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※柊影視点
柊影が鄭啓からその話を聞いたのは、一月ほど前だった。
「今、何と言った?」
鄭啓の言葉に、柊影は眉間に皺を作って鄭啓を睨んでいた。
「西のギュルシェン国の姫を、この度陛下の側室に迎えることが決まりました」
鄭啓は表情を変えずにそう言った。
「決まりました、というのはどういうことだ?私は何も聞いていないが」
「もちろんです。今初めて申し上げましたから」
「……何を企んでいる。私の側室を、なぜ私ではなくお前たちが決める?何の権限があってこのようなことをした」
柊影が一段と声を低くして訊ねると、啓は企むなど、と言って首を振った。
「ギルシェンは榛に比べればはるかに小国ではありますが、西のオアシス国家の中でも歴史が古く、あの地域の盟主たる国です。此の度国王が代替わりをしましたが、新たに即位された国王は、我が国との強い結びつきを欲しておられるのです。ちょうど彼の国の王には年頃になられる妹姫がいらっしゃいますし、我が国としても、西国と繋がりを得られるのは良いことです。最近西側は小国間の小競り合いが続いていて不安定で、陛下も周辺諸国と友好関係を築くために苦心していらしたので、この縁談にご納得くださると思い、お受けしたのです」
「確かに、友好関係を築くというのには異論はないが、他に方法があるだろう。私は後宮に新たに女を入れるつもりはない」
「そうはおっしゃいますが、貴方は後継問題も考える必要があるのですよ。今のところどなたも陛下のお心を射止めた者がいらっしゃらないようですから、新たに人を加えるのは妥当なところです」
「必要ない。貴妃が後宮に入ってまだ一年しか経っていないのだぞ」
「まだ、ではなくて、「もう」一年です。貴妃様がご懐妊されるどころか、陛下は貴妃様のもとへもいらっしゃらないとうかがっています」
「それは貴妃だけでなく、他の嬪たちとて同じことだ。だからこそ、その姫とやらを入れても、何も変わりはしない。私は後宮の女になど興味は無いんだ」
「御冗談を。ご興味が無いのでしたら、この度のご側室のお話も、そもそも反対などなされないでしょう。無関心を通して、放っておけば良いだけのことなのですから」
「違う。そういう問題じゃないんだ。啓、わかっているのだろう?私はもう誰も愛することができない。心を与える相手など必要ないんだよ。愛されないとわかっているなら、後宮などという閉ざされた場所にその姫を押し込める必要はないだろう?」
柊影の言葉に、鄭啓は悲しそうに目を伏せる。
「それではなぜ、貴妃様を後宮に入れられたのですか」
鄭啓の問いの言葉は、答えを聞くためというよりは、柊影を責めるために発せられたようだった。恐らく、欧陽先生と同様に鄭啓もまた、貴妃が後宮へ呼ばれた本当の理由を知っている。
柊影は押し黙った。そんな柊影を再び射る様に見つめながら、鄭啓は「とにかく」と言葉を発した。
「とにかく、この話は既に両国間で取り決められたものですので、変更はできません。陛下は了承だけしてください」
「だめだ。それに、まだ聞いていないことがある」
「なんですか?」
「その姫とやらを、いったいどれほどの位に付ける気でいたのだ?」
「ああ、それは四夫人の一つ、淑妃を考えております」
淑妃と言えば、貴妃と同じ正一品だが、その二つの位には僅かな差がある。例えば宮中の行事に両者が参加する場合、先に名を呼ばれるのは貴妃といった具合に。けれどこの僅かの差が大きな差でもある。後宮では依然として貴妃がその頂に立つことになるのだ。
「それは、ギュルシェンとしては不服ではないのか?」
「さあ。不服があったとしても、我々は既に、淑妃で満足できないのならば後宮入りの話を断るつもりだと伝えてありますから。それでも話を進めてきたのは向こうの方です。いずれにしろ、我々とて貴妃様に恥をかかせるようなことはいたしませんのでご安心ください」
「そのために、西の姫に恥をかかせるのか?小国とはいえ、一国の公主だぞ。後宮に入ったあと、貴妃にいわれのない恨みでも抱いたらどうするのだ」
「その時は、陛下が貴妃様を守って差し上げるか、あるいは淑妃を皇后にでも取り立てられたらよろしいではありませんか」
「啓!」
柊影が唸るように声を上げると、鄭啓はため息を零した。
「とにかく、これは外交でもあるのです。それを忘れないでくださいね。では!」
鄭啓は話はこれまで、とばかりにさっさと部屋を出て行った。
それを見送った柊影は、一つ、深く息をついた。
「師匠、どうにか話を通して来ましたよ」
太師の部屋に入るなり、鄭啓はぐったりと椅子に腰かけた。それを彼の師である欧陽俊が、にやにやと見つめた。
「ご苦労ご苦労。陛下は怒っておっただろう」
「当たり前です。陛下は静かに怒るから、本当に怖いんですよ。稲妻が光る直前の大気のように、空気をピリピリとさせていて。それでいて、部屋の空気は真冬のように寒いんですからね」
鄭啓の言葉に、欧陽俊はホッホッと声を上げて愉快そうに笑った。
「師匠、ちゃんと上手く行くんでしょうね?」
鄭啓は笑い続ける欧陽俊を睨みながら言った。
「さぁての。だが、陛下の反応を聞く限り、上手く行きそうじゃ」
「上手く行きそうでは、ダメです。確実に上手く行ってもらわないと。何せギュルシェンまで巻き込んでいるんですからね」
「なに、あの国は思惑を持って自分から足を突っ込んできたんじゃ。こちらが利用したところで、文句は言えまい」
「ですが、あの国の姫は厄介ですよ。今は無き父王に溺愛され、兄王にも可愛がられてきたため、かなりの自己中心的な性格になっているとか。陛下も心配されていましたが、あの控えめな貴妃様では、姫に太刀打ちできません」
「さて、どうかのう。貴妃様は芯が強いお方ゆえ、もしかするかもしれぬぞ。いや、もしかしてもらわなければ、陛下のためにも」
「……楽しそうですね。あの二人をくっつけるためとはいえ、師匠は楽しみ過ぎなんじゃないですか?」
「馬鹿者!これを楽しまずにおれるか!」
ウキウキとしている高齢の師匠を前に、鄭啓はあからさまにため息を吐き、頭を押さえた。
「あの陛下のことですから、我らの考えも見抜かれてますよ、きっと。姫君が後宮に入る話だって、煌娟に無理を言って、陛下の密偵たちに情報を陛下に伝えないようにしてもらったんですからね。本当に苦労しましたよ。まあ、煌娟が貴妃様のためならしょうがないと渋々協力してくれたから、ここまで準備ができたわけで。きっと密偵たちはあとで陛下に大目玉くらってますよ」
「そうじゃな、あとで酒でも差し入れるか」
密偵たちは陛下の命でいつも情報収集に走り回っているようだし、いつ陛下から他の命令が来てもいいように、常に仕事ができる状態でいるのだ。だから、仕事熱心な彼らは、師匠が酒を差し入れたところで絶対に飲まないだろうなと考えながら、鄭啓は再びため息を吐いたのだった。




