を挟んだのは、自分の些細な思い付きからだった。そして、手紙を贈ろうと思ったのは、相手を気遣う彼女の優しさに触れたからだった。……それが、気付いた時には病み付きになっていた。

 手紙が届くのがこんなに待ち遠しいものだと思ったのは初めてのことで、自分でも驚いているし、彼女とのこの穏やかで心地よい関係を壊したくないと思っていることにも驚いていた。

 以前、鄭啓はそんな柊影を見てなぜか楽しそうに笑い、その時柊影がちょうど採ってきたばかりの花を指先でくるくると玩びながら、こう言った。「貴妃様は、陛下にとって特別な存在なのですね」と。

 その瞬間、柊影の背筋を冷やりとしたものが通り抜けた。柊影は鄭啓の言葉を聞いて、自分の中にある感情が恐ろしくなっていた。

 今はただ心地よいだけのこの名前のない感情が、いずれ何になるのかを柊影は知っている。今は亡き女性に向けて、その特別な感情を抱いたことがあるからだ。そして、その先に待ち受けていたのが喪失と憎しみであったことも知っている。だから、自分は心を持つべきではないのだ。

 柊影は『杏林本草』を静かに閉じた。そして手紙だけを持って、書庫を後にすることにする。

 ところが、その足は書庫の出口のところで止まる。微かな人の気配を感じたのだ。だが、それは柊影が良く知る彼の密偵のそれだったから、そのまま無視をして祝宴の会場へと戻ったのだった。

 


 柊影は、嬪の一人が話す言葉に耳を傾けながらも、周りに気を配る貴妃を見つめていた。透けるような白い肌に、目元を縁どる長い睫毛。薄紅の柔らかそうな唇に、思慮深い光を宿す濃い緑色の瞳。

 美しい娘は柊影の視線に気が付くと、春風のように優しく微笑んだ。

 柊影はその途端に、視線をふいと逸らす。自分に笑顔を向けないで欲しいと思いながら。だが、一度逸らした視線は気付けば貴妃のもとに戻ってしまう。

 心の内では、やめておけと声がしている。それは警鐘のように危険を告げるものだ。これ以上、貴妃と関わるな、心を晒すなと。そしてその声は、貴妃に宛てて手紙をしたためる時にも響くのだ。

 その度に柊影は自嘲する。心を持たぬ自分に、晒せるような心など無いのだと。貴妃のことをもっと知りたいと思い、自分のことをもっと知ってもらいたいと思うのに、彼女にさらけ出せる自分と言うものが無いのだ。

 それが訳のわからぬ葛藤となって、柊影は苦しくなる。苦しくなるのなら手紙などやり取りしなければいいのだが、しかしその一方で、そんな柊影を救うのもまた、貴妃の手紙なのだ。

 だから今日、この茶会への出席を決めたのも、ひとえに貴妃の存在があったからだ。彼女が主催する茶会ならば、否が応でも彼女に会えるのだ。その恙ない姿を見ることができたなら、身勝手でどうしようもない自分が、少しだけ救われるような気がした。

 けれど同時に、茶会で彼女に会って、彼女が淑妃に対して負い目を感じていなければ、もう手紙のやり取りを止めようと思っていた。

 そうして茶会に出てみれば、貴妃は淑妃に負い目を感じるどころか、こちらが感心してしまうほどに、しっかりと主催者の役を果たして見せた。それはもう、柊影が案じる必要が無いほどに完璧だった。

 だから、もうこれで終わりにしなければならない。それなのに、貴妃の微笑みを見てしまうと、胸が飢えたように疼く。もっと、彼女の微笑みを見ていたいと。自分で自分の感情がわからなかった。

 言葉を交わすわけでも無く、ただ無言で視線を合わせる皇帝と貴妃を、貴妃とは反対側に座る淑妃が、面白くなさそうに見ていた。そして、柊影の気を引こうとばかりに、柊影に声をかけてくる。

 淑妃の口調も声音も、甘えるような媚を含んでいて、それが柊影を不快にさせる。同じ公主という立場でも、他国にはもっと矜持を持って、誰にも媚びない気高い姫もいるというのに。

 淑妃への態度は自然と冷たいものになり、他の者へも同じような態度を取り続けた。けれど、それが普段の柊影なのだ。だから貴妃への葛藤も表に出ることは無かった。






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